… Sunday am …
… Sunday am …
『亮ちゃん? ……あ、どちらさまですか?』
バーコードおじさんから衝撃の犯罪を聞かされ、重苦しい気分のまま、理沙さんの部屋をノックした。生霊であることが判明した理沙さんは、今日もリョウを待っていたらしい。わたしを見たら残念そうな、戸惑ったような顔をされてしまった。
「えっ、あの……ひろですけど。昨日、リョウに呼ばれてここに……」
問われて面食らいながらの答が終わらぬうちに、理沙さんは両手で口を押さえた。
『きゃ、ごめんなさい、ひろちゃん。あたし、覚えが悪くて』
轟系の必殺申し訳なさ顔だ。こんなツヤツヤつぶらな瞳に見上げられて許せない人には、心がないに違いない。
(そういえば隈取り美容師さんが言ってたっけ。理沙さんは物忘れがひどくて、常連さんの顔を覚えられないって)
一回しか会っていないわたしが覚えてもらえないのも当然か。気にしないでね、と言っておいた。
『そっちは? ひろちゃんのお友達?』
理沙さんはひょいと首を伸ばして、わたしの後ろの轟を覗き込んだ。一瞬瞳が凍りついたところを見ると、事件後に男性恐怖症になったという話は本当らしい。
「あ、これ轟っていうの。リョウとも知り合い。大丈夫、極めて人畜無害」
轟は生霊さえ怖いらしい。こうして見ると理沙さんが轟をというより、轟の方が遥かに理沙さんを怖がっている。
霊とは頭の中で会話できる。これは霊感がある者と霊との、一対多の電話みたいなものだ。霊が話すことは多数の霊感持ちに聞き取れるけど、一人の霊感持ちが頭の中で話すことは、霊には聞こえても他の霊感持ちには通じない。霊感持ち同士でも通じない。修行を積んだ人同士なら通じ合うのかもしれないけど、わたし程度の霊感持ちはそんなもんだ。
だから霊との会話を他人に聞かれたくない時は、口でなくて頭で話す。霊を信じてない人の前で霊と口で話すと、まず間違いなくおかしな目で見られるからだ。轟や千歳は、霊感がなくても霊の存在を信じてくれている。わたしがいきなり口で霊としゃべりだしても、彼らは霊がいるということを気味悪そうにはするが、いい加減驚いたりはしない。
ドアからやけに距離を取った後方から様子を窺っていた轟は、紹介されて覚悟を決めたらしい。おずおずと近づいてきた。
「ひろさん、人畜無害って……農薬みたいな紹介しないで下さい……」
ぼそぼそ嘆いてる轟の声を聞いて、理沙さんの難しそうにしてた眉がぱっと上がった。情けなさそうに身を縮めている轟はそれこそ無害だ、と分かってもらえたらしい。
『理沙です、こんにちは』
生霊さんは一転してにこにこしている。理沙さんの会話と様子を説明すると、轟は照れつつぺこりと挨拶した。霊感がなくて理沙さんがどこに立ってるか見えてないもんだから、ハズしてただの虚空に頭を下げてたりするわけだが。
理沙さんには、不思議と警戒心を抱かせない明るさと子供っぽさがある。きっとあの口の悪いリョウも、ついつい優しい気持ちになってしまうに違いない。この純粋さを踏みにじった卑劣なヤツがいるのかと思うと、脳が沸騰しそうに怒りがこみ上げた。
白々しい円形蛍光灯の下、優しくて可愛い色と形で作り上げられた理沙さんの城は、遠い昔に失われた楽園のように見えた。ここで理沙さんは重い一酸化炭素中毒に倒れ、性犯罪の被害に遭ったのだ。
リョウはその部屋をずっと借り続けている。そして時折訪問している。嫌な思い出の場所を、どうして引き払わないんだろう。理沙さんが退院したとしても、ここに住みたがるとは思えない。
(もしかしてリョウはここで霊の気配を感じたりしたのかもしれない……それが何なのか知りたくて部屋を借り続けてたら、たまたま仕事で知り合ったわたしに霊感があることが分かって、渡りに船と呼びつけたのかも)
『あ、ひろちゃん、カラーリングしたの? その色、大好き! おそろい! ねね、このカラーに合う口紅はね……』
実に呑気にメイクの話を始められてしまった。どうして生霊になってここに住みついてるのか、切り出すチャンスを窺いつつ適当に話を合わせる。轟は部屋の隅、と言っても六畳間だから隅も真ん中もないに等しいのだが、隅と思われる場所で緊張気味に正座して話を聞いているようだった。
