Twilight of the gods
黄昏――というのは、薄暗いために出逢った人が誰なのか分からない「誰そ彼は」が語源なのだという。運悪くそれが、降りてきた宵闇に紛れての強盗ともなると、黄昏時は逢魔が時となる。
しかしそこに居たのが人ではなく異界の者だった場合、強盗のほうが余程マシだったと思う羽目になる。
さっきから何度もせわしげに周囲の杉林を見回していた千歳が、とうとうスノーモビルを停めて天を仰ぎ、そして振り返った。轟パパの別荘を出発した時の空は、夕焼けから星空へと、創造主が絵の具を惜しみなく投じて染め分けたみたいだった。その天上のキャンバスはいつの間にか、厚く灰色に塗り潰されている。
けれど千歳が気にしているのが、雪よりももっと考えたくない可能性であろうことは察しがついていた。
(気付いちゃったか……)
隣へスノーモビルを停める。メットを脱いでかき上げた前髪の下で、千歳のすらりと濃い眉は困惑の形に寄せられていた。
「あのー、ひろさん。轟は別荘から県道まで、十分もかからないって言ってましたよね」
「そうだねー」
『雪にスピンした車の玉突き事故の処理で、県道が一時封鎖されているんです。ガレージにスノーモビルが二台あるので、林道を使って迎えに来てもらえませんか。車を置いて、そっちに乗ります』
と、自分のせいでもないのに恐縮しきりの轟から電話を受けて、すぐに出てきた。短い外出だからと時計はしてきていなかったが、出発してから優に十分以上が経過しているのはいくら何でも分かっていた。とっくに県道が見えてきてもいい頃だ。
「見間違いようのない直線の一本道だ、って言ってましたよね」
「そうだねー」
わたしがこんな風に事実を言い出すのを先延ばしにする時は霊関係が絡んでいることを、千歳は経験的に知っている。短い相槌しか打たないわたしに怯えた視線がまとわりつく。
少し間があって、それから意を決したように千歳は再び口を開いた。
「俺の気のせいだと思いたいんで・す・が、さっきから同じところを何度も通ってるんですよね……」
探るような上目遣いは、否定してくれと祈っているように見えた。
「ごめん、それ気のせいじゃない」
途端に千歳は一心に念仏を唱え始めたけれど、全く効果がないことは情けで黙ってやっている。
「あー、でも霊とちょっと違う気がする」
「なーんだ。脅かさないで下さいよ」
ほっとした笑顔には申し訳ないが。
「どっちかって言うと、妖怪」
千歳のシャープな顎がガクンと落ちた。
冬の雪山に吹き始めた夕方の風は、極細の針先でちくちくと頬を刺すような冷たさだ。その中から選り分けた霊気は、ただの霊にしては重ったるく広範囲すぎた。こんな強烈なのは人の霊じゃない。
「余計始末が悪いですっ! 変なの呼び寄せるフェロモン撒かないで下さい!」
(口調が冗談くさい割に、真剣味を帯びてる気が……)
こいつは間違いなく口から先に生まれてきている。生意気で冗談ばかりで、平然と人をからかう。はたいても踏んでやっても、まるでそれが生き甲斐みたいにやめようとしないのだ。
誰に対してもそうならまだ諦めもつくのだが、何故か他の女の子にはとっても優しいらしい。バーテンのバイトをしている彫りの深い甘い顔立ちとくれば、言い寄る女の子が後を絶たないのも分かる気はする。が、実はこんな口の悪いヤツだと知ったら、その子たちはさっさと踵を返すに違いない。
遠い実家から向かう予定の轟に鍵をもらって、別荘で落ち合うことになっていた。轟から救援要請があった時、わたしと千歳はレンタカーで現地にたどり着いたばかりだった。それまでの車中、わたしがパンチよりハンドルを優先するのをいいことに、千歳には言いたい放題ふざけまくられた。
(わたしを彼女にしたいなんて言ったの、あれも冗談だったのかなあ……)
突発性難聴で左耳がほとんど聞こえないわたしは、右耳もいつか聞こえなくなるのではないかと不安に駆られることがある。そうなったら、手話を覚えてまで残ってくれる友達はいないんじゃないかと感じていた。その度に腕時計の秒針の音で聞こえることを確認し、気持ちを落ち着けるようにしている。
