表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
守護霊見習い  作者: シトラチネ
見習い四号 ―理沙―
24/39

… Friday …

 それまで思っていた人と違うと分かると、気になってしまう。




… Friday …



「引っ越すから!」

 朝一番に一〇三号室に駆け込み、そう宣言する。エプロンをかけて菜箸を握る轟、まだトップノートのフレグランス香る千歳は、似ても似つかない双子みたいに揃って眼をみはった。

「轟、お願い。講義終わったら、引越し先探すの手伝ってー!」

 抱きついて頼み込んだりしなくても、轟がわたしの頼みごとを断ったためしがないのは分かっていた。でも神経をすり減らした徹夜の疲労が、わたしをイエスさまに取りすがる一信者みたいな格好にさせた。

「分かりました。だからその、すいませんひろさん、えーとそうだ、卵焼きが焦げ……」

 時代錯誤なほどの純情青年は、何やらしどろもどろな返事を繰り返す。この轟、そして千歳、およびわたしは大学も学部もアパートも一緒で、もちろん部屋は別々なのだが、ほとんどルームメイトみたいな感覚で暮らしている。

 焦げる気配なんてない卵焼きを言い訳に逃げようと真っ赤になっている轟は、わたしたちのコック兼医者みたいなものだ。実家は実際に大病院らしい。お姉さんが二人いて厨房バイトをしているとなれば、料理に抵抗がないのも頷ける。にこにこと当然な顔して、毎日のようにごはんを作ってくれる。いっそキッチンで飼いたい。

 すらりと背が高くて、いかにも良家の子息然とした落ち着きある端正な顔立ち。サラツヤな髪といつも和んでるみたいに柔らかく下がった目尻、えくぼの出来る癒し系笑顔、そして古いアコードを休日ごとに洗車してやる愛情の持ち主。優しいし礼儀正しいし素直、と褒めるとこしかない好青年である。

 それにしたって、すっかり兄妹みたいに仲良しなのに、抱きつかれただけでそんなに照れなくってもいいのに。可愛いヤツ。

 必死な轟とは対照的に、まーまー落ち着いて、とにこやかに言いながら千歳が出してきたのはアマレットの瓶。

「いつでもそれさえ与えとけばわたしが機嫌直すとでも思ったら、大間違いだから!」

 リキュールにオレンジジュースを注ぐスムーズな手つきもそのはず、千歳のバイト先は洒落たバーだ。千歳がだらしない格好してるのなんて、見たことない。いつ会っても、細身でバランスのいい体に、パリっとアイロンの決まったシャツを着こなしている。アジア的な彫り、力のある瞳、世慣れた雰囲気と口のうまさは、確かにバーがお似合いかもしれない。それに惹かれてこの一〇三号室を訪ねる彼女候補が絶えないのも、仕方ないかもしれない。

 だけど轟と違って千歳は、言いたいことをケロリと言ってわたしを怒らす失礼なヤツだ。どんなにはたいても反省の色がない。わたし以外の女の子には甘い笑顔でちやほやしているというのに、この差は一体何なんだろうか。

 最近ではその彼女候補を排して何故か、何故なのかわたしに告白してきたわけだが……何だかんだで一応大事な友達だから、ちゃんと自分の気持ちを見極めてから返事しようと決めている。

「そう言いながら一気飲みしますか、普通」

 以前なら、女の子なんだから上品にストローを使えとかお説教を垂れ始めていたであろう千歳は、今や平然と突っ込みを入れてくる。説教も突っ込みもいずれにしろ余計だ。

「引っ越すって……ひょっとして夜中の地震のせいですか? もっと頑丈そうなアパートに越したくなったとかー……」

 卵焼きに添える大根をしゃこしゃことおろしながら、轟が眉尻を下げている。わたしが見ている轟の表情の半分は、この心配そうな顔なんじゃないだろうか。これほどストレートに、しかも眼を潤ませて見上げる柴犬みたいな顔で心配されて、何でもないと振り切れる人がいたらお目にかかりたい。

