… 7 days after …
… 7 days after …
「これ、入院してた間のノートです。エクセルでの回帰分析は、実際に俺がやってみせますから……」
午前中に退院してきたばかりなのに、夕方に千歳はどっさりとコピーを携えてやって来た。ついでにシロも抱えている。入院中、轟と交代で面倒を見てくれていたらしい。
「もうちょっとゆっくりさせてよ、一週間ぶりに帰って来たのにー」
抗議してみたが、きっぱり首を振られてしまった。
「出席日数ヤバいんですから、テストで挽回するしかないんですよ?」
ぶうぶう。
「バイトに行った轟から、夕飯にってレシピも材料ももらって来てますから。大人しく勉強したら作ってあげます」
こいつがにっこりする時、こっちは笑えない。
「そんなんで落とせるとでも思ってんの?」
「嫌ならいいんですよ。俺ひとりで食います」
「…………」
何だか最近、食べ物でまんまと釣られている気がする。素直にコピーを受け取ろうと手を伸ばすと、千歳はふと苦い顔をした。
「……何で、それしてんですか」
どうやらその視線は、左手にはめたブライトリングの腕時計を捉えているようだ。
「だって沙悟浄のベルト、血まみれなんだもん」
事件当時にしていた沙悟浄、すなわちオリスの茶色の革ベルトには、竹原に刺された傷からの血で無残なまだら模様がついてしまった。それをそのままはめるのも我ながら気持ち悪い。だから以前、飲み比べで外資のサラリーマンから巻き上げたブライトリングをしていたのだった。
千歳はそれがお気に召さないらしい。
「替えベルトを買えばいいじゃないですか」
退院してきた日に、買いに行けば良かったとでもと言うのか。
「だって時計してないと……」
不安になるのだ。周囲が静かだとふと、ひょっとして静かなんじゃなくて、自分の耳が聞こえなくなっただけなのかもしれないと焦ることがある。そんな時に腕時計を耳に押し付けるだけで秒針の音が聞こえてくる手軽さは、わたしから腕時計を外させようとしない。
千歳は、ラグに座っていたわたしのすぐ隣に腰を下ろした。
「……ひろさん」
丁寧語はやめようと言ったのに、轟も千歳もなかなかそれまでの慣れが抜けないようだ。さん付けも然りである。
「あいつのこと、好きだった?」
そんなこと、いきなり真剣そうな顔つきで聞かないで欲しい。時計と何の関係があるんだか。
「あいつって……リョウ?」
お世話になった鍵屋兼情報屋。あつかましくて、轟や千歳と違って女の子を丁寧に扱う気のない、でも頭が良くて優秀でかっこよかった鍵屋のことだ。
「あいつ見る時のひろさんって、俺たちには見せない顔してた。信じてるっていうか」
確かに、信頼はしてたと思う。でも、轟や千歳を信じてないわけじゃないんだけど。
「駆け落ちするって言われても疑えないような……『男』を見る目をしてたんです」
千歳は、そんなわたしの胸中を見透かしたみたいに付け足した。男として好きだったか、と聞いているらしい。
「好きになってもおかしくなかったとは思うけど、でも……」
結局、そんな気持ちにはなれなかったっけ。それより轟や千歳に嘘ついたりしたことの方が、よっぽど気にかかってた。
「戦友って感じかな」
唇の端から緊張を消して、千歳はちょっと笑顔になった。
「新しい時計あげますよ、ひろさん」
「えー。千歳って、はやりのブランドの女性モノとか買ってきそう」
サラリーマンから巻き上げたブライトリングは勿論、レディースの小さなフェイスが好きじゃないから沙悟浄もメンズだ。
「メンズがいいならメンズにしますよ。キーホルダーがアーミーナイフでも、やること為すこと女の子らしくなくってもいいです。それがひろさんなら」
おっ……色々口うるさく言うのは諦めてくれたらしい。言っても無駄だと分かってくれたんだろうか。
「大体、千歳にそんな余裕ないでしょ」
車の免許取りたくて、貯金してるくせに。
「タダなら受け取ってくれるんですね?」
にやりとされると何か企んでるみたいで、びびるんですが。
「そりゃ、タダなら……」
抱き寄せられた。
「千歳……」