つい先日、俺がひろさんの時計になるというような台詞で口説かれた……ように思っていたのだけれど、その後も千歳の態度は全然変わらない。この生意気極まりない態度が、好きな女の子に対するものとは信じがたい。何だか騙されたような気がしてくるほど、いつもの調子なのだ。保留している返事をする気も失せてきた。
「で、どんなモンスターを召喚しちゃったんですか。砂かけババアとか、こなきじじいとか? あっ、それとも冬だから雪女?」
「ほのぼのしたのを思い浮かべてるんだね」
本当にそう思ってにこやかに返したのに、千歳は頭を抱えて首を振った。
「あんなのがほのぼのなんですか! じゃあ、俺たちを迷わせてるのは何なんですかっ」
そうだった、ぐるぐる同じところを走らされてるんだった。
「さあ。でも妖怪ってもともと神様って説もあるから、そんなに怖がらなくてもいいんじゃない? あんまりおどろおどろしい感じしないし」
信仰が失われて、神様が堕落したのが妖怪だと聞いたことがあった。どんな由来や姿形を持つ神様にせよ、むげに放置されたら拗ねもすりゃグレもするだろう。このあたりには昔、スキー場開発に伴って移転した村があったと轟に聞いたっけ。その時に何らかの理由で、それまで祀られていた神様が忘れられてしまったのかもしれない。
そんなことをタラタラ話している間に、雪雲は杉のてっぺんに引っかかりそうなほど降りてきた。気温はとっくにマイナスもいいとこだろう、足許に小さな蒸気機関車が走っているみたいに白い息が流れていく。
千歳はとうとうちらつき始めた雪を見上げながら寒さか恐怖か、ぶるっと腕組みを震わせた。瞬く間に本降りになった雪が、杉林の暗色を重たい白に変えようとしている。わたしたちもそこに塗りこめられてしまいそうな気がした。
「俺たち、たたり殺されたりして」
「殺されるってことはないと思うけど」
そう言ってあげたら、千歳の肩から緊張が抜けた。
「でも、生きて帰れないかもね」
「一切フォローになってません!」
とにかくいくら進んでも周回させられるだけだし、雪で視界もきかない。様子を見ましょう、と言う千歳に同意して林道脇の杉林に避難することになった。
「うわっ、ここ電波届きませんよ」
雪を被らないよう、杉の枝が大きく道に張り出している一角へスノーモビルを停めた。その太い幹の陰で、妖怪だか神様だかの悪戯あるいはたたりが過ぎ去ってくれることを願いながら、風雪をしのぐことにする。
液晶画面を睨みつつ携帯をあちこちに差し向けていた千歳の声には、焦りが滲んでいる。轟は携帯カイロや食料を積んでると言ってたから、しばらく待たせてしまっても大丈夫だろう。けれど人一倍心配性の轟のことだ、連絡なく到着が遅れているわたしたちをひどく気にかけるに違いない。
掴み取れそうにもったり厚い雲の向こうで、夕陽は山陰へ逃げてしまったらしい。あたりは急速に暗くなっていった。雪を舞い散らしながら吹き抜ける風は、耳を凍らせようと躍起になっている。
千歳は電波が入りそうな位置を求めてうろうろ歩き回っていたが、やがて諦めたらしく気落ちした表情で戻って来た。
「絹さん、道案内してくれたりしないんですか」
「してくれるわけないじゃん」
絹さんはわたしの守護霊である曾祖母で、傲慢で短気でちゃっかり者だ。この人の勝手な都合で、わたしは守護霊見習いと称する未熟な霊たちの面倒を押し付けられた。無口なヤンキーに始まり、能天気な高校生や消息不明だったおじいちゃんまで。その度に怪我して轟に心配させたり、大学の講義を休んで千歳に怒られたり、なのに褒美があるわけでもなく、絹さんにいいように使われて終わるばかりなのだ。
「そもそも守護霊ってのは守護っていうからには守ってくれるもんだと思ってる人いるけど、どっちかっつーと見守ってるだけ。魂が一緒に成長するように決められた、ペアの相手っていうのが正しいかな」
幹の陰とはいえ、風は木々をすり抜けて来ては容赦なく体温を奪って行く。スキーウェアじゃなくて普段のコートで来てしまったからすぐに手先足先が冷たくなってきて、二人して大振りの枝の下で足踏みを繰り返した。
「絹さんみたいにホイホイ出てきて、おまけに自分の都合で見習いだの供養だのって要求する方が珍しいよ。ほんっとにどれだけ世話してやってるか分かってんだか」
文句というものは、一旦言い出したら言い切るまで引っ込むことを知らないらしい。どんなに寒いと言っても、言うたびに寒風で歯が痺れるばかりの苛立ちも手伝って、どんどん腹が立ってきた。
