… Monday …
最後まで、何にも言われなかったけれど。
… Monday …
『ホテル轟、自慢の朝食メニューはシナモンたっぷりのフレンチトーストにオレンジジュースでございます』
梅雨は大っ嫌いだ。朝から晩まで飽きるほどの雨音、そして耳鳴りが何週間も続くなんて拷問だ。しかも何を自白したって終わることのない虐待だ。突発性難聴で二年前から聞こえなくなった左耳は、雨の日のわたしを部屋に縛り付ける。
昨夜から、いやもう何日も前から降り続いている雨は、今朝もねちねちと耳を攻撃してきた。荒野に吹きすさぶ強風みたいな耳鳴りの向こうに聞こえた電子音を手繰り寄せると、携帯からはいやにかしこまった声が流れ出した。
「ごめん、パス」
轟と出逢ったのは春、ほんの三ヶ月半くらい前のことである。
抜きん出た高い背に北欧の血でも混ざってそうな端正な顔立ちは、モデルも出来るんじゃないかと思うほどだ。ところが本人には全くそんな自覚がなくて、女の子にはひどくオクテらしい。優しくて穏やかで腰が低くて、ご主人様の横でにこにこ尻尾振ってるレトリバー並みの従順さだ。轟を彼氏にした女の子は間違いなく幸せになれるだろう。
休日には愛車である古いアコードをせこせこ洗って、そのローンを返すためにファミレスの厨房バイトに精を出す。わたしと違って、料理が苦ではないらしい。毎日のようにご飯を作ってくれる、一人暮らしの大学生にとっては重宝な存在だ。
とはいえ、この電話をかけてきたのは轟ではない。
『とか言って、今日も授業をサボる気ですね? 出席日数ヤバいって分かってますか、先月は見習いで休んでばっかりだったのに、今月は雨だからって……もしもしひろさん、聞いてますかっ』
「代返しといて、千歳……」
千歳は轟のクラスメイトにして親友だ。二人が住んでいるこのアパートに引っ越して来た当初は、どうして彼らが仲良しなのか今ひとつ納得出来なかった。轟の朴訥さとは正反対の、生意気なヤツなのである。
彫りの深さと色気ある唇、すらっと細身のバーテンダーとくれば女の子に困らないのも当然な気がする。千歳の住む一〇三号室には、わたしと轟とで通い妻と呼んでいる彼女候補が入れ替わり立ち代わり押しかけてくる。中にはめでたく彼女に昇格した子もいたらしいのだけれど、ほとんどの場合は女友達で終わらせてしまう、優しさを履き違えてるような男だ。
それほど口がうまくて人当たりがいいくせに、わたしに対しては怒らせるのが趣味なのかと疑いたくなるくらいに口が悪い。轟にご飯を作ってもらったり、スカートをはかなかったりするわたしが女の子だと思われていないのは承知だ。それにしたって扱いがひどい。その度にモノを投げたり、はたいたりしてやる毎日だ。
『女文字でひろさんの出席カードを偽造すんの、飽きました。そんなんでどうして実家のコンサル継ごうなんて気になったんですか。どこぞの飼い主そっくりの、気まぐれで嘘つきな猫だってびっくりですよ』
噂されたのを知ってか知らずか、我が飼い猫・シロはわたしの足首に額をすりつけながら、朝ごはんを要求してにゃあと鳴いた。
いつもの丁寧ながらクソ生意気な口調で、携帯の向こうの千歳はわあわあと騒ぎ立てている。丁寧語で悪口を言う選手権でもあったら、千歳はナチュラルに優勝出来るかもしれない。
「……なんでうちがコンサルって知ってんの」
一瞬の絶句が、しまったと雄弁に語っていた。
「万智子さんに頼まれたんでしょ! わたしがちゃんと大学行くように見張ってくれとか何とか!」
『はちみつかけたヨーグルトもつけますけどー』
例のわざとらしいほどの愛想笑いが目に見えるようだ。飴と鞭を交互に出して落そうったって、そうはいくもんか。
「……すぐ行きます」
