… Friday afternoon …
… Friday afternoon …
ぼんやり白い天井を見上げていたことに、名前を呼ばれて気付いた。誰かが覗き込んでいることにも。
「……さん、起きた?」
轟みたいだ。どうして心配そうな顔をしているんだろう。何かあったんだっけ、とのろのろ記憶を辿ってみる。竹原に刺されたこと、うるさかった救急車を思い出して、ここは病院かと思い当たった。
何か邪魔なものが顔を覆っている。外そうとして左手を上げようとすると、点滴の管が付いてきた。
「あ、僕がやります」
邪魔なのは酸素マスクだったみたいだ。外してもらっている間にだんだん頭がはっきりしてきて、ついでにお腹がすさまじく痛くなってきた。
「気分どうですか」
「ナースコールするやつ、どこ……」
病院なら枕元にあるはずのボタンを目で探す。轟はそれを手に取って、困った顔をした。
「痛いんですか?」
うん、と答えるや否や轟はそれを伝えてくれる。至れり尽くせりだ。すぐに看護婦さんが注射器を持ってやって来た。お尻に刺すというので轟に回れ右させようとして、足許の方に千歳もいることにやっと気付く。
「千歳も向こう向いてよ」
何やら沈痛な面持ちのまま、黙って背を向けられた。千歳がしゃべらないなんて、実に不気味だ。
鎮痛剤を打ってくれた看護婦さんが消えると、轟がにっこり笑いかけてきた。
「命に別状ないって。内臓の傷も大したことなくて、一週間くらいで退院出来るそうですよ」
「……そっか」
気が抜ける。
(でも、これで良かったんだろうな……)
『帰ってやれ、それはおまえの権利じゃねえ、義務だぞ』
リョウの言葉が耳に蘇る。そういえば、どこに行ったんだろう。贅沢にも個室らしき病室内に、リョウの姿は見当たらない。
薬が効いてきて楽になるとようやく、二人にまともにお礼もお詫びも言ってないことを思い出した。
「あの……二人とも、ごめんね。いっぱい嘘ついて、いっぱい心配させて。それから……ありがとう」
枕元で覗き込んでいた轟の唇が、ぎゅっと引き結ばれた。見る間にその瞳が潤んだのでびっくりする。轟はぱっと上体を起こすと、すいませんちょっととか言いながらあたふたと出て行ってしまった。
唖然として轟の消えたスライドドアがゆっくり閉まっていくのを見ていると、千歳がぽつっと呟いた。
「俺のせいです」
「……轟を泣かせるようなことしたの?」
暗い顔をしていた千歳は、途端に呆れたように首を傾げた。
「ひろさんの怪我のことですよ。轟は安心しちゃったんでしょう」
何だ、千歳が轟をいじめたのかと思っちゃった。
「えっと、わたしを刺したのは竹原だと思うんだけど」
「分かってますよそんなこと! 俺が止めなかったせいだって言ってんです!」
(……は?)