「大体ね、わざわざ人前に出てくる霊だの妖怪だのってのは、単なる構ってちゃんなの。わたしはこんなに苦しんだとか、ここにいまーすとか、自分の感情や存在をアピールして反応してもらいたいだけなの。そういう意味では痴漢と同じだよ。道でコート広げて相手がキャアとか言ってるのを見て喜ぶ露出狂と変わんないのっ」
わたしが拳を握って力説しているというのに、千歳は首をすくめてハラハラした様子だ。
「ひ、ひろさん、余計にたたられそうなこと大声で言わないでくださ……」
「千歳はムカつかないの? そうやって怖がったりするから向こうが調子に乗るの! 露出狂も構ってちゃんも、無視が基本だからね。絹さんだってちょっと甘い顔するとすぐ欲を出して、あの店の大福は甘すぎるだの、もっと上等な煎茶にしろだの、いっそブチ殺したくなるくらいうるさ」
言い終わらないうちに頭上から雪崩のごとく雪が落ちてきて、勢いと重さに思わず前のめりに倒れ込んだ。
「つ、冷たっ」
首筋にまで侵入した雪をばたばたと掻き出す。膝立ちのまま見上げると、頭上の枝先を引っ張っていた海老茶の袖、すなわち絹さんの手がひょいと姿をくらました。
「あの業突く張りの性悪ババア! 帰ったら位牌を埋めて踏んづけて、それを肴に雪見酒してやる!」
せっかくここのところ、ちゃんと好物のこしあん大福を供えてやってたのに。少し悪く言っただけでこの仕打ちだ。
「青汁や牛乳攻撃も飽きたな。今度はどんなもの供えて嫌がらせしてやろうか。そうだ、ブルーチーズなんてどうかな。ね、千歳」
同意を求めて振り返ると、千歳は雪を被ってへたり込んだまま呆然としていた。
「今、性格の隔世遺伝を力強く目の当たりにさせてもらった気がします……」
素早く丸めた雪玉を投げつけてやった。
自然環境保護の意識がないわけじゃない。けれど今は自分が大事だ。杉の下枝を折り取って雪に敷き、その上に並んで腰を下ろした。
男のくせにわたしよりよっぽどおしゃべりな千歳は、ぺらぺらと話し続けている。遭難救助犬に持ってきてもらいたい酒、という話題がこの場合に心休まるものなのかどうかは別として。正体も知れない相手に理由も分からず閉じ込められているという恐怖を、しゃべることで忘れていたいのだろう。
話しながら千歳は事のついでみたいな何気なさで、自分のマフラーをわたしに巻こうとした。その手が寒さに震えている。こっち側が好きなんですと妙な主張をして千歳が座ったのが風上だったことに、そこで気付いた。いらないと答えたのに、マフラーは強引に巻きつけられた。
「ひろさんのことは、どうでもいいんですけどね。俺の耳が寒がってるから」
ちょっとした経緯で、わたしの聞こえない左耳は千歳のものということになってしまっている。千歳は何かにつけ、この耳をダシに使う。『俺が俺の耳に何しようと自由じゃないですか』と言ってキスしたり、『何を言おうと勝手じゃないですか』と直接は言えないらしいことを言ったり、『俺の耳をデートに連れ出す』と誘ったりするのだ。
要らない耳だからあげる、なんて安請け合いしてしまったために断りづらい。それを利用されるのは、いつもなら腹立たしいのだが。
「……千歳の耳が、お礼言っといてって」
しかし、俺はいいから君だけはとか何とか、普通に優しい言葉がかけられないもんだろうか。クラスメイトの女の子にはいつも、これでもかの笑顔と褒め言葉でご機嫌を取ってるくせに。
助けを見込めず事態が好転するのを待つしかない状況で、時間だけがどんどん過ぎていく。すでに光ひとつ見当たらず、薄紺に染まった雪の中に黒く杉のシルエットが浮かぶだけだ。すぐ隣にいるお互いの表情が読み取れないくらい暗くなっても、雪も霊気も止む気配すら見せなかった。
顔の細胞が凍りついて流氷みたいになってもおかしくない寒さだった。寒いと言うのも疲れてしまったほど、繰り返し襲ってくる冷たい風が憎らしい。膝も、それを抱える腕もぶるぶるしている。
鳴り続ける歯のせいか千歳の口がだんだん滞り始めると、さすがに見ていられなくなった。
「すぐ戻れると思って軽装で来ちゃったね。こっちに座りなよ」
と言っても千歳は動こうとしない。
「あのね、女性の方が皮下脂肪のおかげで寒さには強いんだから。場所、替わろ」