『墓参り? おじいちゃんの?』
電話の向こうで明らかに困惑している声は、雨の音に邪魔されて聞き取りにくいったらなかったっけ。
昨晩、実家に電話した。たまにかけてきたと思ったら何を言い出すのかと万智子さん、すなわち母が嘆きださないうちにたたみかけた。
「絹さんが、息子の墓参りしろって急にガミガミ言い出してさー。両親は駆け落ちしておじいちゃんとは断絶状態だったから、わたしはお墓がどこにあるのかも知らないって説明しても聞いちゃくれないの」
墓を掃除しろとか供養しろとか、先祖の霊がそれとなく伝えてくるというのはよくある話だ。家人の体調が次々に悪くなったり、心霊写真が撮れちゃうこともあるし、その伝え方は様々なのだけれども。
守護霊たる曾祖母、絹さんが直接のこのこと姿を現して文句を垂れていくなんてのは異例なんじゃないだろうか。それが夢枕や丑三つ時に枕元で恨めしそうに、というならまだソレっぽいのだが、この人はまるっきりそういう緊張感に欠けている。
真昼間の食事中、授業中、ドライブ中、TV鑑賞中、果ては合コン中にまで出てきてくれた。隣でクドクドと先祖への尊敬と感謝の念なんぞと愚痴られては、酒はまずい話は弾まないで、せっかくの席も台無しである。
いつもながら成果のない合コンから直帰するや否や実家にかけた電話で、おじいちゃんの墓を教えてと頼んだのだ。
『それがねえ……』
たっぷり数分も言い淀んだ末、万智子さんはぼそぼそ話しだした。
『亡くなったってことになってるけど、おじいちゃん、ずいぶん昔に蒸発しちゃったのよ』
初耳だった。
ちょうど二十年前、実子である父はおじいちゃんが出勤してこない、という共同経営者の連絡で知ったそうだ。自宅は荒らされた形跡がなかったこと、前日に預金を全て引き出していたこと、仕事のことで悩んでいたと共同経営者が話したことなどから、失踪したのだろうという結論になったらしい。
『お父さんは、住所だけは知らせてたみたいなんだけど。結婚で揉めて家を出てから、結局一度も会わずじまいで……たった一人の家族だったのに、ってずっと後悔してたみたい』
万智子さんも後悔しているのだろう、口調はしんみりと痛々しげだった。
『一緒に金庫屋さんをやってたのがとってもいい方で、わたしたちを心配して、何度も足を運んで下さったわ。おじいちゃんが来てないか、連絡なかったかって。でも結局、おじいちゃんからは手紙一枚来なかったのよ。おじいちゃんはその方に借金があったんだけどね、返済はご無事が分かってからで結構ですって待って下さってるの』
そんな事情ならまず、絹さんにおじいちゃんの生死くらいはきちんと確認しなくちゃ。でも墓参りと言うからには、失踪先でもう亡くなっているのかも……と不吉なことを考えていたら、万智子さんは急に声のトーンを上げた。
『それにしても急に電話を寄越すから、何かあったのかと思っちゃったじゃないの。痴漢や空巣に遭ったとか……そうそう、うちも泥棒に入られたことあるのよ。おじいちゃんのいなくなった夜だったんだけど、おじいちゃんの行方が分からないとかでバタバタして、お父さんに話すのもすっかり忘れてそれっきりだったわ』
それも初耳だ。本当にすっかり忘れてたんだろうな。
「悪いことって重なるもんだね。何か盗まれたの?」
『紘のおしゃぶり』
今度は空耳かと思った。
「……は?」
『あなた、まだ生まれたばっかりだったのよ。夜泣きするから、紘とわたしはお父さんとは別の部屋で寝てたの。あの日も急に大泣きを始めてね。寝かしつける時にくわえさせてたおしゃぶりを探したのに、失くなってたのよ! おかげで全然泣き止まなくて大変だったわ』