そこへ突然、どんどんっとドアが叩かれて飛び上がる。轟も驚いたらしく、片膝を立てておろおろ見回している。わたしの背後に逃げ込みたいけど、男として見に行くべきか迷っているに違いない。轟は番犬というより愛護犬だ。
『亮ちゃんかな?』
わたしと轟がためらっているあいだに、理沙さんはぱっと立ち上がって出迎えに行ってしまった。リョウならここの鍵を持っているはずだし、ノックなんて殊勝な真似をする訳がない。リョウ以外の生きてる人間なら理沙さんの生霊に出迎えられても困るだろう、と慌てて後を追った。
そーっとドアを開けてみると、お隣のバーコードおじさんだった。作務衣の胸に何やら紙袋を抱えている。
『すみません、どなたですか?』
理沙さんはまたしても、その質問を繰り返している。わしのことなんて覚えとらんだろうな、と嘆いていたおじさんの予想は悲しいかな的中していた。でもおじさんには霊感がないらしく、理沙さんの声が聞こえていないようだ。知らぬが仏。
「おじさん、どうしたんですか?」
聞くと、ヨレた紙袋を渡された。覗くと中に入っているのは、高さ二十センチくらいの木像のようだ。人なのか猿なのか……聞いたらおじさんの自尊心を傷つけるんだろうな、やっぱ。やめとこ。
「高木さんの病気平癒祈願に、わしが彫ったんだ。届けてもらえんかな。小包だと壊れそうで怖くてね、手元に置きっぱなしだったんだが……」
『あっ、その声! なーんだ、おじさんだったんだ。着物だからそうかと思ったけど。ずいぶん髪が減ったから、違うかと迷っちゃった!』
おじさんに聞こえてなくて心底良かったと思うようなことを、理沙さんは悪気のなさそうな笑顔で言い放っている。天真爛漫というのは時に周囲を慌てさせる、という見本のようだ。
そういえば、理沙さんの荷物を取りに来たようなフリをしたんだった。だから届け物を頼まれても断れない。
「はい、必ず届けますね」
内心、パシリかコノヤロウと思いながらも、そつなく笑顔で答えた。これで、理沙さんの実体がいるリハビリセンターまで、はるばる行かねばならないことになってしまった……。
「ひろさんひろさん、ちょっと」
バーコードおじさんにお帰り願って、さあ理沙さんに話を聞くぞと気持ちを立て直したというのに、轟にドアの外へ招き出されてしまった。理沙さんに聞こえない場所で話がしたいらしい。
「ひろさんは、理沙さんの後遺症がどんなか、聞いてるんですか?」
ばちばちと音を立てて蛾がたかる、弱い電灯が照らす光の輪の端っこで声を潜める轟。聞かれてみて、知らないことに気づいた。
「僕は、相貌失認なんじゃないかと思うんですが……」
出た。轟には毎度のように、医療の専門用語らしきものをすらっと口にされる。簿記もこの調子で覚えてくれれば、教えるわたしも苦労しないのだが。
「おかしいと思いませんでしたか? 理沙さんって、ひろさんのこともおじさんのことも知ってるはずなのに、今日会った瞬間は気づいてなかったでしょう」
「あ、同僚の美容師さんが言ってた。物忘れがひどかったって」
轟ってば、何でそんな真剣な顔してるんだ。
「さっきのおじさん、事件以来症状が進んで、理沙さんがリョウさんさえ怖がるようになった、って言いましたよね。あの言い方って事件が起きたせいで怖くなった、じゃなくて、事件をきっかけに症状が進んだことで怖がるようになった……ってニュアンスじゃなかったですか?」
何が言いたいのか分からない。
「それに、犯人を捕まえようにも理沙さんが顔を言えないんじゃ……とも言ってましたよね。顔を見てないんじゃ、じゃなくて」
「あのー、ごめん。そうぼう何とかって何なの」
轟は、わたしがそこを分かってないとは思ってなかったらしい。医者一家に生まれ育つと、周囲には医療用語が分からない人なんていないんだろう。
「あ、すいません。そもそも一酸化炭素中毒の後遺症っていうのは、脳の障害なんです。知ってると思いますけど血中のヘモグロビンは酸素よりも一酸化炭素と結合しやすくて、中毒になると酸欠に陥るわけです。それが長時間に及ぶと、脳の機能が破壊されちゃうんです」
脳の酸素が足りなくなってしまうわけか。
