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守護霊見習い  作者: シトラチネ
見習い四号 ―理沙―
25/39

… Saturday …

… Saturday …


 年は同じくらいだと思う。小柄だけど存在感があるのは、短いTシャツの丈をより短くさせるほど隆起した胸のためか。古いジーンズをざっくり切ったみたいな短パンから伸びる、健康的な脚線美。グラデーションの入ったボブはダークチェリーというかボルドーというか、奥行きのある濃いピンクがかったお洒落な茶色をしていた。きょとんとして小動物系にくりっと大きな眼は、瞬きすれば風が起きそうにたっぷりしたまつげを冠している。きゅんとカーブを描く眉にあひる口、ああもうグラビアアイドルも顔負けのプロポーションだ。

(幽霊じゃ誰もスカウトはしないだろうけど)

『どなたですか……?』

 こっちが聞きたい。

 幽霊にしては透け感が強くなく、かなりハッキリしている方だ。戸惑いながらもにっこり上目遣いされると、同性だというのにどきどきしてしまうほど可愛い。

(おっと、見とれてないでどうにかしなきゃ。でもまさか、幽霊が鍵を預かってるわけないしなあ……)

 でもそういえばこの人さっき、りょうちゃんって言った気がする。

「あのー、ひろと言います。リョウに呼ばれて来たんですけど、ここってリョウの家か何か……?」

 グラボブ幽霊さんは、少し緊張を解いたように笑った。

『亮輔の友達なのね。あたしの部屋だけど、亮ちゃんもよく来るよ。あっでも、ごめんなさい。今日はまだ帰ってなくて』

(待て待て待て待て……リョウってば、霊と同居してるのかっ……?)

 訳が分からなくなってきた。

「突然ですけど、えっとまさか、わたしの鍵を預かったりして……ませんよねえ……」

 ぱちぱち、と星がこぼれてきそうな瞬きをして、巨乳幽霊さんは首を傾げた。

(こんな可愛い幽霊に会ったって知ったら、千歳が羨ましがりしそうだ……)

『鍵……? ごめんなさい、預かってないと思う』

 そうだよね。うん。

『あ、中入る? ちょっと散らかってるんだけど。上がって!』

 リョウの妹なんだろうか。恋人にしては、見知らぬ女がいきなり訪ねて来たというのに警戒心がなさすぎるぞっ。

 わたしの話を良く聞きもしないうちに、脚線美幽霊さんは軽やかに身を翻してドアの板をすり抜けていってしまった……が、わたしには実体があるので、すり抜けるわけにはいかない。自分のアパートだけでなく、この部屋でもわたしだけ入室を阻まれるんだろうか。

 恐れつつドアノブを回してみると、意外にも鍵はかかっていなかった。鍵屋と同居してるくせに、何て無用心なんだ。それとも鍵なんて結局信用ならないと教わっているのだろうか。いやいや幽霊に戸締りをしろと言うのも無理な話だが。

「お邪魔しまーす……」

 中は真っ暗で、畳と木と、閉じ込められた空気特有のカビたような匂いがしていた。明らかに、ここしばらく住む人がいなかった証拠だ。当然、リョウが住んでいるとも、今日帰ってくるとも思えない。奥にいるらしい元気な幽霊さんは呑気に、どうぞーなんて言っている。ここには彼女しか住んでいないのだ。

 手探りでスイッチを見つける。玄関の小さな白熱灯が点いた。お世辞にもフローリングとは呼べない、古びて黒ずんだ板張りの廊下。左側の引き戸の隙間からは、懐かしのおにぎり型タイルを敷き詰めた狭いお風呂場が見えている。乾ききって、昨今使ったような形跡はない。正面の部屋は褪せたグリーンの絨毯が敷かれていたが、畳の匂いがするということは、絨毯の下は畳なんだろう。

 ぎいぎいと床板が鳴る廊下を部屋まで進んで、天井の中央に吊るされた、引っ張ったら落ちてきそうに古い電灯を点けた。ぱり、ぱりんと金属的な音と共に円形の蛍光灯が青白く光る。

 見渡すと六畳プラス台所の部屋は、アイドルみたいな幽霊さんらしいピンクや曲線の多い雑貨でひしめいていた。確かにリョウの部屋ではなさそうだ。実用的なものばかりのわたしの部屋ともだいぶ違って、女の子らしくきちんと飾ってある。

『えっと、ひろちゃんだよね』

 可愛い幽霊さんはへたれたクッションにぺたんと座って、にこにこと人懐っこい笑顔を見せた。ちゃん付けで呼ばれるのは苦手なのだが、この人に言われるとくすぐったくも許せちゃう感じ。

『あっ、あたし理沙っていいます。高木理沙。そこの駅ビルで美容師やってるの。来てくれたらサービスしちゃう』

 美容師……それで手の込んだ髪してるのか。

「理沙さんね。ありがと、今度行くね。そういえばリョウも、髪染めたりするの好きだっけ。彼女の理沙さんの影響?」

『影響っていうかカットモデル? 実験台? あはははは』

 あのリョウが髪を好き勝手にさせてあげてたなんて、意外だ……けど、この理沙さんの天真爛漫さを見ると、しょうがねえなと言いつついじらせてる姿が浮かんでくるような。

(ついでに、さりげなく彼女だということを聞き出せたぞ)