万智子さんの憤懣やるかたないといった口調は、わたしの気力をしおしおと挫いていった。そんなものを盗む泥棒がいるなどと本気で思ってるらしい天然っぷりが、万智子さんが『お母さん』でなく『万智子さん』である所以だ。
「それ泥棒に盗まれたんじゃなくって、単に失くしただけでしょ……」
『あら、他にもあるのよ! 救急箱も荒らされてたんだから』
お父さんが夜中に水虫の薬でも探して、そのままにしたんじゃないだろうか。万智子さんが泥棒だと警察に届け出たりしなくて良かった。
「とにかくお墓の話は分かった。じゃあねー」
『待って紘、大学には行けてるの? あなた雨が続くと体調崩すから……』
サボりまくってます、なんて仕送りしてもらってる身で言えない。大丈夫なんて適当にごまかして切ったけど、万智子さんはその直後に轟や千歳に紘をよろしくなんて電話したに違いない……。
起きている間は常に巻きっぱなしの腕時計を見ると、八時過ぎだった。今から朝食なら、一限の授業には余裕で間に合ってしまう。こんな耳じゃ教授の話なんてロクに聞こえやしないのに、と憂鬱な気分で教科書を掻き集めた。
沙悟浄を左耳に押し付けてみる。沙悟浄というのはこの時計、オリス・ポインターデイトの針が沙悟浄の持っている武器に似ているからと付けられた安易なあだ名なのだが、あまりに千歳が連発するので伝染してしまった。右耳なら聞こえるはずの、ちきちきと軽快な秒針の音は全く聞こえてこない。二倍増しになった憂鬱を振り切るように立ち上がった。
三人でご飯を食べる時は、わたしか千歳の部屋と相場が決まっている。最近は通い妻をシャットアウトしているらしいのだが、わたしは女の子に含まれていないみたいで、千歳の一〇三号室に入るのを許されている。そこでのトーストとヨーグルトに釣られたわたしは、そのままずるずると大学へ引きずられていった。
「千歳、ここ耳門っていう耳鳴りのツボだから押してあげて」
轟は医者の息子で色々知ってはいるけれど、耳鳴りのツボまで覚えているとは思えない。調べてくれたんだろう。こういう時は本当に逆らえない。
大人しく甘えることにして、大学へ向かうアコードの助手席を倒し気味にする。後部座席の千歳に御礼を言い終わらないうちに、ぎゅうと耳門とやらを押される。
「い、痛い」
「当たり前ですよ。力抜いて下さい」
噛んで含めるみたいな優しい口調のくせに、千歳の指先は容赦を知らない。
「痛いってば、もっとそっとして……あ、気持ちいい……」
「ひろさん……俺、違う場面でその台詞聞きたかったです……」
何のことだか分からない千歳の言葉に、轟が何やら慌てたように咳払いした。
「あ、えーと、そうだひろさん、関数電卓持って来ましたか?」
家計を直撃した憎き計算機の話題で、ツボ押しのリラックス気分も吹っ飛ぶ。
「経済統計学。次の講義で使うから絶対持って来いって……すみません、ひろさんが先週休んだの忘れてました」
鞄を確認するまでもなく、そんなもの持って来ていなかった。ないと答えると、大学を目前にしてアコードはUターンし始める。
「いいよ、バスで取りに帰るから。二人は先に講義受けてて」
「戻ろーぜ、轟。一人で帰ったら、ひろさん二度と大学来ないもん」
頭上から降ってくる千歳の言葉に、轟はうんうんと頷いている。何よ、と呟いてはみせたけれど否定出来ないのが情けなかった。
二人には車で待っててもらって、霧雨の中をアパートの入口へ駆け込む。まとわりつくような雨粒を肩から払いながら階段を上ると、ジーンズの尻ポケットが住処である鍵束を引っ張り出した。このビクトリノックス・スパルタンライトは、アーミーナイフをキーホルダーにするなんて女の子らしくない、と千歳には不評である。ほっといてもらいたい。
そこから部屋の鍵を選り分けて鍵穴に差す。が、いつもの手応えがなかった。
(あれ?)