「こんな時ばかり、自分が女の子だってことを主張しないで下さい」
そういえば以前はよく、女の子らしくないって千歳に叱られたものだった。最近ようやく諦めてくれたらしくてラッキーと思ってたけど、今はそれを逆手に取られているような。
いいから、と無理矢理腕を掴んで引っ張ろうとしたら、びっくりするほど震えているのが分かった。わたしが震度二なら、千歳はその倍くらいだ。
「大丈夫?」
「いえ」
切羽詰ったような短い返事に、どきんとする。
「暗いところでひろさんと二人っきりだから、ムラムラきてます。こうなったらもう、俺と全身運動してあったまりま……」
思いっきり頭をはたく。が、手がかじかんでいる時の衝撃は骨が痺れるように痛い、ということを学ばされた。
千歳にまだ冗談を言う元気は残ってるみたいだけど、いずれにしろひどく震えているので強制的に風下へ引きずって移動させた。それでも千歳の、痙攣に近いほどの震えはおさまりそうにない。
口数も、いつもの小憎らしい切り返しもめっきり減ってしまった。千歳が大人しいのは相当落ち込んでるか、柄にもなく緊張している時くらいしかない。暗くて表情が見えないのもあって、何だか落ち着かなくなってきた。そんな中、聞くだけで耳が痛いような風の音と途切れがちな会話ばかりが当ても無く続く。
一方で、轟を相当待たせてしまってもいた。わたしも震えが止まらない。何とかならないものかと立ち上がった。
「どこ行くんですか」
千歳は舌まで凍えているらしく、発音が明瞭でない。
「電波が入る場所、探しに行って来る。すぐ戻るから」
そう言い置いて吹雪く林道へ向かおうとすると、千歳も立ち上がって追って来ようとした。けれどすぐによろめいて、膝を突いてしまっている。その姿勢のまま顔を上げたのが、暗い中でもぼんやりした白さの動きで分かった。
「またあいつのところに行く気?」
(あいつって……)
轟のことを言ってるんじゃない。千歳がこんな風に苦々しげに呼ぶあいつは、一人しかいない。わたしは戦友としか思っていないのに、遠慮と誤解のせいで千歳が妬き続けた年上の男。
「そうなんだろ?」
それまでの寒さは一体何だったんだろう。背筋を氷の柱で貫かれたように思った。身体の底へ抜けていって芯から冷やすような寒気に、その場へ縛り付けられた。
「ねえ千歳、それは今は関係ないでしょ。携帯が使えるか、見に行くだけだから……」
「ひろさん、あいつと出掛けると怪我して帰って来る。俺が止めなきゃ」
発熱しようと身体が作り出すのとは違う震えが襲って来た。寒いのに、額に汗が浮くのが分かった。
「彼のとこには行かない。轟に電話するだけ、ほんとにそれだけ」
祈るような気持ちでなだめたのに、千歳の答えはそれを裏切った。
「……轟に? 何で?」
感覚の中には凍えても足りないような冷たさしかなかったのに、眼の奥に一気に熱が生まれた。千歳がおかしい。いつも速い回転とふざけた調子で、たまには愛想笑いの下から優しさを覗かせて元気付けてくれる千歳がおかしい。
原因はわたしたちを吹雪の中に埋もれさせようとしている何者かへの恐怖のせいか、寒さのせいなのか。ショックと怒りが黒く渦巻きながら湧き上がってきて、眼から溢れそうになった。
「誰だか……知らないけど……」
泣きたくはなかった。泣いたらこの事態に負けてしまう気がした。
「あんたが神様なのか妖怪なのか知らないけど、こんなことしたって仕方ないでしょ! 何か欲しいならあげる。何かして欲しいなら、してあげる。どうしてこんなことするの。何か言いたいことあるならハッキリ言いなさいよ!」
どこから霊気が流れて来ているのか、それさえもはっきりしないほど肌の感覚は鈍っていた。それでも近くにいるであろう何かに向かって、声を張り上げる。
「そのためにもわたしたちをここから出して。千歳を連れてったりしたら、絶対許さないんだから!」
返答はなかった。杉の梢を抜ける風の音だけがひょうひょうと響いている。
結局抑えきれずに、やけに温かいものが頬を滑り落ちていった。悟られまいと声を押し殺していたけれど、もたつきながら立ち上がった千歳に抱きすくめられたということは、泣いているのがバレてしまったらしい。