 ふと、もはや嗅ぎなれたきつい煙草の匂いがした。理沙さんとわたしを隔てているローテーブルに置かれた、複数の空き缶。上面は黒い灰に汚れて中は吸殻が詰まり、灰皿代わりにされている。リョウの好みの銘柄だ。

『亮ちゃん、寝たばことか平気でするの! ここ木造だからダメって灰皿隠したのに、そしたら空き缶持ち込んで吸うんだからー』

 視線に気づいたらしい理沙さんが、あひる口を突き出してふくれるのをぼんやり見返していた。

 古くても可愛く飾られ、整った部屋。主である理沙さんがこんな大量の吸殻と空き缶を放置していたわけがない。リョウはきっと、理沙さんが亡くなってからもここに来ている。理沙さんを思い出しながら煙草をふかしている。だからこんなゴミが残っているんだ。

 理沙さんがいつ亡くなったのか分からないけれど、この空気の淀み具合では少なくとも半年は経っているだろう。それ以降もこの部屋を借り続けているのは、恐らくリョウだ。ここはリョウが、理沙さんを偲ぶためだけに存在する部屋なんだ。

『ひろちゃん、どうしたの? 大丈夫っ?』

 つい泣き出したわたしを、理沙さんは頭を撫でたり肩を抱いたり、おろおろと慰めにかかった。幽霊なのに、なんてあったかい人なんだろう。

 リョウがどうしてわたしをここに呼んだのか。それは鍵を渡すためじゃない。きっと理沙さんが忘れられなくて、理沙さんの霊がいないかと、いるならもしかしてわたしを通して話をできるんじゃないかなんて思って、それで無理矢理呼びつけたんだ。

(面と向かって相談してくれないなんて、水くさいヤツ……)



 肩の痛みに起こされた。春色をしたチェックの薄いカーテンから陽が入ってきている。でも頭上の蛍光灯は点きっぱなしだ。

「ん……?」

 クッションを枕に、絨毯の上に転がって寝ていたらしい。慣れない寝方をして、肩がぎしぎし音を立てそうに痛んだ。どうやら、泣いてるうちに眠ってしまったらしい。見回しても理沙さんはいなかった。残念ながら、わたしの鍵らしきものが置いてあるということもなかった。

(リョウ、来なかったんだ……)

 どこかに得意の盗聴器でも仕掛けて、わたしの様子を窺ってるんじゃないかと思うけど。現れないということは、理沙さんの霊の存在確認以外にも、わたしがしなきゃいけないことがまだあるんだろうか。

「あのさーリョウ、携帯の充電切れちゃったから連絡取れないんだけど……どうすればいいわけー? 鍵ちょうだいってばー」

 盗聴器があるはずだと思って、どこにともなく言ってみた。来てくれることを期待しつつ窓を開けて空気を通したり、空き缶及び吸殻を捨てに行ったりしたが、お昼近くなってもリョウは一向に来る気配を見せない。

「もーダメ、お腹すいた。ご飯食べに行っちゃうからね! 泥棒入っても知らないからねっ!」

 あるのかどうか確信が持てなくなってきた盗聴器に向かって言い捨て、路駐しておいたアコードで駅前に向かった。ファミレスで空腹を満たしていると、窓の外遠くに健康ランドなる看板を見つける。スーパーで下着やら化粧品やらを買い込んでそこへ突撃した。

「全部、経費で落としてやるから。足つぼマッサージもフェイシャルエステも請求してやるっ」

 健康ランドの広いパウダールームで髪を梳かしていて、ふと理沙さんの言葉を思い出した。

――そこの駅ビルで美容師やってるの。来てくれたらサービスしちゃう――

 部屋にいついてる幽霊が、美容院まで出勤するとは思えない。よってサービスはしてもらえないけど、代わりに生身の誰かから話を聞けるかもしれない。駅ビルの中を探すと、幸い美容院は一軒しかなかった。

「いらっしゃいませ」

 とカウンターで出迎えたのは気障な感じのパリッとしたおじさんで、ネームプレートによると店長さんらしい。おじさんと言ってもさすが美容院を経営しているだけあって、髪型もファッションも若々しい。シルバーの指輪なんかしてるし、肌の疲れ具合をよくよく見なければ、三十前半で通用するかもしれない。伊達らしく、縁なしメガネのレンズは光を直線的に反射していた。

「高木さんでお願いしたいんですけど」

 いないと分かっていながら言ってみた。いきなり店長さんは銀歯が覗けるほど口を開けて硬直している。亡くなった美容師を指名されたら、そりゃ驚くか。

「あの、ここで働いてるって聞いて。今日は近くまで来たものですから」

 嘘は言ってない。

「あ、ああ、そういうことですか。そうでしたか」

 呪縛の解けたらしい店長さんは、白いシャツの袖で額を拭い、ぐいぐいと襟元をねじ開けている。心なしか、顔色がどす青くなったような。そこまで驚かなくてもいいだろうに。

「申し訳ありませんが高木は一年ほど前に退職しまして。別の者でもよろしいでしょうか」

 そう言って紹介され、担当してくれたのはこれまた年齢不詳気味な二十代後半くらいの女性だった。ロック歌手みたいにショッキングピンクやら金色やらのメッシュが豪華に入った髪に、隈取りかと思うような濃いアイシャドウをしている。