鍵をかけ忘れたのかと思った瞬間、ドアの向こうでどたばたと足音がした。心臓を冷たい手で掴まれたように身体がすくんだその時、乱暴に開いたドアに突き飛ばされた。
「わっ!」
尻餅をついて上下動する視界の中で、紺色づくめの痩せた男が階段へと走り去っていくのが見えた。帽子の下から、見覚えのない茶色の長髪が伸びていた。
(こ、この……)
泥棒が入ったらしいという事実より、ドアで殴られたのがよっぽどムカついた。急いで起き上がって後を追う。アパートの入口まで駆け戻ると、慌てふためいて逃げていく紺色男の後姿を、轟と千歳がぽかんと眺めていた。
「あいつ泥棒! うちから出て来たの!」
途端に血相を変えた二人が駆け出す頃には、紺色男は路駐してあった白いワンボックスに乗り込んでいた。追いつくどころかナンバーを控える間もなく、急発進して走り去ってしまう。今からアコードに引き返して追いかけても、その時には影も形もなくなっているだろう。
「車があるなら、盗みに入らないでそれ売りなさいよー!」
ワンボックスが消えた道へと悔し紛れに怒鳴ると、息を切らせながら戻って来た二人は揃って呆れ顔をした。
「金目当ての泥棒が、わざわざ貧乏な一人暮らしの女子大生の部屋に押し入るわけないじゃないですか」
「じゃあ、何が目的だって言うのよ」
部屋に戻ってみて、千歳が言わんとしていたことが分かった。クローゼットからは、これでもかと下着が引っ張り出されて床に散乱している。
「下着ドロだったのかー!」
「すいませんっ、僕見てませんからっ」
轟はわたわたと下着から赤い顔を背けてキッチン方面に引っ込んだというのに、千歳は顔色も変えずに惨状を見下ろしている。腰を蹴飛ばして轟の隣に追いやった。
「下着が欲しいなら、盗まないで自分で買えばいいのに!」
拾い集めながらぶつくさ言う。
「ひろさん、下着ってのはそれだけじゃ意味ないですよ」
「……千歳は中身の方が興味ありそうね」
中身もですけど、と老婆に道案内でもしているような善意に溢れる笑顔は言った。
「下着は誰が身に着けてたかが重要なんです。なあ、轟」
気の毒に、同意を求められた轟は無言のまま必死にぶるぶると首を横へ振っている。
「……変態」
「あいつの方がよっぽど変態ですよ。歯ブラシやコップまで盗むつもりだったみたいですよ」
一転して渋い顔になった千歳がキッチンの床から拾って掲げたのは、わたしの歯磨きセットだ。透明なビニール袋に入れられて、ご丁寧に輪ゴムで封までしてある。
(き、気持ち悪っ……そのまま今日の燃えるゴミに出しちゃおう)
「ひろさん、警察に電話した方がいいんじゃないですか? 絶対、痴漢ですよ」
轟の提案ももっともだけれど、ざっと見たところ何も盗まれていないようだった。面倒だから通報はしないでおくことにする。下着は派手に散らかして選り好みでもしている間にわたしが戻って来てしまったのだろう、不確かながら減っているような感じはなかった。
「ほんとに鍵、閉めたんですか? 鍵穴にも周りにも全然傷ついてませんよ。相当ピッキングうまくないと、傷が残るって聞いたことあるんだけど……」
ドアを観察していた千歳が、首を傾げながら報告してきた。鍵は確かに閉めたと思う……のだけれど、こういう日常的な動作は記憶に残らないからどうにも言い切れない。
「そういえば、シロは?」
忘れ去られていたシロは、そう言い出した轟によってベッドの下から引きずり出された。腕の中で震えながら縮こまっているのを、轟がよしよしとなだめている。可哀想に……夕飯には秘蔵の高級餌を奮発してあげよう。
失くなったものがないか確認したり、防犯及び痴漢対策を説かれたりしていて、結果的に三人とも一限目をすっぽかす羽目になった。
「あのさ……万智子さんには黙っててくれる?」
どうにも不安で離れがたいのか、ぐずぐずと大学へ行こうとしない二人にアイスティーを出す。それに口を付けながら、二人は非難するような目を向けてきた。
「だって心配するでしょ、あの人。実は昨日電話したら、空巣にでも入られたかと思ったって言われたばかりなの」
「……単位落とさないように講義も出るし勉強もする、って約束してくれたら黙っといてあげます。ついでに、誕生日プレゼントもリクエストしていいですか」
(くっそー、弱味を握られた……)
それにしても、千歳の誕生日が近いなんて知らなかった。一体、何を巻き上げる気なんだろう。
「そんな警戒した顔しないで下さいよ。大丈夫です、金かかりませんから」
にっこりするその笑顔が、一番クセモノなんだってば。
「実は俺、彼女が欲しいんですけど」
(……は?)