「ひろさんの突発性難聴は内耳の障害ですから、分かりますよね。音自体は聞こえてるのに、何て言ってるのかは分からない、聞き分けられないって感覚」
それは分かる。左耳に話しかけられてるのは確かなのに、それが単にごちゃごちゃ意味のない羅列なのか、きちんとした文章なのかが理解できない。そのうえ聴力そのものも良くないから、聞こえているとは言いがたい。
「相貌失認は、それの顔バージョンなんです。記憶障害の一種ですね。顔を見ていても覚えられない、見分けられない、良く知っているはずの人も誰だか分からないんです。だから、顔じゃなくて声や衣服で個人を識別しなきゃならないんです」
――んー、おっちょこちょいっていうかね、物忘れがひどかったみたい。ほら、美容師ってお客さんがついてくれなきゃ商売にならないでしょ。ここ小さな町だから常連さんばかりなんだけど、その常連さんの名前や顔が分からなくなったりしちゃ、ちょっとね……――
隈取り美容師さんとの会話を思い出した。あの時は後遺症がひどかったのかと聞いたのに、隈取りさんは理沙さんのおっちょこちょいがひどかったことを答えているのだと思っていた。そうじゃない。隈取りさんは、ちゃんと後遺症についても答えてくれていたんだ。理沙さんは常連さんの顔さえ見分けられなくなってしまってたんだ。
そうか、さっきのバーコードさんもだ。理沙さんはどなたですかって聞いてたけど、あれはバーコードさんを忘れてしまってたんじゃなくて、顔を見てもバーコードさんだと分からなかったからなんだ。声と作務衣でお隣のバーコードさんだと気づいたんだ。
「僕たちは、役者さんが髪型や衣装を変えても、顔を覚えてるからその役者さんだって認識できるじゃないですか。でも相貌失認の人は顔が見えてるのに覚えられないから、声や服装が変わってしまったらもうそれが誰だか分からないんです」
轟は眉でハの字を作り沈痛な面持ちになって、一瞬言い淀んだ。
「もしですね、それを知ってて理沙さんに好意を寄せていた人が、その……卑劣な行為に及んだとしたら……」
「ひどいっ!」
そいつは、理沙さんがモンタージュさえ作れない、顔を覚えられない障害があるのをいいことに、犯人だとバレずに逃げ延びることができると計算してたことになるのだ。卑劣極まりない。ぞわぞわと怒りに鳥肌が立つ。
「許せない。絶対とっ捕まえてもう、ギッチギチにシメてやる!」
理沙さんの生霊に話を聞かねば、と部屋に飛び込もうとすると、轟にわたわたと肩を掴まれた。
「待って下さい、話終わってないんですが」
「何よっ!」
「す、すいません」
噛み付きゃしないんだから、そんなに怯えなくても……じゃじゃ馬とは言われたけど、猛犬じゃないんだからさ。
「えっと……おじさんは、理沙さんが事件後にリョウさんさえ怖がるようになったって言ってましたよね。あれは事件のせいでリョウさんも怖いほどの男性恐怖症になったって言うよりむしろ、相貌失認の症状が進んで男性は皆同じに見えてしまうようになったからで……。ということはもしかして、顔を見分けられなくなったのはお隣さんだけじゃなくて……」
初夏の夜の生ぬるい風が吹いているはずだった。でもいきなり寒くなって、思わず自分の肘を抱く。
「まさか……理沙さんは相貌失認のせいで、彼氏であるリョウの顔さえ分からなくなっちゃったの……?」
「あのね理沙さん……突然つらいこと聞いちゃって申し訳ないんだけど……事件のこと、覚えてる?」
部屋に引き返して、またメイクの話にならないうちに恐る恐る切り出した。
『事件って、どの?』
眉根を寄せて、理沙さんは心当たりがありすぎて困っているようだった。そうか、リョウと暮らしてたら事件が絶えなかったんだろうな。あいつ、昔っから悪いことしてそうだし。
「あの……男に、嫌なことされたんでしょ?」
黒大理石の器から水が溢れるように泣き出した理沙さんを慰め続けること、小一時間。
『亮ちゃん、あれから話してくれない』
ぺったり座り込んでしゃくりあげる隙間から、理沙さんは搾り出した。
『来ても黙って煙草だけ吸って、帰っちゃうの……あたしのことなんて見向きもしてくれない。あんなことになったからあたしのこと、ずっと怒ってるみたい……』
(黙って煙草だけ吸って帰る……?)