いきなりのことに反応出来ずにいると、千歳はわたしの頭を引き寄せて右耳を胸に当てさせた。千歳の鼓動が聞こえる。ちょっと、早く打っているように思えた。
「……いつも同じ音で、同じ音量です」
知っているんだ、と思った。万智子さんから聞いたんだろうか。わたしがいつも同じ音、同じ音量の時計の音を、耳の不安を和らげるために使ってることを。
千歳がくれると言ってる時計は、時計じゃなくて千歳の鼓動なんだ。
何だかじんとしてしまって黙っていると、千歳の手はわたしの髪から離れて左手首を掴んだ。ブライトリングのベルトを外され取り上げられる。何だか脱がされているような気分になるんですが……。
「あの……ひょっとして、口説いてる?」
「それ以外に何かあるんだったら、教えて下さいよ」
目を上げると、すぐそばに呆れた溜息をつく千歳の唇が見えた。
「だって……彼女欲しいから紹介しろとか言ったくせに」
「紹介なんて頼んでないですよ。彼女が欲しいって、本人に頼んだんです」
(あー、そうだったんだ……)
妙に納得したりして。
「俺……あの日、一日で二回もひろさん失いそうになったんです」
ブライトリングを遠くに追いやった手で、ぎゅうっと抱き締められてしまった。
「俺がバカだったから。こんなんじゃダメで当然かもって思ったりもしたけど、でもやっぱり……いなくならないで欲しいんです。このままじゃ俺、忘れることも出来ない」
入院した当日も、千歳は俺のせいだって言っていた。失いかけたというのがあの日、千歳との約束を破ってリョウのところに行くと言ったこと、怪我したことを指しているんだと分かった。
「あれは千歳のせいじゃないよ」
千歳は黙って首を振った。
「ルパン三世の口癖、知ってますよね。裏切りは女の特権、裏切られるのは男の勲章、って」
突然雰囲気ぶち壊しではあるのだが、頷いておいた。
「ルパンはいつも裏切られるのを知ってて、その上で騙されてやってるじゃないですか。俺、あんな風になんなきゃって思った。もっと仲良くなっても、ひろさんはいざとなったらきっとまた嘘つくと思うんです。嘘も秘密もひろさんなりの気持ちだから、俺は嘘つかれるのを怒るんじゃなくて……見抜いて、信じたフリして、先回りして、待っててあげられるようにならなきゃ。そうしたら、ひろさんも安心して嘘つけるでしょ」
「…………」
いざとなったらまた嘘をつく、と言われても反論出来なかった。自分でもそんな気がする。そうか、不二子はルパン三世が自分の裏切りを予想しているという前提で嘘をつく。それはルパン三世を見込んでいるから。だからルパン三世にとって裏切られるのは逆に信頼の証で、勲章なんだ。
そして嘘をつく側は、それが嘘だと気付かせられるほどの信頼関係を先に築いておかなきゃいけないんだ……。
「ひろさんの耳のことも。俺、聞こえなくてもいいんです。それでも不安なら、俺が時計になるから……」
「聞こえなくてもいいんだ……」
我ながら呆けきった口調だった。
「そりゃそうですよ。轟だって同じです」
「そうなんだ……」
心に鎧を着ていたことを、それが剥がれ落ちてから知ったように思う。温もりを素直に受け取ってもいいんだ。ずっと受け取るのを怖がっていたのは、わたしの方だったんだと気付いた。
「……千歳」
言葉を途切れさせてしまっていた千歳は、ややあって緊張気味にはいと答えた。
「そのうち千歳に、誕生日プレゼントあげたくなるんじゃないかって気がしてる……」
抱き締められていた腕が緩んだ。困ったような顔が覗き込んでいる。
「……すっげえ微妙な希望をありがとうございます」
嫌味ですかそれは。精一杯、ほんとのことを言ってるんだけど。
「ま、いいです。最初から、すぐ付き合ってもらえるなんて思ってなかったし」
とか言いながらキスするのは何故だー。
「何か、どさくさに紛れてない?」
「紛れてなきゃいいんですか?」
そういう問題じゃ。
「いいじゃないですか、ひろさんだって勝手な都合で俺とキスしたくせに」
友紀の心残りを晴らそうとした時のことか。それは確かに文句言える立場じゃない……よね。
「それにしても、今回はさすがに分かってもらえたんですね。鈍感なひろさんがマヌケな勘違いしてくれるのも楽しかったけど、トンビにあぶらげさらわれるのはもう嫌だから」