「今日はどうします?」

 おまかせにしたら、とんでもなく派手な頭にされそうだ。

「カラーリングで……」

 どんな色がいいの、と客商売にしてはややぶっきらぼうな女性は、カラー見本を広げて見せた。

「んーと……前、ここにいた高木さんみたいな色がいいです。何となくピンクの混じった茶色みたいな」

「えっ」

 アイシャドウに縁取られて、やけに目立つ白目。そこから見下ろす瞳には、それまでのよそよそしさが消えていた。描き過ぎの眉の端が痛々しげに下がる。この人は理沙さんのことを知っている。しかもこの表情からして、好意的に知っていたはずだ。

「久しぶりに会いに来たんですけど……退職したって。どうしちゃったんですか」

 隈取りさんはカラー見本を閉じて、しばらくわたしの髪質を確かめるように指で梳いていた。

「……あの子ね、古い石油ストーブ使ってたのがいけなかったんです。去年の二月だったかな、一酸化炭素中毒で」

 なら、ほぼ一年半前だ。心の中で手を合わせた。

 理沙さんは自分が亡くなったことに気づいていないんだろう。突然死や睡眠中の死、事故死など、本人が自覚のないうちに亡くなると、自分は生きていると思い込んだままの霊がさまよっていることがある。そういう霊が普通に生活しているつもりでお風呂に入っていたり、食卓についていたりする。ブルース・ウィリスが主演したシックス・センスにもそんな霊が出てきたっけ。

――亮ちゃんもよく来るよ。あっでも、ごめんなさい。今日はまだ帰ってなくて――

 あの言葉から察するに、おそらくリョウを待っているあいだに、理沙さんは中毒死してしまったのだろう。

(理沙さんにもう亡くなってること話して、成仏するよう説得すべきなのかな……でもリョウと話をさせてあげたいし……)

「そうだったんですか……リョウ、ショックだったろうな」

 思わず本音を呟く。沈痛だった美容師さんの面持ちが、それを聞いて途端に険しくなった。隈取りで睨まれると迫力だ。

「高木ちゃんの彼氏、知ってるんですか? しょっちゅう大喧嘩して、その度に高木ちゃん怒ってましたよー。彼氏、定職に就かないでフラフラフラフラ、浮気もしてたらしいじゃない」

 当時は鍵屋してなかったのか。怪しい商売だから隠してたのかも。

「んーでもきっと、リョウは理沙さんが亡くなってもずっと理沙さんを想っ……」

 背後の怒気にたじたじしながら弁護する。いきなり、隈取りさんの鮮やかな白目部分が一段と拡大した。

「ええっ、やだ、死んでないよ。命は取り留めたんだから」



「……はっ?」

 思わず大声を出して狭い店いっぱいの注視を浴びてしまった隈取りさんは、慌てて声を潜めた。

「高木ちゃん。倒れて一ヶ月くらい入院したけど、その後にちゃんと復帰したんです」

 待って待って。でも理沙さんは確かに幽霊になってしまっている。そうなると隈取りさんの知らないうちに、理沙さんはさらに別の原因で亡くなったということになる。

「一度復帰したのに、何で退職しちゃったんですか」

 取り分けた髪にスパチュラでワックス状のものをぺたぺた塗りつける隈取りさんが、ふうと溜息をついたのが鏡越しに見えた。

「復職してひと月くらいしてからかな。突然、辞めるって電話があったんです。中毒の後遺症がその日に急に悪化して、リハビリに専念することになったんですって」

(退職してリハビリに専念したけど、やっぱり後遺症が重くて亡くなったのかな……)

 ふと、隈取りパンクロッカーさんの真っ赤な唇は優しい形になった。

「懐かしいな。高木ちゃんの髪をこの色に染めたの、わたしなんですよ」

 ああ、美容師さん同士で、練習を兼ねてカットし合ったり染め合ったりするんだろうな。

「辞めちゃう前日だったと思うけど。染めてあげてる時にね、彼氏がちゃんと一緒に住もうって言ってくれたんだ、って教えてくれて。高木ちゃん、嬉しそうにしてた。はしゃいじゃって、大きな声出すなって店長に叱られたほどだったっけ」

 リョウは同棲するつもりだったのか。

「あの時は、後遺症がそんなにひどくなるなんて思えないくらい元気だったのに。おっちょこちょいなとこもあったけど、皆に可愛がられてたんですよ」

 浮気もしたけどリョウにとっては、やっぱり本気の相手だったんだ。理沙さんも一緒に暮らす気でいたんだ。だけどすぐに後遺症が悪化して入院して結局亡くなってしまった理沙さんは、きっと一番幸せだった時のダークチェリーの髪でリョウを待ってるんだ。

(そうだよね、そういえばTシャツに短パンだったもん。ストーブの事故で亡くなったのを知らずにいる霊だとしたら、冬の格好してなきゃおかしいもんね)

 亡くなったことを知らない霊に亡くなったのだと納得させるのは、想像しただけでも大変そうだ。でも突然死でなく別の原因で亡くなったなら、本人が自分の死を自覚している可能性は高い。説得の苦労をしないで済むらしいことにほっとする。

(じゃあ理沙さんは、リョウがあの部屋で暮らしてくれるのを望んでるのかな……んっ?)