恋人同士でもないのに、千歳とは何度もキスをしたことがある。あの温かかった唇が可哀想なほど冷たいのが悲しかった。頬なんてとっくに感覚がなくなってたけれど、涙の通った跡だけは洗い流されたみたいにその冷たさを拾った。千歳の唇は震えながら、涙を探して頬の上を彷徨った。
勝手にキスなんかして、普段なら二発くらい殴ってやるところだ。でも今だけは見逃してあげよう。いくら殴ってもどうせ、こっちの手が痛いばかりなんだし。
「分かる気がする……」
わたしの肩に回された千歳の腕は、抱くというより寄りかかるみたいに力が無い。
「相手の反応を見て喜ぶとかじゃなくて……こうして捉まえてたら、ひろさんは俺のことしか頭になくなるじゃん。たとえそれが、『早く放せこの野郎』だとしてもさ……。だから俺たち、閉じ込められてんだよ……」
千歳の頭の中では現実と過去が入り混じって、わたしに丁寧語を使うことも忘れてる。しっかりしてと言ってますます気を立たせるより、この場を動かずに落ち着かせてやる方が良さそうだ。電波を探すのは諦め、じっと千歳の話を聞いた。
「雪って、涙みたいじゃないですか」
意外にも詩人だ。わたし以外の女の子にはいつも、こんな気障なこと平気で言ってるんだろう。ちょっとムカつく。
千歳がふざける対象であるわたしに対して、そんな台詞を言い出すことに不安になればいいのか。一時タメ語だった語尾が再び丁寧になってきたことにホッとすればいいのか。乱暴な風に蹴散らされる粉雪みたいに、考えも心もばらばらになりそうだった。
今の千歳は、指先の熱だけで融けてしまう雪の結晶みたいだ。触れられてもいい、でもこっちから下手に触れちゃいけない気がした。だからもっと抱きしめて欲しい、これ以上ばらばらにならないように。
その結晶が消え入りそうな声で呟く。
「雪も涙も、静かなほど受け止めたくてたまんなくなる……」
言われて道の方へと眼を向ける。雪は音もなく降りしきっていた。
(これは、わたしたちを閉じ込めてる何かの涙なのかもしれない)
神の堕落だの妖怪だの、そんなことを知ってても手も足も出せない。無視したって何も変わらない。心が理解できなければ、もつれた糸はほぐせない。むしろ何も知らない千歳の方が、ずっと正しく物事を見ているのかもしれなかった。誰かが悲しくて寂しくて……早く放せとしか思われないとしても、何も得るものがないとしても、通りかかったわたしたちをただ一瞬呼び止めたかったのかもしれない。
雪が止めばいいと思った。視界がとか道路状況がなんてそんなことではなくて……もしこれが誰かの凍えてしまった涙なら、千歳がわたしにしてくれたみたいに、受け止めて拭ってあげられたらいいのにと。それがどんなに心強く安らぐものか、まさに今この瞬間に教わって知っているから。
ふと気配を感じて身体を離す。手元の携帯画面を見ると、電波状態を示す表示が一本、逡巡するように数回瞬いてから点灯した。
『えーと、僕が電話したの、ついさっきですけどー……』
繋がった途端にまくし立てたわたしの剣幕に戸惑っているらしかった。おずおずとした轟の台詞に我が耳を疑う。時計がないから明確には言えないけれど、迎えに来て欲しいという轟の電話からすでに二、三時間は経っているはずだった。あの時は黄昏だった空だってとっくに闇の中だ。
でも、そんなことに構っている余裕はない。千歳がひどく寒がって震えて、よろめいたりもつれたようなしゃべり方をしたり、会話がおかしいことを一気に話した。
『それちょっと、何かした方がいいですね』
霊感があるせいであれこれ面倒ごとを起こすわたしに慣れている轟は、時間軸の不一致はひとまず置いておくことに決めたようだ。医者一家に生まれ育った轟は、大学の専攻よりもよっぽど医学に通じている。普段はおっとりしている口調がやや緊迫を帯びて、わたしのどきどきも増幅した。
千歳は傍らでぐったりと杉にもたれて座り込んでいる。
『軽度から中程度の低体温症の症状です。どんどん進んじゃいますから、すぐ処置した方が……あっ、でも手足をさすったりしないで下さいね』
体温が低い、暖かくしてやらなきゃいけないとなれば、まず思いつくのはマッサージだ。電話しながらでもすぐそれをしてあげようとしたが、轟の言葉に引き止められる。
『無理に動かすのもダメです。手足の冷たい血と身体の中心部の温かい血を、急に混ぜちゃいけないんです。不整脈や心室細動を起こすので』