わたしはあぶらげですか……。
千歳はふと眉をしかめた。
「ちょっと痕になりそうですね」
左の耳たぶの裂傷を見ているようだ。顔を近づけてきたから懲りずにまた何かこっそり言う気かと思ったら、傷の近くにキスされた。
「だから、どさくさに紛れないの!」
身体を離して頭をはたいてやったが、千歳はめげていないようだ。
「俺が俺の耳に何しようと自由じゃないですか」
……立ち直りが早いのか何なのか。千歳はすっかりいつもの調子で笑っている。あげるなんて言わなきゃよかった。
「怪我が良くなったら俺の耳をデートに連れてくつもりなんで、予定あけといて下さいね。で、ひろさんとこのエクセルって、ソルバーのアドイン有効になってます?」
千歳ってあの事件以来、ますます手に負えなくなってきた気がする……。そういえば轟も、結構ハキハキ意見するようになったかもしれない。二人とも男っぽくなってきた感じだ。
さっさと千歳に立ち上げられているわたしのラップトップの裏に、ブライトリングが転がっている。何もない左手首が心許なくて右手でさすっていると、千歳の視線はディスプレイからそこへ降りてきた。
黙ったままブライトリングを差し出される。
「……いい」
本当にいいんですか、と問いたげに千歳は首を傾げた。
「あんまり必要ない気がしてきた」
いつもこうだったらいいのにとしみじみ思うほどの優しい笑い方に、こっちもつられて笑った。
千歳に誕生日プレゼントをあげたくなる日は、そう遠くないかもしれない。
「あれっ?」
ディスプレイを見ていた千歳の目が、何かを見つけたようだ。
「CDプレーヤーが勝手に立ち上がりましたけど……」
『よう、じゃじゃ馬。今日、退院だってな。おまえみたいな暴れ馬が野に放たれちまったかと思うと、おにーさん怖いよ』
「…………」
疑う暇もなく、その犯人の声が流れ出した。入院当日以降は姿を見せなかったくせに、どうして退院だって知ってるんだろう。しかもいつの間にわたしのラップトップにCD仕込んでるんだ。盗聴器の回収ついでに置いていったんだろうか。鍵屋兼情報屋を、こんなところで発揮しなくても……。
『ま、実は手綱握ってるヤツが二人ばかしいるから大丈夫か。俺に言わせりゃまだまだ頼りねえけどなー』
それはやっぱり色男優男……違った、轟と千歳のことだろうか。見ると、千歳は面白くなさそうな顔でラップトップを見下ろしている。
『そんじゃ、俺から退院祝いだ。最高に笑える色男傑作名言集……』
「ああっ、千歳、何すんのよ!」
電光石火の速さでCDを叩き出すと、千歳はそれを脇に抱え込んでしまった。心なしか顔が赤いような。
「絶対返さねえ!」
おっ、珍しく丁寧語じゃない。焦ってついタメ口になったか。
「いいもん、リョウにまた送ってもらうから」
そんな絶望的な顔をしなくても。
「一生のお願いですから、やめて下さい」
「……わたしが怪我した時に、一生のお願い使わなかったっけ」
『ごめん。俺がバカでした。帰ってきて下さい、お願いです。一生のお願いですから』
確かにそう言ったと思うんですけど。
「一生に一度のお願いとは言ってません」
「そんなのアリーっ?」
一生のお願いっていうのは、一生に一度と相場が決まってるはずなんですが。
「じゃ、以前のを取り下げてこっちを一生のお願いにします」
だから、千歳がにっこりする時はこっちがにっこり出来ないんだってば。しかし以前のを取り下げるってことは、わたしに死ねってことですかー?
「そんな便利なもんなの?」
「はあ、昔っから」
嘘だ、今決めたくせに。
「呆れた……」
溜息をついているわたしを、千歳はCD-Rの穴に指を突っ込んでふらふらさせながら眺めていた。
「そのうち」
「え?」
千歳は照れくさそうに首を傾けている。
「そのうち、直接言う……」
照れくさそうにしてるってことは、もしかして……悪口じゃなくて。
「……かもしれません」
しれませんって。
「やっぱりリョウにコピー送ってもらおう」
携帯に手を伸ばしたら、うわあと慌てて飛んできた。
「いやもうほんっとに、一生のお願い……」
「うるさい!」
わたしたちはこれからだ。