 霊が何を望んでいるのかを推測するという、認めたくはないが最近お馴染みになってしまった作業をしていることに気づく。

(何かこれっていつの間にか、見習いになってないかっ?)

 カラーリング中で頭を動かせないから眼球運動だけできょろきょろと見回したが、いつも見習いを押し付けてくる絹さんの姿は見当たらなかった。姿がないからって、安心はできないけど。

(まあついでだから、死因くらい把握しとこう)

「あのー、そんなにひどかったんですか」

「んー、おっちょこちょいっていうかね、物忘れがひどかったみたい。ほら、美容師ってお客さんがついてくれなきゃ商売にならないでしょ。ここ小さな町だから常連さんばかりなんだけど、その常連さんの名前や顔が分からなくなったりしちゃ、ちょっとね……」

 後遺症が亡くなるほど重症だったのかと聞きたかったのだが、おっちょこちょいについて答えられてしまった。改めて聞きなおすのも恥をかかせるみたいで気が引ける。

 しばらく黙ったまま、隈取りさんが使い捨ての手袋をはめた手で、わたしの髪をホイルだらけにしていくのを眺めた。

「美容師さんって大変ですね。お客さん覚えなきゃいけないし、立ちっぱなしだし、強い薬使うし」

 あは、とようやく笑顔らしい笑顔を見せると、隈取りさんは意外と美人だった。ヘンな化粧しない方がいいのに……わざわざ塗りたてて隠すとは、ファッションというのは分からないものだ。

「腰痛も手荒れも職業病ですね。もっと大きな店ならまだしも、うちは全員がシャンプーもヘアダイもするからね」

 言われて見回すと、確かに店長含め三人しかスタッフが見当たらない。

「リングも、指との隙間に洗剤が残ったりしてかぶれるんです。店長は洗い残しがないように大き目のリングするんですけど、ゆるいせいで洗剤と一緒によく流しちゃってるんですよ。きっとうちの排水溝はリングだらけ」

 今度からは、美容師さんの人知れぬ苦労を思いながら美容院に行くようにしよう……。

 その後も色々話してみたものの退職後の理沙さんについて隈取りさんが知っているのは、後遺症の治療のために入院したというリハビリセンターの名前だけだった。

(理沙さんの死因を聞きに行ってみたいけど。そろそろアコード返さないと、轟のバイトの時間になっちゃうな)

 カラーリング代も経費としてリョウに請求せねば。それにしても同じヘアカラーなのに、どうも理沙さんのモデル風イメージと違うのはどうしてだろう。素材の違いですかそうですか。

 結局、鍵を入手できないままアパートに戻ることになってしまった。初夏の午後のうざったい暑さが、収穫なしの空しい気分をますますだるくさせる。信号待ちにハンドルを抱いてもたれて、息を吐く。

(ああもう、しばらくホテル暮らしでもしようかな……でもシロ連れて行けないか……んっ?)

 そこでようやく我が飼い猫、シロの存在を思い出した。

(しまった、部屋に閉じ込めっぱなしだっけ? リョウが鍵替えに来た時、外に出てくれてるといいけど。でも、餌食べてないかも!)

 精一杯車を飛ばして帰った。几帳面な轟は、駐車する時は必ずお尻からスペースに入れる。が、今はそれどころじゃないし、そもそもわたしにそんな忍耐は備わっていない。アパートの駐車場にアコードを頭から突っ込んでいると、愛車のエンジン音を聞きつけたらしい轟が部屋から飛び出してきた。

「ひろさん!」

「轟! シロ見なかった? 餌食べてたかどうか知らないっ?」

 わたしが運転席から降りないうちに駆け寄ってきた轟は、何故かわたしよりよっぽど焦ったような顔をしていた。

「あ、シロなら僕の部屋にいるから大丈夫です。それよりひろさん、僕は口が固いってことになってるんで、今から独り言を言います!」

「はあ?」

 いつものんびりしているのに、やけに早口で轟は変なことを言い出した。

「千歳が霊能者に会いに行っちゃった。その人は霊道を閉じる力があるって言ってるらしいけど、ネットで噂を検索する限りどうも謝礼を何十万と取るっぽくて、インチキじゃないかと心配だなあ。千歳のやつ、貯金を全部下ろしたみたい」

「はああああ?」

 いきなりまくしたてられたが、要するに千歳が怪しげな霊能者に、わたしの部屋の霊道を閉じてくれと依頼に行ったということか。それをわたしには言うな、と口止めされたから、轟は独り言を言うなんて苦肉の策でバラそうとしてるらしい。