リョウは電話しても滅多につかまらない、忙しいヤツだ。いくら彼女とはいえ、見舞いに行っといて黙って帰るなんてことするだろうか。話したくないなら、あのリョウがわざわざ病院に足を運んだりするとは思えない。行かないに決まってる。
(ってことは)
ローテーブルの上にあった空き缶と吸殻。もしかして理沙さんが言ってる煙草吸って帰るリョウって、見舞いに来たリョウじゃなくて、この部屋に来てるリョウなのでは。
「えーっと……それって、リハビリセンターじゃなくてここでの話……?」
その質問が、涙の蛇口を閉めたらしい。理沙さんはぽかんとしている。
『リハビリセンター?』
話してみると、一酸化炭素中毒になった直後の入院は覚えてても、リハビリ専門施設への入院は知らないようだった。この現実と記憶のギャップはきっと、生霊が実体から分離したタイミングに関係してる。理沙さんの生霊がいつ生まれたかというのは、どうして生霊になってしまったのかを知る、大事なポイントなのではないだろうか。
隈取り美容師さんとバーコードおじさんの話を頭の中でまとめてみる。理沙さんは去年の二月ごろ、一酸化炭素中毒になった。一ヶ月くらい入院して、若干の相貌失認の後遺症を残したまま復職する。そして隈取りさんの手で、この色にカラーリングしてもらった。その日に性犯罪の被害に遭う。そのショックで男性恐怖症になり、相貌失認も悪化する。翌日に美容院を辞めて、リハビリセンターに入院したはずだ。
女の子らしく可愛く飾られた部屋で唯一散らかされていた、ローテーブルの上の大量の吸殻。あれは理沙さんのリハビリ施設入院後も、リョウがここを訪れていた証拠だ。
一方、生霊の理沙さんはリハビリ施設への入院を知らずに、ここにいる。だから事件後に会ったリョウ、黙ったまま見向きもしないリョウというのはやっぱりその、入院後の実体の理沙さん不在の部屋で、一人で煙草を吸って帰るリョウだということになる。
この理沙さんは、リョウがリョウだって分かってる。事件のことも覚えてる。おじさんの話と轟の推測では、事件後に理沙さんはリョウさえ見分けがつかなくなって、怖がるようになった。だから犯罪に遭って相貌失認が悪化する、そのあいだのどこかで生霊の理沙さんは生まれたんだ。そして、ここでリョウを待ち続けている。
拷問を受けることに慣れてしまった人は、自らの意思で失神することができるという。性犯罪の最中かその直後で、理沙さんは無意識にそれと似たようなことをしたのかもしれない。事件の時に意識を飛ばそうとして、それが生霊としてここに残っちゃってるんだろう。
理沙さんが生霊を出してしまった経緯を察して、涙がこみあげてきた。その生霊さんと二人して、泣き顔を見合わせる。
『何度も謝ってるのに……』
そんな風にぺたりと座り込んで、途方に暮れた顔をされると。弱りきって端が下がった眉毛の下の、濡れたまつげをぱちぱちされると。そりゃ押し倒したくなる男がいるのも分かる気がしてくるほど可愛いんですが。
でも、理沙さんが謝ることじゃない。事件の被害者になったことも、リョウが怒って帰ってしまうように見えるのも、理沙さんのせいなんかじゃない。どうにかしてあげなきゃ。
「理沙さん、自分がその……どんな状態か、気づいてないんだよね?」
リョウが訪問時に黙って煙草だけ吸って帰るのは、理沙さんの生霊がいることが分からない、あるいは気配を感じたとしても確信を持てないからに違いない。そこに思い当たらないとなると、この理沙さんは自分がリョウに見えてないこと、生霊であることを知らない。
『ごめんなさい、あたしまた何か忘れてる? いけないことした?』
「ううん、そうじゃなくて……」