それをわたしに頼んでどうする。
(あ、紹介か仲介をしろってことか)
それより千歳が直接アタックする方がよっぽど確実で早いと思う。
「千歳好みの女の子らしくて可愛い子って、あんまり友達にいないんだけど」
「…………」
当てが外れてがっかりしたらしい。千歳はローテーブルに突っ伏してしまった。
「えーと……ひろさん、おうちに電話したんですね! 良かった」
漂ったおかしな沈黙をどうにかしようとしたのだろう。無理矢理に話題を絞り出すような不自然さで、轟が言い出した。
「そうなの、絹さんにおじいちゃんの墓参りしろとか言われて……あ、そうだ、聞かなきゃいけないことあるんだった」
おじいちゃんの生死を絹さんに確認したかったことを思い出して、仏壇を振り返る。
いきなり胸が苦しくなった。
どきどきする心臓が、肺から空気を叩き出していくみたいだった。ついでに額から冷や汗を押し出して、体温を奪おうとしている。息は吸っても吸っても、喉で押し返されてきた。
「うわー、下着ドロの次は絹さんかよ」
厄日だ、と言いながらわたしと絹さんとのいつもの喧嘩を嫌って、轟と千歳は部屋の隅へと避難しようとしていた。その姿にどんどん暗いフィルターが重なっていく。
「そろそろまた、見習いって言い出しそうな気が……ひろさん?」
部屋は急速に暗くなって、壁が自分に向かってのしかかってくるように思えた。
「ひろさん、どうしたんですか」
焦ったような声と慌てた足音がする。何だか苦しい、と訴えようにも息が出来なければ声も出ない。圧迫してくる壁が全部肩に乗ってきた気がして、重くて重くてたまらない。無駄な努力に終わるばかりの呼吸を繰り返していると、見かねたのか誰かが抱き起こしてくれたみたいだった。コロンの香りがしないから、轟だろう。
「どこか痛いんですか」
耳元で問われて、違うと首を振る。
「息が苦しいんですか」
轟らしき胸にもたれて必死に息をつきながら、どうにか頷いた。このまま今の状態が続いたら、死んでしまうんじゃないだろうか。何が起きたんだろう、どうしよう、という思いばかりがぐるぐる脳裏を巡る。
「過呼吸かな、袋持ってくる」
千歳の声と遠ざかる足音の後に、ばたばたとキッチンを漁っている気配がする。自分が目を閉じているのか視界が真っ暗なのかもはや分からなくて、耳鳴りとその向こうの音がやけに研ぎ澄まされて聞こえた。
「ひろさん、心臓が痛いんじゃないですよね。喘息持ちでもないですよね」
言いながら手を取ってくれた轟の指が、すごく温かく感じる。寒くてたまらなかった。
「千歳、待って。過呼吸じゃないような気がする」
何で、という台詞と共に苛ついた足音が戻って来た。
「過呼吸だと手先が硬直するもんだと思うんだけど……それはないから」
「じゃあ何だよ?」
寒い、と何とか呟くと途端に布団らしきものでぐるぐるにされた。
「少し様子見て、治まらなかったら病院に連れてこう。でもひょっとしたら、パニック発作じゃないのかな……」
それからどのくらい経ったのか、見当もつかない。轟から交替した千歳に抱きかかえられているうちに、少しずつ楽になった。いつの間にかすっかり体重を預けていたことに気付く。重いだろう、と身動きすると背中をさすっていてくれた手が止まった。
「ひろさん?」
「ごめん……大丈夫」
徐々にではあるけれど、胸の重りを解き放たれたように涼しい空気が肺に流れ込んできた。視界の闇もゆっくりと晴れていく。ほっとして何度も息をついた。
「うん、うん……あ、良くなってきたみたい」
降って来た声に顔を上げると、轟が携帯でどこかに電話していた。
「うん、病院には必ず連れて行くから。仕事中にごめんね、姉さん」