「何言ってんだ轟、ひろさんの神経は海底ケーブル並み……いてっ」

 常に一言多い千歳の弁慶に、すかさずインステップキックを放つ。

 確かに、寝入りばなに起きた地震が怖かったわけじゃない。テレビで速報を見たら体感どおり震度四程度だったし、轟も千歳も間髪入れずに電話をくれたから。

 その第一声が、轟は『怪我はありませんか?』で、千歳は『ひろさんの寝返り、激しいなー』だったというところに、二人の心配の仕方の差をつくづく感じるわけだが。

 問題は地震の後に、わたしの部屋に起きた変化だった。

「あの地震のせいだ。もう絶対引っ越す。今日中に引っ越す。わたしの部屋に霊道が通っちゃった!」



「……れいどう?」

 彼らはその単語を初めて聞いたように、きょとんと顔を見合わせた。それも無理ない。わたしと違って彼らには霊が見えないし、対話することも出来ない。

「あ、霊道って霊の道って書くんだけど」

 霊はわたしたち、つまり生きている人間の区画や建物をあまり気にしない。茶の間に住み着いていた地縛霊が、家が建て直されて間取りが変わった結果、新しい家の押入れに座ってお茶を飲んでいるなんてよくある話だ。霊たちには彼らなりの居場所があって、空間があって、道もあるのだ。

 霊道はずばり、霊がぞろぞろ歩いていく道である。一方通行もあれば、環状にぐるぐる巡っている霊道もある。

 自然災害や事故で大量の死者が出た場合、その被災地から霊界へと続く一時的な道が出来て、やがて消滅していくこともある。けれど割と固定されているのが普通だ。その固定された霊道が移動するのは、地脈や水脈に異動があった場合が多いらしい。すなわち地震や大掛かりな道路工事があると、霊道が動くことがあるのだ。

 それ自体は一向に構わないのだけれど、問題になるのは霊道が生きている側を気にしないあまりに、人の庭や家を突っ切っているなんて場合だ。霊道は地面に沿っているものもあれば、高架みたいに空中に存在しているものもある。だから二階や三階に住んでたって、霊道の軌道上に引っかかることがある。

「つまり昨日の地震で、今まではどっか別の場所にあった霊道が、ひろさんの部屋を横切るように移動してきたんですか……?」

 ぼちぼち慣れてきたとはいえ、轟も千歳も霊とはあまり直接は関わりたくないらしい。二人はわたしの部屋のある方角を見上げ、遠慮したそうに首をすくめた。

「そうなの、玄関からベランダまで一直線に! 丑三つ時なんてひっきりなしに霊が歩いてって、うるさいったらー!」

 昨晩だけで何人の霊が霊道、すなわちわたしの部屋を通過していっただろう。霊たちはじろじろこっちを見るわけではないけれど、足音も気配もするから落ち着かないったらない。ほとんど眠れなかったじゃないか。不法侵入だと追い出すわけにもいかないし。

 これがお盆ともなると、帰省ラッシュで霊道も大渋滞となるのだ。想像したくもない。

「絹さんに頼んで、どうにかしてもらえば?」

 出来るならそうしたいけど、事は千歳が言うほど簡単じゃない。

 絹さんはわたしの守護霊で、曾祖母にあたる。傲慢で自分勝手で横暴で、怒ると般若の顔なくせして若作りで……いけないいけない、あまり噂してると仏壇から出てきて意地悪されるからほどほどにしとかないと。

 何だか知らないけど絹さんの都合により、わたしは守護霊見習いという名目で未熟な霊を成長させる仕事をさせられていた。その度に危ない目に遭ったり怪我したり、ロクなことがない。なのに大した報酬ももらえず、勉強は遅れる疲れ果てるで、轟にも千歳にも心配と迷惑をかけっぱなしだった。

 先日、二十年のあいだ行方不明だったおじいちゃんの心残りを晴らして、遺体を供養した。絹さんはあれが最終目的で、わたしを鍛えようと見習いを押し付けていたんだろう。もう見習いが来ることもないと思うとせいせいする。