そういえば聞いたことがある。知識の少ない救助隊や仲間が善意で行ったはずの誤った処置によって、逆に死を招いてしまうことをレスキュー・デスと呼ぶのだそうだ。まさにそれをしてしまうところだった。
(繋がって良かった……)
眼を閉じて深呼吸をして、携帯を繋げてくれた何かに感謝する。アンテナマークの横に立つたった一本の液晶表示は今、千歳の命綱なのだ。
『濡れた服を着たりはしてないですね? 風や雪の当たらないところにいますか? 何か温かい飲み物でもあれば、飲ませて内臓からあっためるのがいいんですけど……』
焦りながら、ないと答える。
『カイロを脇に入れてあげるのも有効です』
轟を迎えにちょっと出るだけのつもりだったから、全くそんな用意はなかった。
『寝袋があれば、裸で添い寝って手もあるんですけど』
……寝袋がなくて良かったかもしれない。
「他に何か出来ることはないの? だって、そっちでは全然時間が経ってないんでしょ。ここ異空間みたいなものじゃない。千歳を動かせないなら、今ここでわたしが何とかしてあげるしかないのに!」
わたしたち三人は、半分同居状態で暮らしている。轟にとっても千歳は大切な親友だ。懸命に考えてくれてるのは分かっているのに、つい怒鳴ってしまった。成す術も無く目の前で千歳が凍えていくのを待つなんて、出来そうになかった。
「ごめんね、千歳。ごめん……わたしと一緒にいるから、こんな目に遭っちゃったんだよね」
眼が敏感な人はそれだけ光に弱いように、霊感があると無い人より霊障を強く受ける。霊感のない千歳一人ならば、この林道を何事も無く通過できたかもしれなかったのだ。
謝りながら千歳の隣に膝を突くと、幹にもたれていた千歳の顔がゆっくりとこっちを向いたのが、闇を透かして見えた。
「俺……当事者です」
また何かおかしなことを言い出すのだろうか。自分の胸に手を当てて、奥へと不安を押さえつける。
どもりがちの緩慢な口調で、千歳は続けた。
「追っかけても間に合わなかった。ひろさんが耳に怪我した時も、刺された時も……いつも、やっと会えた時はもう遅かった。でも今回は隣にいる。だから、すげえ嬉しいです……」
信じられない。千歳はこんな災難に巻き込まれて、嬉しいなんて言ってる。
「俺には霊感なんてないし、隣にいたってひろさんには足手まといなだけかもしれないけど……ひろさんが泣いたり怒ったりする、その場に居合わせたいんです」
また泣きそうになった。
千歳が心配してくれるのは有難いけど、少々過保護だし怒ってばかりじゃないか、なんて思っていた。だからどうすれば心配させずに済むのか分からなかった。
でも千歳にとって心配をかけないというのは、心配させそうなことを隠すことでもなく、自分で解決できると示すことでもないんだ。一緒に何とかしたいって思ってくれてるんだ。
影の中から千歳の手を探し出して、手袋越しに握った。マッサージは厳禁と言われたから、握るというより添える程度だったけれど。笑ってくれたかどうか、暗くてよく見えない。
千歳は自分の体温さえ保てずにいるのに、わたしの胸の奥をこんなに温かくしてくれる。それをそのまま千歳にあげたかった。
その時、携帯越しに轟が大きな声をあげた。
『あっ、ひろさん、もう一つ方法を思い出しました』
「あのね、千歳。今からするのはれっきとした治療行為であって、轟がそれしかないって言うからであって、それ以外の何物でもないからね」
最後の手段を伝授してくれた轟との通話を切ると、迷っている暇は無いと自分に言い聞かせた。杉を背にへたり込んでいる千歳の脚の間に両膝を突いて、まずはそう宣言する。
「それが終わったら、それについて言及するのは一切ナシだからね」
代名詞ばかりで分かるもんかと思っているのか、それとも反応する元気もないのか。沈黙を無視して、千歳の頬を両手で挟んだ。
『マウス・ツー・マウスでコア加温するんです』
轟はそう言った。単語の雰囲気で何となくやるべきことは察したけれど、思わず『はあ?』と聞き返した。
『人工呼吸ですよ。低体温症は内側から温めないといけないんです』
(それってつまり、それってつまり)
『えっとー、後でややこしいことになる気がするんだけど……』
『千歳の呼吸に合わせてゆっくり、息を送ってあげて下さい』