良く分からないが、千歳は責任を感じているらしい。
「俺、何も出来なかった。あいつの言う通りです。何も分かってあげられないで、バカみたいに妬いて、ひろさん見捨てただけでした」
「あいつって?」
「俺じゃねえのー」
病室の入口にいつの間にか、リョウがいた。足で蹴飛ばすな、病室のドアを。
「ほんっとバカだな、色男。怪我人を困らせてどーすんだ」
あいつの登場にムッとしていたらしい千歳は、からかうように笑われて言葉に詰まっている。それをまた面白そうに眺めているリョウってもしかして、千歳を怒らせて遊んでるんじゃないだろうか。
ひょっとして千歳がわたしに軽口ばかりたたいて満足そうにしてるのは、わたしが怒るのが楽しいからなのか? その千歳がやり込められているのは爽快……おっとっと。
「千歳をいじめないでよー。見習いになっちまえなんて言ってくれるの、千歳ぐらいしかいないんだから」
「ひろさん……」
さっきの轟みたいにぐっと堪えたような顔をしてから、千歳はへにゃっと笑った。
「全く世話の焼けるガキどもだよなー」
「禁煙ですが」
枕元の椅子にどっかと座って煙草の箱を取り出すリョウに、千歳が嫌味ったらしく注意する。
「だから?」
悪びれもせずに煙草をくわえて、睨まれても平然としている。リョウの方が千歳よりうわてらしい。
「で、残務処理してきてやったぞ。竹原を金庫から出しといた」
……そういえば閉じ込めっぱなしだった。リョウは助けに来てくれた時にわたしの口腔細胞を使ったんだから、同時に金庫の鍵も開いたはずだ。
「現経営者が元経営者の横領した資産を横領しようとしたんだからな、俺が金庫こじ開けたら竹原は口封じに始末しようと思ってただろうな。その俺に助けられたんだから、笑い話だ」
リョウはにやにやとおかしそうにしている。
「竹原のやつ、金庫の中がよっぽど怖かったらしいぜ。錯乱状態で、ありゃもう余生は精神病院だろ。恨みを持たれていた男の、鼻が曲がるくらいくせえ死体と一緒に閉じ込められたらなー……けど、それだけじゃねえな。じーさんに向かって『許してくれー』って泣き叫んでたぞ。心臓発作で死んだ方が楽だったんじゃねえのかー」
……ひょっとしておじいちゃんが積年の恨みを込めて怖い目にあわせたのかもしれない。
「で、竹原が来た時の話だけどな。客が貸金庫を開けると、自動的に竹原に連絡が入るようになってたらしいな。ヤツはそれがじーさんの金庫だと察したんだろう、すっ飛んできたわけだ」
リョウは経緯を説明しだした。
「俺はちょっと離れたところから監視してたんだが、建物に入ってくのが竹原だと分かって慌てて追った。ところがヤツはDNAに頼らないフリーパスでも持ってるらしい、地下室への扉は閉まった後だったんだ。急いでひろの口腔細胞を使って入口を開けようとしたんだが、DNAが検出されて鍵が開くその三十分の間にひろが刺されちまった」
そうか、だからあのタイミングで竹原が現れたんだ。
リョウは煙草の先で落ちそうになっている灰を眺めてからきょろきょろした。灰皿を探しているんだろう。渋々千歳が手渡したコーヒーの缶を、当然のように受け取って灰皿代わりにしている。横柄さは相変わらずだ。
「それで、おまえは見たのか? 金庫の中」
開ける前に発作が起きて竹原が来て、結局は見ていない。首を振ると、リョウは残念そうに肩をすくめた。
「あったぞ、じーさんの横領した資産が」
ええっ、と叫んだついでに傷が痛んで参った。
「持ち主に返しておいた」
「……へっ?」
リョウは何食わぬ顔をして、唇の端で煙草をぶらぶらさせている。
「だってそれが俺の仕事だもーん」
「…………」
何だか嫌な予感がする……。
「まさか……まさか、リョウの依頼人って竹原じゃなくて、本当は……」
隠匿資産をおじいちゃんに横領されたはずの、旧財閥資本家なんじゃ。
睨み付けてるのを返すように、リョウの手はしっしっとわたしの視線を追い払った。