「絹さんは霊界じゃ力のある人らしいけど、だからって勝手に霊道を移動したりは出来ないみたいよ。渋い顔するだけで、何もしてくれなかった」

「じゃあ、またうまいこと大きな地震か工事がない限り、ひろさんの部屋の霊道はずっとそのまま……」

 返事の代わりに頭を抱えた。

「マジ? あの部屋でひろさん押し倒したら、幽霊にこぞって見学されちゃうわけ? オーケイ、押し倒す時は俺の部屋で……」

 そういう問題かっ。

「うっ、食事中にボディはきついです……」

 体を折る千歳を横目に轟は、卵焼きの最後の一切れが載ったお皿をそっと押して寄越した。卵焼き一切れなんぞで機嫌を取る気かと呆れつつ、しっかりと頂く。

 気にかかるのは、わたしの部屋には仏壇があるということだ。絹さんやおじいちゃんたちのためにお茶、大福、煙草などを常に供えてある。そういった霊の好むものが置いてあると、それに惹かれて霊道を外れた霊が居座ってしまうこともあるのだ。

 もういっそ俺と同棲しちゃいましょうと言い出す千歳の案を即刻棄却して、夕方から轟と二人で物件探しをする約束を取りつけた。

「霊がウロウロしたりして、シロ、怯えてませんでしたか?」

 大家さんに内緒で飼っている虎猫を、轟は飼い主であるわたし以上に可愛がってくれている。シロも轟の動物好きを見抜いているらしく、わたしや千歳より轟の膝の上にいることが多い。誰が拾ってやった飼い主か分かってるんだか。

「うんうん怯えてた。怖がってベッドの下から出てこようとしなくて……」

「そのシロは今、どこにいるんですか?」

(……あ、部屋に置いてきちゃった)

 思わず箸が止まると、男二人は目ざとく気付いて責めの視線を送ってきた。誰が飼い主か分かってないのは、わたしだったらしい。



 講義も終わった夕方、轟と二人して不動産仲介業者を渡り歩いていると、携帯が震え出した。

『色男が俺の酒に雑巾のしぼり汁入れねえうちに、さっさと来い』

 名乗りも名乗られもしないうちに携帯は、通話終了を知らせる電子音を馬鹿にしたような軽さで繰り返した。

(あの不良鍵屋……)

 かくしてわたしは千歳のバイト先であるバー、Poison Appleへ強制召喚されたのである。

 よーう、と奥のソファに陣取っていたリョウは、持っていたロックグラスから人差し指だけ離して合図してきた。呆れるほど相変わらずの態度のでかさだ。

「何で普通に誘えないわけ? せめて事前に予定聞くとかしてよ!」

 上家の一人掛けソファに腰を下ろしながら吠えてやったが、途端に狼みたいな殺気で睨み返された。

「くそ忙しいとこ、時間作ってやったんじゃねえか。文句あんなら来んな。来たんなら文句言うな」

「ご……ごめん。誘ってくれてありがと……」

 怒ったつもりが、逆に怒られた。勝手すぎると思いながらも何となく逆らえない。

 初めて会った時からリョウには、反発しつつもいつの間にか素直に従ってしまうような、妙な引力がある。リョウという星に近寄った者は、否応なくその重力を受け入れねばならないのだろう。弱すぎるぞ自分、と情けなくなったが、とにかく謝っておいた。

 リョウは先月、おじいちゃんの行方捜索に協力してくれた自称・鍵屋だ。鍵屋と言えば実直で真面目そうな人物を思い浮かべるものだが、鍵屋を呼んでこいつが出てきたら、普通の人は絶対に仕事を任せたりしないだろう。

 先日アッシュグレイだった髪は今や、オレンジのソフトモヒカンだ。ボクサー系の締まった筋肉にぴったり添ったタンクの肩口には、刺青がどーんと鎮座ましましている。切れ長な目尻は常に悪そうに笑ってるし、どこまでがもみあげで、どこからが無精ヒゲなのか分かんないし。迷彩パンツに一撃で人を蹴り殺せそうなごっついブーツ履いて、これからイラクですか。

 本人は何かにつけ鍵屋だと主張するが、盗聴屋も兼業している結局は怪しいやつだ。頭が良くて頼りになるのは認めてやってもいいけど、隠し事も得意だから油断ならない。

 艶やかな一枚板のカウンターにイギリス製布張りソファ席が中心の、女性や上品そうな社会人が主な客層であるこのバーで、リョウの存在は思いっきり浮いていた。明らかに怪訝そうな顔で、ちらちらとこっちの様子を窺っている客もいる。

 けれどロマンスグレーな店長さんは、有難くも物事に動じない人らしい。歳に似合わぬ、くりっと可愛いバンビの目尻をゆっくり下げて挨拶してくれる。店長さんよりさらに動じない、というかそもそも周囲の視線になど気づくつもりもないらしいリョウは、しおらしく謝ったわたしを満足そうに見下ろしていた。