ぐるぐるしているわたしをよそに、轟はてきぱきと続けた。ブラを上げるか躊躇する少女を待たない内科医みたいだ。
『意識がはっきりしてフラついたりしなくなったら、スノーモビルでこっちに連れてきて下さい。カイロとか温かい飲み物とか準備して待ってますから。じゃ、千歳を宜しくお願いします』
要するに、それまでひたすらキスしなければいけないらしい。
(いやいや、キスと人工呼吸は別物だからっ)
最後にもう一度自分を納得させて振り切る。そして、千歳の体温を零してしまうその唇を、唇で塞いだ。
驚かれたみたいだ。ひろさん、と声に出さずに呟いたのを唇で聞く。自分自身だけでは感覚を失っていくのを止められないのに、重ねるとじんわり温かいのはどうしてだろう。
前にもこんな風に、千歳に無理矢理キスしたことがあったっけ。うざったい守護霊見習いをさっさと卒業させたくて、キスを味わってみたいというその願いを、手近な千歳で果たしてやったんだった。
(今更照れる理由なんか何もないじゃないっ)
千歳は黙ってわたしの唇を受けている。けれどあの時みたいにキスし返すでなく、送った息を素直に引き込んでいるようだ。返す元気がないのか、医療行為としてのキスなんて欲しくないのか。
――いいんですか。見習いのために好きでもない男とキスしたりして、ひろさんはそれで満足なんですか――
そんなことを言われたのを思い出す。
――そういうの、良くないと思いますよ。どうせするなら、ひろさんの気持ちでして欲しい――
あの頃からすでに千歳は、わたしを好きでいてくれたんだろう。彼女候補の女の子を何人も泣かせたくせに似合わない説教をして、付き合ってと強引に頼み込んだりしないで、千歳はちゃんとわたしの気持ちを待ってくれてるんだ。
(あの告白が冗談だったのかもしれないなんて思って、ごめん……)
胸の熱を返してあげたいという願いは、少しは果たされているだろうか。
芯から温まってくれることを祈りながらただひたすら息を送って、どれくらい経ったろう。しばらくすると息苦しくなってきて、唇を離して息を継いだ。それからまた繰り返そうとすると、それまで大人しかった千歳が顔を背けてしまった。
「酸欠になりますよ……」
「だから何よ」
ぐいっと強引に顔を引き戻す。千歳は楽しげに歌うような、でも弱い声で言った。
「ひろさんが死んじゃったら困るけど、俺が死んでもひろさんには見えるから、いいじゃん」
千歳は気付いてる。わたしがうだうだ言いながらも人工呼吸してるのが、千歳の命に関わる大事だからだということを。いつもの冗談以上に、この冗談は笑えない。
「良くない!」
瞬間的に頭に血が上って、思わず顔のまん前で怒鳴りつける。
「全然良くないんだから。千歳が死んだら、わたしの時計はどうなるの!」
わたしに自分の鼓動を聞かせながら、俺がひろさんの時計になる、そう言ってくれたのに。
いなくならないで欲しい、かつて千歳にそう言われた。あの時の千歳がどんな想いでそれを口にしたのか、やっと分かったように思う。繋ぎ止めたいと、今わたしが感じているような心臓を搾られるような痛みの中で、そう言ったに違いないのだ。
「生きてないと、体がないと味わえないこともあるんだって、教えてくれたのは千歳でしょ。鼓動とか……体温とか」
「なんだ……」
笑ってくれた。手袋越しでも、千歳の口元が上がったのが分かった。
「ここで押し倒して俺の体を味わわせて、ってリクエストかと思ったのに」
少し元気を取り戻してくれたのはいいけど、まずそういうことを言い出さなくてもいいだろうに。
「雪の中で? 釘が打てる冷凍バナナになりたいならどうぞ」
言い合いをしている場合じゃないのに、ついつい応戦してしまう。でも笑った弾みで千歳の肩が揺れてるのが伝わってきた。笑ってくれるのがこんなに嬉しいなんて。
相変わらず周囲の冷気は肺の奥まで刺さり、痛みゆえに吸い込むがためらわれるほどだ。けれどその冷たさを押し返せるだけのものを、千歳もわたしも胸に持っている。
「初めてキスしたね」
やっと安堵したところだというのに、千歳はまたおかしなことを言い出した。頭を抱えたくなる。
「日本語に翻訳すると、ひろさんの気持ちを初めてキスでもらった、ってことなんですけど」
「キスじゃなくてただの応・急・処置です!」