「怒るなよ。俺もあの横領事件の被害者が依頼人だなんて知らなかったんだからな。俺は素性不明の誰かから、『鍵屋として竹原の周りをウロついて、経過を報告しろ』と言われただけだ。そしたら、これまた素性不明の誰かが『ある貸金庫を開けて欲しい』と言ってきた。その二番目の依頼人が竹原だったわけだ。最初の依頼人の目的は、最近動きの怪しい竹原を、俺を通して監視することだったわけだな」
つまり竹原は、旧財閥資本家が放ったスパイをまんまと雇ってしまったことになる。リョウは、自分の身が危ないからとか何とか理由をつけていたけれど、わたしに協力させて依頼人が竹原だと明らかにしたのは、最初の依頼人の命令でもあったんだ。
「じゃあその資本家は、おじいちゃんの金庫の中に隠匿資産が移されているのを知っていて、それを横取りされないように見張ってたってことなの?」
「どうだろうな」
細かいことは全く知らされていないらしく、曖昧な返事が帰って来た。
「おまえ、横領の被害者が犯人だって言った時あったろ。いい線いってると思ってた。どう考えてもおかしいだろ、横領されたからって怪しい貸金庫屋に預けてた資産があることをノコノコ警察に届け出るヤツがいるか? 被害は多少の貴金属ってことになってたが、勿論そんなもんじゃなかったはずだ。それを取り戻したいなら警察じゃなくて、それこそ金にモノ言わせてじーさんを追えばいいだろうが」
(……確かに)
リョウは、裏に横領の被害者たる旧財閥資本家がいることに感づきながらそれをわたしに悟られまいとして、被害者犯人説を却下してみせたんだろう。
「二十年前の真相はこうじゃねえか? 竹原とじーさんはビジネス上の意見の相違で決裂する。欲に目がくらんだ竹原は、会社を清算しようとしたじーさんを消そうと考える。じーさんもそれに気付いて腹を括った。じーさんは顧客の資産横領で信用をぶっ潰してやろうと企み、息子夫婦の見納めに忍び込んだところで、ひろのおしゃぶりを利用することを思いつく。そしてひろの口腔細胞を持ち、顧客の一人である旧財閥資本家の家に潜り込む」
「うん」
「じーさんは鍵と金庫のプロだ、侵入には成功したが泥棒としちゃ素人だった。歯ブラシみてえな、口腔細胞が付着してそうなものを物色してるうちに気付かれてしまった。とっ捕まったじーさんは、資産家にこう話しだす。あんたがうちの貸金庫に資産を隠匿してるのは、戦時中からとっくに周知の事実だ。警察にも泥棒にも厳しくマークされている。いつ鍵を破られて盗まれるか分からない。うちの貸金庫から移すのも危険だ」
世界最高級の金庫の設計者が、鍵を破られたらなんて話をするとは思えないけれど。
そう言ったら、リョウは肩をすくめた。
「今、ピッキングに一番強いって評判の家庭用の鍵は何だか知ってるか」
「イスラエルのマルチロック社のやつ」
純粋に驚いたように、リョウの目が見開かれる。
「おっ、よく知ってるな。さてはアツに下着ドロに入られた後、どんな鍵に替えようかと思って調べたな?」
ご名答です。
「そうだ、イスラエルはご存知テロ対策で鍵の進んだ国だ。ピッキングされにくいという触れ込みのマルチロックだが、どっこい既にピッキング法は民間で講習が行われるレベルに普及してる。つまりどんなに新しくて頑丈な鍵だろうと、解錠する方法がある限り抜け道もある。それが広まっていく以上、安全なんつーもんはどこにもないんだ。開ける方法がどこまで広まるか、それが鍵の寿命であり限界だ」
「おじいちゃんは、バイオメトリクス認証が世間に認知されていくにつれて、いずれ虹彩が無関係だと見破る人が現れるって予想してたってことなのね」
それがリョウだったというわけだ。リョウは煙を吐きながら頷く。
「自分の金庫も実は安全でないとじーさんに聞かされて、資本家は不安になる。そこで、じーさんはこう持ちかけるわけだ。自分はプライベートバンク化に反対したせいで、竹原に命を狙われている。腹いせに信用を潰したいから、被害者として金庫の中身を横領されたと警察に届け出てくれないか」