(くっそー、いつか泣かしてやる……)

「いらっしゃいませーひろさん。アマレットでいい?」

 せめてもの反抗にリョウの眉ピアスを睨んでいると、白いシャツの袖が視界を塞いだ。たっぷりのアマレットが注がれたグラスを置いてくれたのは、そうだいたんだった、千歳だ。

「俺の存在、すっかり忘れてたみたいですね」

 特上の営業スマイルで嫌味を言うなー。

「おまえさ、俺にも選ぶ権利あるっつってんだろ。邪魔すんな」

 軍靴みたいなブーツが、うりうりと千歳を追い払っている。

「こっちだって、リョウみたいなチンピラは願い下げですっ」

「じゃあ何で来んだよ」

「じゃあ何で誘うのよ! ……わっ」

 妙にじとっとした気配を感じて後ろを振り返ったら、びびるほど至近距離に男が立っていた。紺色のキャップを目深にかぶっていて、顔の下半分しか見えない。そこにはあまり陽に当たってないような痩せた顎と、薄い唇が覗いている。キャップの後ろからは無造作に束ねた金色の長髪が、これまた紺色のTシャツに垂れていた。

「珍しいよなー、アツもついてくるなんてさ。よっぽどひろの匂い嗅ぎたかったのか」

 どこかで見た気がすると思ったら、リョウの変態相棒、アツだった。痩せぎすの小柄な紺色Tシャツはわたしの後ろをすーっと離れて、トイレ方面へ消えていった。

「に、匂いって……」

 アツの息がかかったのではないかと思われる首筋に悪寒が駆け上がる。わたしの匂いを嗅いだ後にアツってば、トイレで何をしてるのか……うえっ、想像したくもない。

「どうしてあんな変態と組んでんの?」

 首筋に残っていそうなアツの邪念をばたばたと手で払いながら文句を言うと、リョウは煙草をくわえながらにやにやした。

「盗聴や盗撮はアツの方が専門なんだよ。データチェックは大体あいつがやるしな。そんなに知りてえんなら仕事手伝え、おにーさんが二人がかりでカラダで教えてやる」

 視界の片隅で軍靴とせめぎあっていた千歳が、その言葉に慌ててすっ飛んできてわたしの腕を掴んだ。

「もーひろさん、絶対こいつらに関わらないで下さいっ!」

「あー、はいはい」

 千歳の小言スイッチが入ったのを察してウンザリする。時折、口うるさい父親みたいに説教しだすのだ。こうなったら夕立と一緒で、適当に雨を払いながら過ぎ去るのを待つしかない。

「見習いも鍵屋も盗聴も変態も、いい加減懲りて下さい!」

「はいはい」

「怪我ばっかりしてんですよ? 救急車に乗る趣味に目覚めちゃったんなら話は別ですけど」

「はいはいってば」

 アマレットを喉に流しながらあしらう。早くバイトに戻ってくれないかな。

「それに出席日数だってすでにギリギリなんですから! 実はその辺のスリルにハマってんの?」

「はいはいはい」

「今からラブホ行く?」

「やだ」

「何でそこだけちゃんと聞いてんですか!」

 しかも即刻拒否かよ、とぶつくさ呟いてるらしい千歳へ渋々向き直る。

「絹さん、もう見習い押し付けてきたりしないってばー。ちゃんとおじいちゃんの供養してるもん。それより霊道をどうにかしないと、あの部屋じゃ静かに勉強もできないよ」

「何だそれ」

 きょとんとしたリョウは霊道の話を聞くと、人の気も知らずにガハハと豪快に笑った。いや、わたしがげんなりしているから笑ってるのかもしれない。意地悪なのか、紛らしてやろうとわざと笑ってみせてるのか、どうにも判断がつかない。

「ひろ、おまえそんなん色々見えてたら、世の中面白えだろ」

 リョウの眼には、世の中は面白くて仕方ないおもちゃ箱か何かみたいに映ってるんだろう。こういう人なら霊感を持ってたって、部屋に霊道が通ってたって気にならないんだろうな。

(こういうヤツの部屋を選んで霊道を通してくれればいいのに……)