「何で千歳がそんなことすんの?」

「ひろさんは千歳よりシロのほうが心配だったみたいだけど!」

 あ、珍しい……轟が怒ってる気配だ。困った人ですね、とその深い眉間のしわが物語っていた。実際、千歳の心配なんてこれっぽっちもする必要性を感じてなかったわけだが。

「千歳を止められるのはひろさんしかいないと思うな。霊能者の家、この地図に丸しといたから、ひろさんきっと行ってくれるよね。今ならまだ間に合うかも。バイトには、たまにはバスで行ってみようっと」

 ……アコードを貸すから千歳を追え、と言いたいらしい。

「何だか分かんないけど、何となく分かった。ありがと轟、行ってくる」

 切ったばかりのエンジンをまたかけながら、プリントアウトされた地図を素早く確認した。

「運転、気をつけて下さいね!」

(すでに独り言じゃないし……)

 心配するな、というつもりで手を振ってバックすると、轟が慌てて飛びすさった。

「わっ! き、気をつけて下さいってばっ……」

 ……今度こそ、足先を轢いてしまったのかもしれない……。



 一等地に家がある、という時点でその霊能者の胡散臭さは香り高い。環状線を外れて高級レストランやブティックの立ち並ぶ洒落た並木道に入ると、土曜日の夕方を優雅に過ごすお金持ちな人々がそぞろ歩いていた。

(鍵を隠されたり霊能者の家を探したり、こっちは散策どころじゃないっての……)

 イライラしながら信号待ちをしていると、歩道を上品に笑いながら通り過ぎた女性群の向こう側に、見覚えのあるシャツがいたような気がした。シャープな線をした、やけに真剣な横顔。

「千歳!」

 窓から叫んでも聞こえなかったらしい。車を降りてダッシュでスレンダーな後姿に駆けつけ、腕を掴む。振り返った千歳はよほど驚いたのだろう、眼を見開いて声も出さずに立ち止まった。

「こんなとこで何してんの? 帰ろ」

 二、三度瞬きをしてから、千歳は空いてる手で大げさに胸を押さえて息をついた。

「あーびっくりした。あれっ、髪の色、変わってませんか?」

 大抵の男というものは、よほど劇的変化でなければ、女の子の髪型や色が変わったことになんて気づきもしないものだ。一目で言い当てる千歳が、女性にもてはやされるのが妙に納得である。それは置いといて。

「ここで何してるのってば」

 答えなかった千歳を睨んだけど、眉を上げてとぼけられただけだった。

「別に、ただの買い物ですよ」

 いつもの愛想のいい笑顔が憎たらしい。

「嘘つき! 霊能者に会いに来たくせに!」

 バースデーケーキのキャンドルよろしく、怒鳴った勢いで千歳の顔から笑みが吹き消えた。

「高額な謝礼取るなんて、怪しいに決まってるじゃない。大体、何で千歳がそんなことする必要があるの? 霊道が通ってるのは千歳のじゃなくて、わたしの部屋なのに。どうして勝手にそんなことするの!」

 黙ってうつむくことで、千歳は嘘を認める気になったらしかった。

「それをただの買い物だなんて、嘘ついて。バカ! おせっかい! わたしが引っ越せば済む話なのに、そんなことのために貯金つぎ込むなんて、何を考えて……」

 不意に交差点にクラクションが鳴り響く。運転者のいない車が、青信号を妨害していることに気付いた。止まないクラクションに千歳が不審そうに顔を上げて、非難の渦の中心たる白いアコードをまじまじ見つめた。

「あれってもしかして……」

「千歳が帰るって言わなきゃ、乗らない」

 車の鍵をじゃらりと掲げる。千歳の焦った視線は鍵、次にアコード、そしてわたしを捉えた。また盛大なクラクションが鳴る。その不協和音に何事かと通行人がざわざわしだすと、千歳はくそっ、と唸ってわたしの手を引き走り出した。

 大ひんしゅくの嵐から逃走してしばらくすると、助手席の千歳はぽつりと呟いた。

「ひろさん、ごめん……」

「バカ!」

 薄暗闇は、光源が分身してしまう乱視が入ってる眼には苦手な時間帯だ。おまけに泣いているともう、視界はひどい滲みっぷり。覗き込まれても運転中である、前方から顔を背ける訳にはいかないし、眼には自動でワイパーがかかってくれるわけでもない。泣いているのは当然バレた。

 千歳がハンカチを持ち歩いているのは、自分が泣かせた女の子の涙を拭き取るために違いない。そう思うとムカついて、差し出されたハンカチを噛み付くフリして追い返した。

「あの、停めて下さい。黄色は突っ込めのサインでしたっけ? その理論で行くと、赤は何なんですか」

 赤は勝負、とやけっぱちに答える。

「停めて下さいっ! 赤で勝負されて嬉しいのは下着くらいです!」

 悲愴に叫ばれた。

「だって停めたら千歳、降りちゃうでしょ!」

「降りませんって!」

 涙腺ってどんな大きさなんだと見てみたくなるくらい、涙が溢れてきた。

「降りませんから……」

「黙っててよ! 気が散ると事故るでしょ!」

 説得力のある一言だったらしい。それからぐっと黙り込んでいた千歳は、アパートが近づいてくるとやっと口を開いた。

「ほんとにごめん……俺、言う必要ないと思ったから……」

「バカ!」

 そればかり繰り返すのも情けないのだが、バカしか出てこない。生乾きの涙がまた落ちてきそうになった。

「千歳って、愛想笑いの下で何考えてるのか分かんない。わたしに意地悪言ってる千歳がほんとなの? それとも他の女の子といる時の、優しいのが本音なの?」

 遠慮せずに思っていることを言って欲しいのに、千歳の愛想笑いは時折、頑なに心を隠している気がしてならない。わたしにだけ口が悪いのも、疎外されてる気になることがある。日頃から積もり重なっていた不安が口をついた。