被害者がわざわざ隠匿資産があったことを匂わせてまで警察に届け出た理由は、共犯だとすれば説明がつくのか。
「代わりに、あんたの資産を自分のDNAで預かる。あんたが竹原の刺客から守ってくれる限り、自分すなわち鍵は安全だ。あんたは隠匿資産を持ち逃げされたことになるから盗もうと思う輩もいなくなるし、警察もマークを諦める。自分は必要があればいつでも開錠に応じる、何しろあんたが守ってくれるんだ」
わたしはその先を継いだ。
「資本家はその計画に乗って、一緒に貸金庫まで出向く。そして、おじいちゃんの用意した貸金庫に隠匿資産を移した。でもその移した先の金庫の鍵になっていたのは、おじいちゃんが密かに用意したわたしのDNAだった。虹彩は無関係だから口腔細胞さえあれば鍵に出来ると知らない資本家は、鍵はおじいちゃんのものと信じて警察に被害を届け出ることを約束し、現場を後にする」
いいねえ、と言いたげにリョウは指を鳴らした。
「じーさんは資本家が警察に届け出たのを確認してから、資本家がつけた護衛をどうにか振り切って貸金庫へやって来る。そして自分で金庫に閉じこもった。資本家には、じーさんが失踪したように見えるわけだな。とにかく騙されたことに気付くが、持ち切れなかった資産がじーさんの貸金庫に残っているかもしれない、二十年経って取得時効が切れたらじーさんが取りに来るかもしれないと睨んで、ずっと竹原やこの貸金庫を密かに監視していた」
「そうしたら今になって、竹原がおじいちゃんの行方を探すようにバイオレンスに依頼した。資本家は残っているかもしれない自分の財産が狙われてることに気付く。鍵屋のリョウを竹原の周りにうろつかせて、もし鍵が開いたら竹原より先に取り返そうと考えた……」
リョウは満足そうに頷いて、身を乗り出してきた。
「ひろ、ほんとに俺の相棒になる気はねえのか?」
ちらりと見ると、千歳が渋い顔をしている。ものすごく反対してるみたいだ。
とはいえ、わたしの再度の返事を待つまでもなく、リョウには答えが分かっているらしい。楽しそうな舌打ちをして、背を椅子に戻した。
「そんなわけで、おまえと色男優男が乗った救急車が病院に向かった直後、最初の依頼人から連絡が入る。『金庫の扉は開けたまま、竹原を連れて出ろ。おまえが受け取る報酬は、おまえの命と金庫の中の死体だ』」
それが俺の仕事だもん、なんて軽く言ってたくせに、リョウも結局は利用されていたのだ。生々しい脅迫文句にぞっとしたが、リョウは何でもなさそうな顔をしている。
「ま、仕方ねえよ。資本家の手先らしい男たちがお宝の山をごっそりトラックに積んで消えちまった後、アツが白状した。アツも色々と脅されて、盗聴の内容や状況を資本家に流してたんだな。けどまあ、なかなか見上げたもんだぜ。鍵がおまえだってことや、虹彩は無関係ってことはバラさなかったらしい。俺がどうにか鍵をこじ開けたことになってる。礼に下着でもやっといてくれ。あいつは洗濯済みでもオッケーらしいぞ」
鍵がわたしだとバラされていたら、即座に誘拐されてしまったかもしれない。間接的に守ってくれたのだと思うと、下着の一組や二組喜んであげよう……と思ったけど、これまた千歳が嫌そうな顔をしている。
「けどな、保身もあったと思うぞ。あの鍵をこじ開けた腕があるなら、俺とアツを生かしておいていつかまた利用出来ると資本家に思わせたんだろうな」
じゃあ下着はなしってことで。
「竹原の会社は潰れる?」
珍しく優しい目つきで、リョウは頷いた。
「竹原は老後をじーさんの亡霊に怯えて暮らすだろうな。仕事どころじゃねえし、ビジネスを継続するカネもない。近いうちに貸金庫の顧客たちは資産を竹原のとこから引き揚げるだろ。おまえもじーさんの死体を取りに行けよ、絹とかいうばーさんはそうして欲しくて墓参りとか言い出したんだろうよ」