「ひろさん、引っ越さないで下さいよ。夜だけ俺の部屋に来ればいいじゃん」

 灰皿換えるの、何回目なんだ千歳。そんなに神経質に換えたって、どうせすぐリョウの吸殻に汚されるだけなのに。

「さっきからチョコマカうるせーぞ色男、邪魔すんな。他の店でもこっちは構わねえんだ。ひろ連れて消えられたくなかったら引っ込んでろ」

 千歳はどうやらわたしとリョウの会話が気になって、灰皿を口実に様子を見に来ていたらしい。リョウはあしらうというより、何かとつっかかってくる千歳で遊んでいる気配だ。いつの間にか戻っていたアツは一言もしゃべらずに、ちびちび酒を舐めている。

(疲れる飲み会だ……)

 日付が変わるまで飲んだけど結局、本気で嫌がってる千歳と、とりなすわたしをつまみにされただけだったような気がする。

(アツにはおかずにされた可能性もあるな……おえ)



 こんな夜中に女の子一人で帰せない、閉店作業が終わるまで待ってて下さい。と千歳に懇願されたが、アツに送らせると冗談を言い出すリョウとまた悶着になったのが面倒で、さっさとタクシーに乗ってやった。

 どっと疲れた体を引きずりつつ階段を上る。薄暗い外廊下で鍵束を引っ張り出すその間にも、鍵を必要としない幽霊さんたちが霊道を辿って続々とドアを通過していく。わたしの部屋だというのに、唯一ドアに阻まれている自分が何だか虚しい。

 玄関の鍵を選り分けて鍵穴に差す……が、どういうわけか鍵穴は鍵の侵入を拒否した。酔って鍵を見誤ったか。廊下の電気にかざしてみたけど、どう見ても鍵の選択は間違ってはいない。

(あれ?)

 ゲッコーばりに扉に貼りつきよくよく観察すると、鍵穴というかその周りの鍵全体が今朝までと違うことに気付く。

「何これーっ!」

(大家さんに換えられたのか? いや家賃滞納は一回しかしてないはず!)

 銀行の口座残高は、先月末の振替日までに何とか家賃分くらいは残しておいたはずだ。おじいちゃんの事件が解決した時に、給料だと言ってリョウが時価二百万以上の金貨をくれた。が、換金が面倒くさくって、轟と千歳におごるために一枚換金してそれっきり。わたしの家計は相変わらずキュウキュウなのだ。

(……あ、メモ)

 ドアに挟んであった黄色いコピー用紙を発見し、引っ張り出す。その辺の郵便受けから失敬したんだろう、広告の裏に隣県の住所と短いメッセージが殴り書きがしてあった。

『カギ 取りに来い』

「…………」

 大家さんなら鍵を取りに来いではなくて、家賃を払えと書くだろう。大家さんでないとすると、主の留守中に無許可でこんなことをする犯人は、わたしの知る限り一人しかいない。さっきまで一緒に飲んでいたあの不良鍵屋だ。

 リョウのヘラヘラと人をバカにしたような顔が脳裏をよぎる。わたしと轟が部屋探しをしてるあいだに人んちのカギを無断で換えて、それを黙ったまま酒飲んで面白がってたのかあいつは。しかも鍵を餌に、どこかに呼び出そうとするとは。

(用があるなら飲んでる間に言えばいいのにっ。また何か企んでるんだな、きっと)

 怒り心頭で携帯をバッグから掴み出したが、あろうことか充電切れ。わたしは電池切れを知らせる電子音をよく聞き逃す。それは左耳が難聴なせいじゃなくて単なるズボラだ、とよく千歳に怒られる。わたしに言わせれば、千歳がマメマメしすぎるんだと思う。

(でも、つい最近充電しといた気がするんだけどなー)

 充電器はもちろん、この開けられなくなったドアの向こうだ。ベランダから窓を叩き割って入ろうか。でも事情を知らない人に見つかって通報されるのもややこしい。よじ登るのに都合のいい足場も見当たらないし、というかそんな足場があったら防犯上困るのはわたしだ。

(仕方ない、取りに行くか。でも駅前のレンタカーって確か、こんな夜中まで営業してなかったはず……)