やっぱりおかしくはないみたいだ。戯言がムカついたけど、何だか懐かしくて嬉しい。雪明りだけの青写真みたいな景色に紛れて、千歳のにやにやしてる顔が見えるようだ。
「ほんっとひろさんて、とぼけてる……」
「いいからもう、黙っててよ。じゃないと、処置してやんない」
ようやく黙った千歳にまた人工呼吸を始めたら、逆に舌を入れられた。
「真面目にやってんのに!」
こんな寒くてどうしようもない時に顔を火照らせるのは、ものすごくエネルギーの浪費なんじゃないだろうか。我ながらうろたえているのが明らかな声音に、千歳がまた肩を揺らして笑っているのが分かった。噛み付いてやればよかった。
「これ以上されたら、冷凍バナナが熟れちゃいそうなんですけど」
……熟れんでいい。
まだ震えてはいても、千歳の受け答えはいつも通りみたいだった。治療はそこで切り上げることにする。一発べしっと肩をはたいたらその弾みに、目の縁に辛うじて引っかかっていた涙が転げ落ちた。さっきよりずっと温かい。どうやらそれを千歳には悟られずに済んだことを、密かに暗闇に感謝する。
気付くと、雪は止んでいた。
轟は、無理に動かしちゃいけないと言っていた。少し回復したらしいとはいえ、千歳に運転はさせられない。二人乗りのスノーモビルから雪を払って、リアシートを指差した。
「千歳、来て。一緒に行こ」
呼びかけに応じて、雪を踏みしめ歩いてきた千歳の足取りは確かなようだ。ほっと息をつくわたしに千歳は、いくら暗いとはいえ不必要なほど顔を近づけて囁いた。
「俺、ベッドの中で今の台詞聞きたい……いててて」
思いっきりつねってやった腕をさすりながら、千歳はリアシートに収まった。わたしも運転席にまたがる。
新雪はスタックしやすい。止まらないで、一気に走り抜けないといけない。緊張して暗い雪道を睨みながらエンジンが温まるのを待っていると、不意に後ろから抱きかかえられた。
「ありがと」
抗議しようとした矢先、右の耳元でそう言われて言葉に詰まる。
「ここから出られたら、忘れられちゃった神様がいないか、役場かどこかで聞いてみましょう。他人事じゃない気がして。ひろさんに振り向いてもらえるんなら、こうやって引き止めた甲斐もあるってもんですからね」
「うん」
わたしたちを雪と風に閉じ込めた誰かに、そして千歳に教わったように思う。気持ちは見たまま、聞いたままとは違うし、わたしはその向こうを見てやるのが下手なのだと。見習い守護霊の監督なんてしてたけど、わたし自身もまだまだ人生の見習いなんだと。
そして、生きているのはこれほどに温かいものなんだ、って。
「もうこんなふうに捉まえたりしなくても、振り向いてもらえますよね?」
異空間から脱け出せそうなのがよっぽど嬉しいのか、千歳の口調は楽しげだ。震える余地も無いくらい、ぎゅっと抱えられた。
「恐怖の神隠し体験! なんて大げさに言えば、役場の人もビビってすぐどうにかしてくれるんじゃないの? あはは」
長い長い溜息が聞こえたのは気のせいだろうか。千歳の腕が脱力したように離れていった。
「……俺は色んな意味で不安になってきました」
何でだー。
「じゃあそろそろ行くよ、千歳」
「はい」
風の勢いはすっかり弱まっている。メットを被って顔を上げた。杉林の壁に挟まれた雪の林道は、スノーモビルのライトの中でしんと静まり返っていた。肩にまとわりつくようだった霊気も薄らいでいる。この無限回廊から放してもらえると信じ、右手のアクセルレバーを握った。
頼もしい唸りをあげて、スノーモビルは発進した。さっきまで憎らしかっただけの冷たい風を裂いて、モビルは爽快に走り抜けていく。緩やかな上り坂をフルスロットルで駆け上がった。
丘を越えると同時に垂れ込めていたはずの雪雲は唐突に姿を消し、橙に染まる空が覗いた。薄紺だった雪景色は一気に暖色を含んで、表面は黄昏の名残をきらきら反射している。空は再び夕焼けから星空へのグラデーションを取り戻し、わたしたちはピンクグレープフルーツみたいな色をした空と薄雲を目指して疾走した。
やがて杉林が切れ、雪面の向こうに電線とガードレールが横切っているのが見えてきた。林道の出口で待っていた見慣れた白のアコードは、夕焼けの優しいオレンジに色づいている。わたしたちの姿を認めたのだろう、運転席から轟が急いで降りてきて、こちらに向けて大きく手を振った。