「絹さん……」
そういえばそうだった。何だか今回も、いいように使われたような気がする……。
「またタダ働きさせられた……」
タダ働きどころか、命まで懸けそうになっちゃったんですけど。
悔しがっていると、リョウは思い出したようにカーキ色のカーゴパンツのポケットを探った。
「俺が給料やるよ。これで入院費くらい出るだろ」
無造作にベッドの上へ投げて落とされたのは、円筒形に薄紙で包まれた硬貨だ。直径三センチほどで、端から見えるその表面は金色に輝いている。メイプルリーフのデザインの周囲に、『CANADA FINE GOLD 1OZ OR PUR』と銘打ってあった。
「今、金の相場っていくらだ? 一オンス五万くらいか? 買取価格はもうちょい下がるぞ」
これが五十枚のパックだとすると、二百五十万近くあるんじゃ……。入院費どころの騒ぎではない。
「金地金も積んであったんだけど、あれって製造番号打ってあんだろ。控えてあったら売れねえと思ってさー。金貨なら、一介の女子大生が売りに行ったって怪しまれねえしな。だからって一本持ってくなよ、バラせよ」
……積んであったって、まさか。
「おじいちゃんの金庫の中にあった旧財閥資本家の隠匿資産、盗んできたの……?」
アッシュグレイの眉をしかめる。
「俺は泥棒じゃねーぞ。竹原を出してやった時に、報酬を自分で回収しただけだろ。俺はダイヤでもらっといた」
ほんっと油断ならないヤツ。
「ありがと。でも、要らないよ。わたし別に、リョウの役に立ったわけでもな……」
「おっ、そうそうこいつを忘れるところだった」
リョウは無視して別のポケットを探りだす。聞く気がないらしい。金貨の横に放り出されたのは、わたしの鍵とビクトリノックス・スパルタンライトだった。両方とも乾いた血がこびりついている。
「洗ってきます」
わたしより千歳の方が見ていられなかったらしい。鍵束を掴んでドアへ向かう。
「気が利くねー色男」
からかいの言葉が聞こえていないような素振りで、千歳は出て行ってしまった。
「嫌われてんなー、俺」
おかしそうに含み笑いをした後、リョウはふと真面目な目つきに戻った。
「じーさんは自分のDNAを鍵にした金庫に閉じこもっても良かったんだ。それこそ、二度と誰にも解錠出来なくなるからな。なのにわざわざひろのDNAにしたのは……もし事が明らかになる日が来たら、息子夫婦や孫に迷惑料として遺産を残してやりたかったのかもしれねえ。例えそれが横領したモンだとしてもな」
リョウは放置されてる金貨を眺めて、独り言みたいに呟く。
「念入りに供養してやれよ。良く知らねえがああいうのが成仏すんの、相当時間がかかるんだろ。それにあいつら、クソ心配してたぞ。それでメシでもおごってやれ」
有難くそうすることにした。
千歳は轟と一緒に戻って来た。轟は照れくさそうにしながら、ぺこりと頭を下げる。瞼が少し腫れているようだ。わたしのために泣いてくれたんだと思ったら、いきなりこっちも涙が出て来た。
「あーもー、何で今頃泣き出すかなーおまえは」
相変わらず慰める気のないらしいリョウの台詞が憎らしくて、ますます涙が溢れてくる。
「えっ? ひろさん、痛いんですかっ」
慌て出した轟に首を振って否定してみせた。
「こいつに何かされたんじゃ」
険悪な声を出す千歳にも違う、と言う。
「ごめんね。バカなことしたなって思って。変に遠慮して嘘ばっかりつかないで、もっと二人のこと頼りにしとけば良かった。二人ならきっと分かってくれたのに」
危ない目に遭わせたくないからとはいえ、沢山傷つけて、沢山心配させてしまった。どうすれば心配させずに済むのか相変わらず分からないし、頼るっていうのがどこまで許されるのかも良く分からない。
でも、わたしたちはもっと近づける気がする。