「ちゃんと千歳のこと知ってから返事したいのに、千歳がそんなんじゃ無理だよ」

「えっと……ひろさんは、どっちがいいんですか? からかわれるの嫌なら、やめます」

「わたしがどっちがいいとかじゃなくて。どっちがほんとの千歳か、って聞いてるの」

 千歳は困ったようにうつむいて、口をつぐんでしまった。曖昧な線のない形のいい唇に、開く意思はなさそうだ。言いたくないんだろうか。わたしに素顔は見せられないってことなのかもしれない。

 胸の奥で、何か固い結び目がぎゅっと音を立てた。

「分かった、もういいよ……。でも、そういう嘘はあんまり好きじゃない」

 アパートの前に車を横付けしたのに、千歳は降りる気配を見せない。さっき、降りる降りないで言い争ったから遠慮してるんだろうか。

「あのー、着いたけど。わたし、轟のファミレスに車を届けてくるから」

「ひろさん、今日はあの部屋に帰ってくる?」

 昨夜、帰らなかったことを知っているらしい。轟に、わたしがアコードを騙し取って行った顛末を聞いたんだろうか。

「帰れない。リョウに鍵を換えられちゃって、取りに行ったんだけどまだもらえないの。だからどっかに泊まる」

 いつもの千歳なら、じゃあ俺の部屋に来ればいいじゃんくらい言うだろう。でもさすがにこの険悪ムードでは言い出せないようだった。気まずい沈黙がどんよりと充満する。

「降りたらもう、会えなくなる気がする……」

「何言ってんの。鍵もらったら荷物取りに来るし、講義でも会うし……」

「そういう意味じゃないです」

 やけに小さな声に振り向くと、千歳は途方に暮れたような眼をしていた。

「もしかしてもう、あいつとうまく行っちゃった?」

 一瞬、誰のことかと思った。でも千歳があいつ、と嫌そうに言うのはリョウと決まっている。そういえば轟にはリョウのところへ行くと言って、この車を強奪……いやいや借り出したんだっけ。でも結局リョウとは会ってもいない。

「バカ!」

 あ、また言ってしまった。

「リョウとは何にもないって、何度も言ってるのに!」

「すいません……」

 たっぷりためらってから、千歳はようやく車を降りる。ドアを閉める間際、屈んで覗き込んできた。

「気をつけて。赤で勝負しないで下さいね」

「誰がそうさせてんの」

「う……すいません……」

 これ以上何か言っても怒らせるだけだと観念したのか、千歳は首をすくめてドアを閉めた。バックミラーを見ると、千歳の細身の影はわたしが角を曲がるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。



 ファミレスのレジにいた女の子に、ちゃんと連れ帰ったという伝言とアコードの鍵を託す。厨房に届けに行ってくれたその子は小走りに戻ってくると、どうしてだかメニューを抱えてこちらへどうぞ、とにっこりした。

「轟くんが、座っててくれますかって。何でも好きなもの頼んで待ってて下さい、だそうです」

「え?」

 鍵を返してそのままホテル探しに行こうかと思っていたのだが、どうやら轟はわたしに話があるらしい。ついでにおごってくれるらしい。車を借りたらおごられる、これって世の法則に反している気がする。いいんだろうか、これで。

 しかしタダ飯と聞いて断る理由もないので、素直に案内されて座った。ディナーメニューを睨みながら、カロリー表示と食欲の釣り合いどころを模索する。

 気づくと、お水を持ってきてくれたウェイトレスがグラスを置いた後ももじもじと留まっていた。まだ高校生だろうか、黒髪をきっちり結った清潔感のある可愛い子だ。

「すいません。まだ決めてないんで……」

「あ、はい。あっ、そうじゃなくて」

 注文を待ってるのかと思って言ったら、すごい勢いで手を振りつつ何やら慌てている。怪訝な顔をしちゃったんだろう、ウェイトレス子ちゃんは覚悟を決めたように、急にカキンと背筋を伸ばした。

「あのっ。轟先輩のお知り合いですか?」

 水を吹きそうになった。轟先輩って。先輩って柄ですか、轟が。

「彼女さんだったりして……?」

 そんな露骨に真っ赤になって見つめなくても。

「いえ、同じ大学で家が近いってだけで」

 ウェイトレス子ちゃんは、ぱあっと笑顔になって、さっきのレジ子ちゃんにブイサインを送っている。レジからは、きゃー良かったじゃーんなんて黄色い声がした気が。

「はいっ、かしこまりましたー。じゃ、失礼しまーす」

(かしこまりましたって、一体何がかしこまったんだ)