最初、理沙さんは亡くなったことを知らずに留まっている霊なんだと思って、どう自覚させればいいのかと考えたんだっけ。それよりはマシな状況という気はするけど、生霊であることを説明するのは、いずれにせよややこしい事態であることに変わりはない。
「ひろさん……生霊の理沙さんは、別人格として主人格の理沙さんの痛みを引き受けているんじゃないでしょうか」
考え込んでいると、轟がひそひそと、また何やら難しそうなことを耳打ちしてきた。
「多重人格障害に似てると思いませんか? 多重人格障害の人は幼児期に虐待を受けていることが多くて、その過酷な状況から主たる人格を保護するために、苦しみを背負う別人格を生み出すんじゃないかって考えられてるんです。理沙さんの場合、それを別人格じゃなくて生霊として分離して、事件のつらさを消化しようとしてるんじゃないでしょうか」
心が傷つくのを恐れて意識を飛ばしたのでは、というわたしの推測と似たようなことを思っていたらしい。医学寄りに考えるところが轟っぽい。
「それってどうやって治療するもんなの?」
「人格同士をお互いに認識させて、話し合うみたいですね。そうすることで最終的には主たる人格が、多重人格障害の原因になった経験と向き合って、受け入れることで別人格が解放される……らしいです」
それに沿って考えると、生霊の理沙さんと実体の理沙さんを対面させるということになるかと思うが。
「でも霊感がなきゃ、実体の理沙さんには生霊の理沙さんが見えないし、話もできないじゃない! 初対面で、あなたの生霊がいるんですがー、っていきなり話して信じてもらえると思う?」
経験上、轟や千歳みたいに、霊感がないのに霊の存在を信じてくれるほうが貴重なのだ。轟も自信なさげに首を傾げてしまった。
(生霊と実体の交流が無理だとしたら、どうしたら生霊の理沙さんは実体に戻ってくれるんだろ……)
「ねえ、轟。理沙さんはさ、事件後に後遺症の相貌失認が悪化して、リョウまで怖がるようになったんだよね。だったら……生霊を戻したら、またリョウを認識して怖がらなくなるかも。だって生霊の理沙さんは、部屋に来たのがリョウだって分かってるんだもん。リョウを識別できる程度には残ってた相貌認知能力が、事件当時に生霊と一緒に出ちゃったのかも」
腕組みに正座で懸命に解決策を考えてくれていたらしい轟は、ぱっと明るい顔を上げてうんうん頷いた。柔らかそうな毛先がぶんぶん揺れる。
「僕、嫌がってるのに見習いしちゃうひろさんの気持ち、分かってきた気がします。手伝いたいです」
にっこりえくぼ作って、まるでわたしがお人よしみたいな言い方するのはやめて欲しい。
「違う違う。だってこれどうにかしないと、わたしアパートの鍵もらえないから」
「そうでしたねー」
信じてるのか本当に? 何でますます笑顔になるんだ。
『ひろちゃん……?』
おっと、理沙さんのことを忘れて轟と話し込んでしまった。グラボブが縁取るあどけない顔にぐぐっとすり寄った。
「理沙さん、安心してね。リョウは怒ってるんじゃないから」
もし本当に怒ってるんだとしたら、リョウはわざわざ喧嘩相手の暮らしていた部屋を借り続けて、そこに煙草を吸いに来たりしないだろう。リョウは理沙さんを想ってる。吸殻が空き缶に溢れるくらいの回数、頻度で理沙さんを想いに来てる。
(そんな情の深いヤツには見えないのに……)
「ちゃんと会わせてあげる。大丈夫、中毒で倒れた後、リョウは一緒に暮らそうって言ってくれたんでしょ」
嬉しそうにはしゃいでいた、と隈取り美容師さんが教えてくれたっけ。
『うん』
何でだろう。ピンクの花がこぼれそうな満面の笑顔が、胸に刺さった気がした。