「どうしたんですか……」

 ベルに応じてTシャツにスウェット姿で出てきた轟の寝ぼけ眼に、やっぱり叩き起こしてしまったことを知った。

「ごめんね、起こしちゃって。アコードの鍵、貸して」

「……鍵貸すだけならいいですけど……運転する気じゃー……」

 寝ぼけてても、お酒の匂いは分かったらしい。

「えーと、鍵を借りるだけ。車は借りない。ほんとほんと」

 眠そうなゆっくりした瞬きだったが、明らかに疑っていた。

「車の中にお財布落としちゃったみたいなの。それ探すだけ」

 やっぱり信用してもらえなかったらしく、ぼさぼさ頭のまま轟はのっそりついてきた。わたしは指定席である助手席から乗り込んでシートの下を覗くフリをし、隙を見てドアを閉めた。

「わわ、ひろさん! じょ、冗談ですよね」

 途端に轟の眠気はすっ飛んだらしい。びたっと窓にくっついた轟のおでこは、発車してもそのままついてきそうな張り付きっぷりだ。暗闇でそんなことされると、少々不気味である。

「どっか行きたいなら僕が運転しますからー!」

「眠そうなのに悪いからいいよ」

 よいしょとシフトレバーをまたいで運転席に移動し、背の高い轟が目一杯下げてるシートをぐいぐい前に調整する。脚の長さがこんなに違うのか。内心情けなくなりつつ、エンジンをかける。

「リョウのとこ行くだけ。どうせ霊道の通った部屋なんかじゃ眠れないもん。じゃーねー」

「そんな、このままじゃ僕が眠れません! ひろさーん……」

 振り向いたらアウトだ。絶対、きゅうんと鳴いて箱の中から見上げる子犬みたいな眼をしてる。ある意味メデューサだ。見てしまったら振り切れないに違いないから、足の甲を轢いてしまわないことを祈りつつアクセルを踏んだ。

 幸い、轟のおでこの吸着力は心配したほどじゃなかった。



 メモの住所はリョウの事務所で、オフィス街なのかと思っていた。が、一時間かけてたどり着いたのは、所々に畑も残っているような何の変哲もない住宅街だった。車の窓越しにも、リーリーと虫の音が賑やかだ。広い間隔で設置された弱々しい街灯の中、細い道をのろのろぐるぐる走り回ってようやくメモの住所を探し出した。

 何とか荘と呼ぶのがふさわしい平屋建ての、お風呂場がついてるのが精一杯といった古そうな建物だ。塀もなく砂利を敷いただけの土地にちょんと建っていて、表面の合板が反ってしまった安っぽいドアがむき出しに並んでいる。染みの浮いた外壁にはヨレヨレの自転車やほうきが立てかけられ、ひびの入ったコンクリートの土台に載っているのは朝顔やナスらしき鉢……郷愁を呼び覚ましそうなものすごい生活感だ。

(リョウってば荒稼ぎしてるっぽいのに、こんなとこに住んでるわけ……?)

 確認したが、やっぱりメモの住所はここだ。指定された部屋の、雨漏りしそうに歪んだ郵便受けの名前欄には、辛うじて高木と読める黄ばんだ紙が挟み込まれていた。でもリョウの苗字なんて知らないから、合っているのか分からない。そもそもリョウというのが本名なのかどうかさえ怪しいもんだ。

(ひょっとしてリョウの悪戯だったりして。全然関係ない人の家だったりして)

 有り得る。だけど、わざわざここまで来たからにはやるしかない。怖気づいてのこのこ帰ったりしたら、リョウは機嫌を損ねて鍵をくれないに決まってる。

 無関係な人が出てきたら即刻逃げよう、と決めてからチャイムを押そうとする……が、そんなハイカラなものはこの建物に標準装備されていないらしかった。仕方なく、控えめにドアをノックする。丑三つ時のノックに出てくる人なんているだろうかと思ったが、ドアの薄さを証明するような軽いノックに反応した気配があった。

(えっ……)

 上半身の圧覚が一気に目覚めて騒ぎ出す。濃い空気の塊で肌をゆっくり押してくるような霊気が、薄汚れた合板ドアの向こうから溢れ出してきた。

『亮ちゃん、帰ってきたの?』

 慌てたような、待ち構えていたような弾んだ若い女性の声。その人はノブを回すことなく、ドアを開けることもなく、それをすり抜けて姿を見せた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