 わたしの疑問をよそにそそくさと立ち去って、レジ子ちゃんときゃいきゃいしている。若いというか幼いはしゃぎっぷりに、こっちは疲労が。

(昨日から他人の恋愛に振り回されてる気がする……みんな、恋しか頭にないわけ? 他に考えることないのかっ)

 と、学生の本分たる学業をおろそかにしているわたしが説教する立場にないのは明らかだが。

 せめて食べ物で気力回復しようとビビンパをビールで掻き込んでいると、私服姿の轟がやってきた。急いで着替えたみたいで、細い髪は跳ねてるし、Tシャツも変にしわが寄ったままだ。

「バイト、今日は上がらせてもらいました」

 何で、と聞くと轟は対面で居住まいを正す。

「あの……泣き腫らした眼をした人が、車の鍵を返しに来ましたよって」

 レジ子ちゃん、そんな伝言はせんでいいっ。

 ビールをお代わりしつつ、千歳を引き止めに行ったらはぐらかされたことをダラダラと文句垂れる。轟は首を傾けて考え込むような様子でじっと聞いていた。

「おまけに、わたしとリョウのこともずーっと勘繰ってるし。なんかライバル視してるよねー」

 我ながら、くだ巻いてるのが分かる。睡眠不足と運転疲れに泣き疲れで、いつもよりアルコールが回ってるらしい。酔いやすいっていうのは安上がりでいいぞ。

「すいません。僕が独り言なんて言ったせいで、喧嘩になっちゃったんですね」

 言わなかったら轟とも喧嘩してやった、と脅しておいた。

「僕が約束破ってしゃべっちゃったから、弁護するって訳じゃないんですけど……千歳の気持ちも分かるような……」

 不思議と轟のゆっくりした話し方で言われると、諭されている気になってくる。黙って拝聴することにした。

「リョウさんとひろさんって、お似合いなんですよ。どこ行って何するか分かんないようなひろさんを、リョウさんは大人の余裕で見守って、いざとなったら手を貸してあげられる人って感じなんです。リョウさん見てると、たとえひろさんはその気がないって言っても、千歳が焦ってくるの分かります」

 そんなもんかなあ。あんな変態、お断りなのに。

「でもねー、そう言うけど、リョウには忘れらんない彼女がいるんだから。これがまたすっごく可愛い子でね、理沙さんって名前なんだけど、その理沙さんの霊がまだ部屋にいて……」

 酔った眼にも、霊と言った瞬間に轟がピキピキと緊張して乗り出してくるのは、よーく見えた。

「ひろさん、また何か巻き込まれてるんですかー……」

 はっ。

「大丈夫、全然、見習いとかじゃない。危なくない。犯罪には関係ない」

 ぶんぶん手を振ってみせたが、昨晩もこの、明らかに疑ってる眼を見た記憶が。しかも疑うべき行動をする人間であることを、キッチリ証明してしまった自分がここに。

「えーっとその、あ、そうだ。轟に聞きたいことあったんだ。一酸化炭素中毒の後遺症って、リハビリ中に死んじゃうほど重いの?」

 苦しい話題転換だったが、轟は騙されてくれた。健康優良児の滑らかな顎に手を当てて、首を傾げている。

「そんなことないと思います。リハビリ中に亡くなったとしたら、後遺症じゃなくて他の原因じゃないでしょうか」

「ふうん。何か無念な亡くなり方だったのかなあ……」

 言いかけて、轟もわたしも見つめ合ってしまった。

「やっぱり見習いしてるんじゃないですか……?」

「そ……そうかもねー……」

 理沙さんが入院したというリハビリセンターは、高速を使っても一時間はかかる距離だった。もう夜になってしまったし、直接行くのは諦める。ファミレスの公衆電話から番号を調べ、リハビリセンターへ電話してみた。

「入院患者の死因を教えてもらえるってことはないと思いますけど……」

 轟の言うことももっともなのだけれど、ダメ元だ。呼び出し音が途切れて、受話器の向こうからスタッフらしい男性の応答が聞こえた。

「あの、去年からそちらに入院してた高木理沙さんのことなんですけど」

 出来うる限り悲しみにくれているような声音を絞ってみたのに、そんなのどこ吹く風の明るい事務的口調が返ってきた。

『この時間なら、病室だ思いますが。緊急のご用件でしたら呼んで来ますけど、お名前は』

「……はいっ?」



「何で? 何でわたしの見習いはどいつもこいつも、訳の分かんない霊ばっかりなのー!」

「ややこしい訳があるから見習いになっちゃうんですよね……? わわ、ひろさん落ち着いて。僕どこにでも付き合いますから、ねっ、ねっ、ねっ」

 亡くなったとばかり思っていた理沙さんがリハビリセンターにいると知り、パニクってがちゃんと電話を切ってしまった。その公衆電話を掴んでガンガン揺さぶっていると、轟が必死になだめにかかってきた。

「つまり生霊なの? もしかして入院中にリョウに捨てられて、恨み募ってあの部屋にいついてんの? ねえそうなの?」

「僕に聞かれても……」

 電話をかばった轟の胸ぐらを掴みあげたら、その肩越しにレジ子ちゃんが眼と口をフルオープンして立ち尽くしているのが見えた。器物破損と暴行で通報されかねない。慌ててにっこりと笑顔を作り、掴んだせいでしわが寄ってしまった轟のTシャツを手で撫でつけてやる。