『亮ちゃんてね、滅多に謝んないの。でも中毒になった時は、何回も謝ってくれた。あの日、あたしたちまた喧嘩しちゃって、亮ちゃん出てっちゃって……あたし、そのあいだに倒れちゃったの。亮ちゃん、一回戻って来てくれたんだけど鍵かかってて、入れなかったんだって。呼んでも返事がないから、あたしがまだ怒って締め出してると思って、帰っちゃったんだって』
リョウを責める口調じゃなかった。自分のうかつさを反省してるみたいに、眉をハの字にして肩をすくめている。その弾みに寄った胸が存在をより主張してて、羨ましくなったりして。
『俺があの時に鍵を開けられれば、ドアなんてぶち破ってれば、後遺症出なくて済んだかもしれないのにって、何度も謝って、一緒に暮らそうって言ってくれたの』
鍵、という単語に心臓がぴくんとした。
「もしかしてその時、リョウって……鍵屋はやってなかった……?」
擬音語をつけるとしたら、ふぁさ、というのが当たりそうな扇のように濃いまつげが瞬きした。
『ううん、亮ちゃんっていつも怪しい運び屋みたいのしてて……』
リョウが理沙さんにどんなに本気か、思い知らされてしまった。理沙さんを助けたかったから。鍵さえ開けばもっと早く理沙さんを助けられたかもしれないのに、出来なかったから。だからリョウは鍵屋になったんだ。
(泣かせるじゃないか……)
『ひろちゃんって、いい人ね。ありがと』
きちんと笑い返してあげられたかどうか、自分ではよく分からなかった。
『轟くん、眠そうだけど。お布団出そっか?』
華奢な首を伸ばし、理沙さんはわたしの肩の後ろを見て笑った。振り返ると、轟は正座のまま舟を漕いでいる。
「轟、ここでちょっと寝かせてもらう? 生霊さんのいる部屋で大丈夫?」
後半は理沙さんに届かぬよう、声を潜めて聞いてみる。男にしとくにはもったいないくらい長くて、カーラーの必要がなさそうに上を向いた轟のまつげがゆっくりしばたいた。
「はあ……すいません。昨日あまり寝てなくて」
昨日。そういえば轟を騙してアコード借りる時、このままじゃ僕が眠れませんとか叫んでたかすかな記憶が。
「ごめん、車が心配で寝れなかった?」
睡魔にふわふわしていた眼が、その質問にびたっと定まった。
「車はいいんです。ひろさんが心配でした。飲酒運転で、携帯は通じないし……千歳なんか一晩中、ウロウロ部屋の中を行ったり来たりで」
「あ、そうだったんだ……どうもご心配をおかけしまして」
千歳まで巻き込んで、そんなに心配してくれてるとは思わなかった。もぞもぞと正座して頭を下げる。
「ひろさんはいつも行っちゃう側で、しようとしてることに気持ちが向いてて、忘れちゃうのかもしれませんけど……置いていかれる側は、そうじゃないんです」
「はい、すみません」
優しい威厳は神父さまの説教みたいだ。轟ってば、いい聖職者になれるんじゃないだろうか。教師もいいかも。
「どこで何してるのか、危険な目に遭ってないか、また怪我してるんじゃないか、もしかして……またどこかに倒れてて、今この瞬間にも必死に助けを求めてたり、寂しい思いをしてたりするんじゃないかって、気が気じゃないんです。僕たちがうっかりしてたせいでひろさんが怪我した日のこと、どうしても思い出しちゃって……」
轟はしゅんとして語尾を細らせてしまった。落雷で右耳まで聞こえなくなって入院したことや、おじいちゃんの事件で刺されたことを、二人はいまだに気にしているらしい。
「あれは轟や千歳のせいじゃないんだけど」
「ひろさんはそう言ってくれるけど、僕や千歳にとっては違うんです。ずっと後悔してます」
理沙さんが中毒になったのは、リョウのせいじゃない。でもリョウは、鍵さえ開けられれば理沙さんの後遺症は軽くて済んだかもしれないと謝った。それと同じ感じで轟も千歳も、わたしから眼を離したくないのかもしれない。わたしは自分が怪我する以上に、彼らの心に傷を負わせてしまっていたんだ。