看護婦のお姉さんに対処を聞いてくれていたらしい。話が大きくなっていて焦る。
「まだここにいて」
一人でちゃんと座り直そうとしたけど、うまく出来てなかったのかもしれない。心配そうに呟いた千歳にまた抱き寄せられてしまった。実際、頭がぼんやりしてたので素直に従う。
「病院で一度検査して、どこにも異常がないか確かめた方がいいそうです。落ち着いたら行きましょう、付き添います」
「でも、大分楽になってきたし……」
その先の言葉は、二人のすごい形相に思わず飲み込んだ。
「お願いですから行って下さい」
「行かなきゃ今すぐ万智子さんに連絡して、三人で引きずってでも連れて行きますよ」
轟は土下座でもしそうな勢いだし、千歳に連絡されちゃうのも困る。下着ドロに入られた上に妙な発作を起こしたとなったら、万智子さんは間違いなくすっ飛んでくるだろう。
「この分なら一人で行けそうだから、轟も千歳も講義に出……」
結局、引きずって連れて行かれた。
「大家さんに電話してみました。自費と立会いが条件で、鍵替えてもいいそうですよ」
「それまで俺たち、泊り込みます」
ちゃんと戸締まりするから大丈夫だと言ってるのに、さっきから二人は随分粘っている。今日のうちに結果が出た検査は全て異常なしだったけれど、昼間の発作がまた起きるかもしれないから一人にしたくないと思ってくれているのは分かった。
「でも心配しすぎだってば。何かあったらすぐ電話するから」
それでもなかなか帰ろうとしない。わたしはと言えば朝から耳鳴りに下着泥棒、発作に病院と色々ありすぎたせいで疲れ切っていた。夕飯を食べている途中からもう眠くて仕方ない。聞こえてくる彼らの会話が途切れ出した。
「ごめん、ちょっとだけ寝かせて。あとで残りのご飯食べるから、置いといて……」
言い置いてごそごそとベッドに潜り込んだ、その次に気付くと部屋は真っ暗だった。びっくりして手探りした目覚まし時計は丑三つ時真っ只中を示している。
(起こしてって言ったのにー。あいつら、電気消して帰っちゃったんだ……)
「ん……」
いきなり人の気配がして、悲鳴を上げかけた。咄嗟に、ないよりマシな武器と思って目覚まし時計を掴んだ……が、よくよく目を凝らしてみると人影は床に転がっているようだ。
(轟……? あ、千歳もいる)
わたしが寝ている間に持ち込んだのか、床に直接枕を置いて毛布にくるまっているのはどうやら心配性な二人らしかった。
(何だ、脅かさないでよ、もう……)
目覚まし時計をそっと置いた。彼らはよく眠っているらしい。耳鳴りばかり聞かされてささくれていた耳に、二人のすうすうと静かな寝息が心地良かった。どきどきしていた心臓が落ち着いていく。薄暗闇の中でしばらくの間、二つの毛布が規則正しく上下するのを見守っていた。
眠らずに、ずっとそうしていたくなった。
「ありがと……」
一人でも大丈夫だと言い張っていたけれど、こうして二人がいてくれることでひどく安心している自分に気付く。いつから、こんなに受け入れてしまっていたんだろう。轟や千歳と出会う前も一人暮らしをしていたはずなのに、今思うとどうしてやっていけたのかと不思議になってくる。
心配されるのは照れくさいし、的外れだと思うこともある。でも、心配してくれる人がいるってこれほど嬉しいことだったっけ。長らくそれを忘れていたような気がした。
どうしたら二人を心配させずに済むのか、どうしたらお返ししてあげられるのか、考えてもよく分からない。でも彼らのために何かしてあげられることがあるなら、精一杯してあげよう。
とっても平和にして殊勝な気持ちで、また布団に潜り込んだ。