「……そうですよ。多分、俺たちお互いにまだまだ知らないこと多すぎるんです。なのに朝から晩まで一緒で生活の一部になってるから、知った気になってたのかも」
千歳の言う通りだ。同じ大学の同じ学部で授業はほとんど一緒で、さらには同じアパートで毎日のようにごはんも共にしていた。だからものすごく知っているつもりでいたけど、今回、最後になるまで気持ちがうまく通じていなかった気がする。
ただ一緒にいるだけじゃなく、もっと話して、理解して、知っていこうと思った。無駄に心配させたり、無駄に傷つけてしまわずに済むように。
「そうかもしれませんね。誰が誰を好きなのかなんてことさえ、ちっとも伝わりませんしねー」
悪気のなさそうな笑顔で言った轟は、直後に足先を抱えて呻いた。位置からすると千歳に踏まれたらしい。
「よし、もう丁寧語はなしね。さん付けも廃止」
ええっと驚いた後に、轟も千歳も困ったような顔をしている。
「ひろさんの、ひろさん以外の呼び方なんて慣れませんよ」
「ひろって呼んだ途端に、生意気だってヤキ入れられそうじゃないか?」
何か投げてやるもの、と見回すと目に入ったのは一枚五万円の金貨の束。
「……おまえ、カネ投げるなよ」
視線に気付いたらしく、リョウに先手を指された。
「仕方ねえな、代わりにこれやるよ。色男名言集だ。出来たてホヤホヤだぞ」
リョウはさらにポケットを探る。まだ何か出てくるのか。ドラえもんみたいだ。
ケースにも入っていない生のCD-Rを一枚、手渡された。色男と呼ばれてるのが自分だと気付いているのか、千歳が戸惑ったような顔をしている。
「耳に怪我させちまった時、ま、連絡代わりってことで耳栓やったろ? マイク内蔵のやつ」
そういえばそうだった、まだ入ったままだった。さすがにもう要らないだろうと思って、左耳から外してリョウに返す。
「ひろは左耳は得意じゃねえだろ、例えば左に何か囁かれたって聞こえねえな。でも、当然ながらマイクはそれを拾う。そうとは知らねえまま、ひろの左耳に何度もしゃべったヤツがいるんだなー」
「えっ?」
と言ったのはわたしではなくて……千歳だ。その驚いた、動揺した顔を眺めてリョウはにやにやしている。
「面白いぞー、特にな、ひろが手術後でまだ麻酔が効いて眠ってる間がすげえ……」
目にも止まらぬ速さとはこういうことか。ものすごい勢いで、もらったばかりのCD-Rを千歳に取り上げられてしまった。抗議する間もなく、中央からめきっと半分に折られてしまう。
「あーっ、何すんの! どうせ悪口ばっかり言ってたんでしょ!」
「落ち着け、ひろ。コピーはまだまだあるぞ」
楽しそうに笑いながら、リョウは別のCD-Rをまたポケットから取り出した。が、それもわたしの手に渡る前に千歳が奪ってへし折っている。
「千歳ってば!」
「ひろさん、あれって多分悪口じゃなくて……」
「轟、黙ってろ!」
「病室で騒ぐなよなー、色男。何なら院内放送してやってもいいんだぞ」
「ふざけんなーっ!」
わたしたちは相変わらずだ。轟がごはんを作ってくれて、千歳は冗談ばっかりで、わたしは心配かけさせている。二人はなかなか丁寧語で話すクセが抜けないらしい。
でも、以前よりもっと話すようになった。何を感じてるのか、どう思っているのか、考えているのはどんなことか。好き嫌いもイエスノーも。毎日意外な発見があって、その度にますます彼らが好きになる。
近々、わたしの仏壇にはおじいちゃんの位牌が増えることになりそうだ。結局おじいちゃんの横領の事実は変わらなかったけれど、遺体を引き取って供養出来ることになった。絹さんは黙って一度だけ頭を下げていった。
絹さんには大変な目に遭わされたけど、それでも感謝している。このアパートに引っ越すことになったのは、絹さんが前のアパートの地縛霊と喧嘩したから。轟と千歳と仲良くなるきっかけをくれたのは、他ならぬ絹さんなのだ。
だから、わたしは今日も仏壇に大福を供える。もちろん、こしあんの。