「ごめんなさい。なるべく自重します。携帯もちゃんと充電します」
ぺこぺこ頭を下げながら謝ると、轟はふっと目尻を緩めて、いつものレトリバーの笑顔になった。
「じゃ、千歳と仲直りして下さい」
返事を待たずに、轟は何やら携帯を操作している。差し出されて受け取ってみると、すでに呼び出し音が鳴っていた。
『轟? 今どこ? ひろさんの車酔い、大丈夫そう?』
勢い込んでたたみかけてきたのは千歳だ。車酔いのことを知ってるとは……轟ってば夕方にファミレスを出発してから、こっそり千歳と連絡取ってたのか。
「うん、もう平気。昨日は心配かけてごめんなさい」
一瞬と呼ぶには長い、三瞬くらいの沈黙があった。
『……こんなにしおらしいなんて有り得ないと思うけど、まさかひょっとしてもしかすると、ひろさん?』
素直に詫び入れてる人に向かって、何て言い草だっ。どきどき待ち構えていたというのに、思いっきりわざとらしい不審そうな声を出すな。
「そのまさかですみません、ひろです。何なの、人が珍しく反省してるのに!」
有り得ないと言われたのを抗議しといて、自ら珍しいとか言ってしまった。まあいいや、頻度の問題だ。
『今どこですか。轟と二人でホテルなんてことないでしょうねー。くっそー、俺を差し置いて』
「千歳じゃあるまいし、轟に限って送り狼とかするわけないじゃん」
いきなり狼嫌疑をかけられたのを察して、むしろ子羊タイプの轟はあたふたしている。
『そんな呑気に構えてるから、俺の気苦労が絶えないんじゃないですか!』
訳が分からん……。謝ってるのに何なんだ、その軽い反応は。
「ええと……もしかすると水に流そうとしてくれてんの、それって?」
はー、と何やら聞きなれた長い溜息が聞こえた。
『あのねえ、ひろさん。そういう気配を察したら、そっちも黙って流してくれなきゃ意味ないでしょう』
なるほど、そうなのか。
「ありがとうございます……」
電話の向こうだというのに思わず頭を下げてしまった。中年のサラリーマンみたい。それを轟に見られてしまって、恥ずかしくなる。
『でも俺も、ほんとにすいませんでした。余計なことして怒らせて……あんなに泣かせて』
そうだ、まだ黙って霊能者に会いに行った件が残っていた……。
「うん、まあとりあえずそれは置いといて、仲直りしてもらおうと思って」
少し間があった。何やら悩ましげな吐息が聞こえた気がする。
『ひろさん、会いたい……俺がうさぎだったら、もう三回くらい死んでる』
昼間、会ったばかりだと思うんだけど。
「えっと、明日はどうにかしてリョウに鍵をもらわないと、教科書もレポートも部屋の中だから大学に行けな……」
『この鈍感! 誰が大学で会う話なんてしてんですか、大ボケ! タコ!』
怒鳴られた……。それにしてもタコとは。千歳のそんな暴言、初めて聞いたぞっ。
「誰のどこが鈍感なのよ、失礼な! バカうなぎ!」
『うなぎじゃなくて、うさ……』
最後の会話は小学生並の低レベルさだったような気がするが、とにかく怒鳴り返して一方的に電話を切る。轟が呆れきった顔をしていた。
「仲直りの電話したのに、喧嘩して切るってどういうことですか……」
どういうことだろう……。
しばらくのあいだ干されてない布団は少々湿気ていたけれど、有難く借りることにした。理沙さんも並んで布団に寝転がって、何だか合宿みたいだ。轟はおやすみなさいを言って蛍光灯を予備灯に切り替えるかどうかで、もう寝息を立てていた。
『ね、さっき喧嘩してたのって、ひろちゃんの彼氏?』