「そうだよね、ごめんごめん。アコードの鍵、貸してくれる?」

「……今度こそ、僕に運転させて下さい……」

 素直に運転されることにしたが車にまで酔ったりして、理沙さんの部屋に着いたのは真夜中だった。外に面した浴室のすりガラス越しに見る室内は真っ暗で、やっぱりリョウがわたしの鍵を持って待ってる気配などない。

「ここの鍵、まだ開いてるといいんだけど」

「何をしとるか!」

 ノブに手を伸ばした瞬間、隣のドアがばーんと開いて、雷みたいな怒鳴り声が落ちてきた。びびって飛びすさったら、轟を突き倒してしまった。

「おまえ、あの時の犯人か? それとも泥棒か? 警察を呼ぶぞ!」

 ドアから漏れる遠い光の中で、頭頂部がバーコードな小柄なオヤジが何かを振りかざしていた。えらい剣幕だけど、その手に持っているのは小さなすりこぎ……である。

「いえっ、わたしたち高木理沙さんの知り合いで、荷物を取りに来いと言われて」

 荷物といってもたかが鍵だが、嘘ではない。

「高木さんの」

 途端にバーコードさんは電池が切れたみたいに大人しくなった。作務衣みたいな藍色の懐にすりこぎをしまい、顔をしげしげと覗き込んできた。ここで目線を逸らしたら怪しんで下さいと言ってるようなものか。頭の薄さとは対照的に長生きできそうなふさふさ眉毛と、頑固そうな小さな眼をぐぐぐっと見返してやった。

「すまんね。高木さんの知り合いなんだな、そうかそうか」

「もー、脅かさないで下さいよ。でもおじさん、こういう時にどうせ台所から持ってくるなら、包丁の方がいいと思いますよー」

 腰を抜かしていた轟の腕を引っ張り起こしつつ進言してやると、バーコードさんはダハハと笑った。

「そうさな。つい慌ててな、だはははは」

 悪い人ではないらしい。べし、なんて夜目にもてかり気味な自分の頭を叩いている。

「ところで、おじさん。あの時の犯人、って言わなかった? ここ、前に空巣に入られたんですか?」

 バーコードさんはまたしても静かに、というか機嫌が悪くなった。

「あの時と言ったらあの時だ。わしが通報したんだからな」

「通報……理沙さんが一酸化炭素中毒で倒れた時?」

 不機嫌な沈黙が、違うと言っていた。

「えーっとじゃあ、後遺症が出た時に何か事件が……」

「…………」

 言い淀みっぷりが気になるじゃないかっ。口を割らせるには、もうひと押し要りそうだ。

「実はわたし、理沙さんとヨリ戻したいってリョウに相談されてて」

 リョウという名前を出したら、バーコードさんは強烈な苦笑を浮かべた。

「あのゴロツキか。あんなのに惚れて、高木さんも苦労しとったな」

 半分以上本気で、激しく頷いてみせる。

「なのにあいつ、何も教えてくれないんですよ。けど分かるでしょ、うまく取りもたないとわたし、制裁にボコボコにされちゃうんですよー! それが怖くて、夜もおちおち眠れずここに……ううっ……」

 もしこの会話を聞かれたら、その時点でボッコボコ確定ではあるが。

「あああ、ひろさん泣かないで……」

 轟には演技だということが通じていないらしく、おたおたと慌てている。が、そんな轟の様子がバーコードさんにとっては信憑性アップ材料だったらしい。やがて、溜息混じりの低い声で話し始めた。

「高木さんがわざわざ遠いとこに入院しに行ったんは、後遺症がひどくなったのも確かにある。だがな、狭い町じゃ不安で仕方なかったんだろうよ。誰が犯人か分からんままじゃな、いつの間にか顔を合わせるかもしれんし。人の口に戸は立てられん、事件のことが広まったら、いづらくなるだろうしな」

 轟の肩ですすり泣くフリをし、だから結論から言えよオヤジ、とじりじりしながら待つ。

「あの事件で、それまでの症状が一気に悪化したようだったなあ。もうわしのことなんて、覚えとらんだろうなあ……」

 理沙さんがバーコードさんを懐かしがってるかなんて、どうでもいいんだっ。

「卑劣な輩がいるもんだ。高木さんの病気につけこんで、上がりこみよって。悲鳴を聞いて駆けつけたんだが、男には逃げられてしまってな、わしが顔を見ていたら捕まえてやれたかもしれんのに……」

 卑劣。その言葉にぞっとした。まさか、その単語が用いられる犯罪って。

「強姦未遂で訴えようにも、高木さんが顔を言えないんじゃ、どうしようもなくてな。ショックからか病気が進んじまって、高木さんはあのゴロツキさえ怖がるようになっちまってな……男が怖いんじゃ、客商売が無理なのは分かるだろう。次の日に仕事辞めて、即入院でなあ」

 見習いじゃない。犯罪じゃない。

 自分の台詞が、理沙さんの明るい笑顔と共に砕け散った音がした。


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