好奇心丸出しだが、嫌な感じじゃない。おしゃべりしたくて仕方ないといった様子だ。くるくるよく動く瞳に覗き込まれると、つい何でもしゃべってしまいそうだ。
「全然違う。気があるみたいなこと言っといて、ほんっと口が悪いんだから」
千歳とのさっきのやり取りを話すと、理沙さんはきゅっと猫みたいに眼を細めて、くすくす可笑しそうにした。
『あたし、千歳くんに同情しちゃったな。ひろちゃん、会いたいとか声を聞きたいっていうのはね、好きだよって言ってるのと同じなんだから』
「そうなのー?」
『そうなの。亮ちゃんとひろちゃんって、似てるな。放置してても放置してるって気づいてないタイプ。ドライなんだなあ』
予備灯が照らすでもなく照らす優しい暗さのオレンジ色の中でくるんと仰向けになると、どこでもないどこかを見つめて、理沙さんは幸せな独り言みたいに話し出した。
『例えばさ、デートしてそれぞれの家に帰るでしょ。あたしはすぐに、今日は楽しかったねってメールするの。でも亮ちゃんからは返事なんて全然来ない。あたしからのメール見ても、あーそうだなとしか思わないんだって』
わたしも、あーそうだなとしか思わないんですが、いけないんだろうか。
『こっちは亮ちゃん無事に部屋に着いたかな、返事が来ないってことはまた不良と喧嘩してるんじゃないか、それともあたしといても楽しくなかったのかなってやきもきするのに』
楽しかったね、というメールでそこまで察してくれと言うのか。無理だ。そういう含みがあるなら、ズバリそう書いてくれなきゃ困る。
そういえば千歳って時々、だから用件は何なんだと思っちゃうようなメールしてくるっけ。あれはそういうものなのか。返信するほどのことでもないかと思って、毎回は返事しないけど……千歳からしたら無視されてると思うんだろうか。
『クリスマスもバレンタインも記念日もね、亮ちゃんって別にその日に祝う必要なんてないなんて思ってるの。もとから祝おうとも思ってないみたい。ひろちゃんは?』
確かにイベントって、お祝いしたいって誘われたら行くけど、なきゃないで構わないかも。何もしなくたって、当日じゃなくたって、死ぬわけじゃあるまいし。
そう言うと、やっぱりねーと諦めたように息をつかれた。いちいちイベント覚えてなくちゃいけなくて、しかも当日じゃなきゃダメだとは、なんて融通のきかない人たちなんだ。
『亮ちゃんやひろちゃんにとっては恋愛って、友達とか趣味とか仕事と同じか、ちょっとウェイトが下がるのかな。でもあたしや、たぶんその千歳くんにとってはそればっかり。朝起きたら、亮ちゃんご飯食べたかなって思う。昼間は、今頃何してるのかなって思う。寝る時は、どうして隣にいないのかなって寂しくなる……』
「……大変だね」
としか言いようがない。理沙さんはシャキッと音がしそうな素早さで振り向いて、ぎゅーんとあひる口を近づけてきた。いい匂いがする生霊っているんだなあ。すいません、どきどきします……。
『ちょっと時間あげたり、一言でもメール返したり、それだけでいいからしてあげて! じゃないと不安が抑えられなくて、一人でガーッと突っ走っちゃうかもよ』
千歳が貯金下ろして霊能者のとこに突っ走っちゃう前に、教わりたかったかも。
『ドライな人は、ウェットな人といると湿度がうっとうしいのかもしれないけど……ウェットな人は、乾燥しすぎると喉が渇いて干からびちゃうんだから。ケアしてあげてね』
「うはー。恋って見習いよりややこしいよ……」
居心地のいい、柔らかい温かさ。女友達とのおしゃべりは得意じゃない。でも理沙さんとなら、こんな風にタラタラ話してるだけで楽しいかも……。
『ねね、ひろちゃん。轟くんと千歳くん、どっちが好……ひろちゃん? ひろちゃーん……』




