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守護霊見習い  作者: シトラチネ
見習い二号 ―友紀―
14/39

… Saturday …

… Saturday …


 眩しくって眼を覚ます。カーテンの外は随分明るくなっているようだった。目覚ましを探ろうとした左手に腕時計が二つはめられているのを発見する。不審に思いながら自分を確認すると、服も昨夜出かけたのと同じだった。

(あ、そっか……飲んで帰ったんだっけ)

 せしめた高級時計は八時を示していた。起き上がろうとするとまだアルコールが残っているらしく、足許がおぼつかない。何とかぬるめのシャワーを浴びる。

(友紀が謹慎中で良かった。そうじゃなかったら絶対また乗り移られて、騒ぎが拡大してたに違いない……)

 喉がからからで冷蔵庫を開けてみたけれど、うちのドリンク類は全滅しているようだった。お酒に入れても何の効果もないという目薬だけがぽつんと残されている。

(ポカリでも買ってこよう……)

 近くの自販機に出掛けようと、財布と鍵を探す……が、鍵が見つからない。酔って帰る途中に落としたのかもしれないと焦る。が、よく考えればわたしが今部屋にいるということは、鍵を使って中に入ったということだ。そういえば、千歳に送ってもらったような気がしてきた。

「おはよー……千歳、わたしの鍵知らないー?」

 一〇三号室を訪ねて聞くと、何やら緊張した面持ちで出てきた千歳は呆れたというより嘆いているような顔をした。わたしが酔っ払ったのがよっぽど迷惑だったのか。

「あ、昨日はお騒がせしましたー。送ってくれてありがとうございます」

 どうしてだか拗ねているようにしか見えない千歳が掌に落としてくれた鍵をポケットに突っ込む。とにかくポカリ、と道路に向かうと千歳は追いかけてきた。

「そこの自販機に行くだけ。もう酔ってないってば」

 と言った途端にミュールが脱げたのが説得力ゼロだったらしい。しかもそれを拾おうと踏み出した瞬間、自転車に轢かれそうになる。ブレーキ音がちょっと聞こえたのが、迷惑をかけておきながら嬉しい。結局、怖い顔した千歳は自販機までついてきてしまった。御礼とご機嫌取りにコーヒー缶をご馳走することにする。

 自販機に右耳を押し付けてから、ボタンを押してみた。ドン、ガシャンという音が震動と共に伝わってくる。嬉しくなって何本も買って聞いていると、千歳は悪戯っ子でも見ているような笑い方をした。何が面白いのか知らないけど、コーヒー缶じゃなくてこんなことで機嫌直してくれるなんて安いヤツだ。

「あのさ、大声じゃなくて、耳元ではっきりしゃべってみてくれる?」

 頼むと、ポカリを何本も抱えた千歳は頷いてちょっと屈んだ。

「この酔っ払い」

 ……まず言うのがそれか。

「モペットってあれ、効くねー。最初で最後にしよ……」

「やったことなかったくせに沙悟浄を賭けたんですか?」

 オリスだってば。

 聞こえるのは嬉しいけど、また千歳の小言を聞かされるのは嬉しくないもんだ。

「いーじゃん、あのブライトリング売って皆で遊びに行こうよ。すっごくいいとこ泊まれるよー。それとも海外行く?」

「ひろさんは貯金って単語を知らないんですか」

 行きたくないなら轟と二人で行くけど、と言ったら冷たいポカリをキャミソールの背中に押し込まれた。



『ゲイと自覚しておきながら昭子と結婚したのは裏切りだ、そのうえ自分は望まれない子供なのだと友紀は泣きながら怒った。君があれは事故だったと証明してくれても、許さないと叫んだ友紀の顔は忘れることが出来ないだろう』

 三島氏からメールが来ていて、一気に現実に引き戻される。朝から重い話題は御免だと、画面はそのままにして一旦PCを追いやった。

 バーの帰りに食料を買い込もうと思っていたのにあんなことになったから、うちからは食料も全滅していた。千歳から顛末を聞いたのか、轟はわたしたちの二日酔い定番メニュー、おかゆに載せる豚そぼろを材料持参でてきぱきと作ってくれている。

「轟、大好き。お嫁さんになって」

 エプロン姿の左腕に抱きつくと、轟は強張った顔をしてわたしの背後に怯えていた。振り返ると、千歳が腕組みして面白くなさそうに仁王立ちしている。

「あ、千歳におごってもらうの忘れてた。ごめんね、また行ってもいい?」

 アマレットを出してもらう前に飲み比べが始まってしまって、しかも代金は外資さんに払わせたはずなので結局おごってもらってないのだ。

「それとも、もう出入り禁止かなあ」

 ロマンスグレーさんにも相当迷惑をかけた気がする。がっくりしていると、千歳は首を振って耳打ちしてきた。

「待ってますから」

 この様子じゃ、行かないといつまでも機嫌を損ねていそうだ。あさってからもうテストが始まるけれど、早いところ行かねば。

 そんなことを考えながらおかゆを頂こうとしたら、轟が慌ててわたしの器を引っ込めてしまった。警戒した視線を追うと、その先はわたしの手に握られたマヨネーズだった。ごはんにマヨネーズと言えば、あいつしかいない。

「友紀っ……ごはん中に出てくるの禁止! あっち行っててよ!」

 わたしが急いでマヨネーズを冷蔵庫に封印したのを見て、つまらなそうに唇を尖らせる友紀を叱り付けた。轟と千歳は何か変なトッピングをされるまえに完食するつもりらしい。おのおのの器を抱えてわたしと距離を取った。

『せっかく謹慎とけたのに。遊んでよー、シロ』

「試験前だって言ってるでしょ! 試験前じゃなくたって、あんたとは遊びません! さっさと見習い卒業して帰って!」

 わたしは味覚音痴じゃない、味覚音痴じゃない、と自分に言い聞かせながらおかゆを掻き込む。

『あー、それに猫、飼ってくれない気なんだ。ひどいなー』

 友紀は部屋の中を見回して、猫が見当たらないことに気付いたらしい。そういえば、すっかり忘れていた。

「だってあの子、近付いてこないんだもん。名前呼んですり寄ってくるなら、可愛いヤツと思って飼ってあげるのに……ん?」

 そもそも名前を教わっていないことに思い当たった。猫の名前はなに、と聞いているのに友紀は放置してあったPCに気を取られているようで反応がない。覗くと三島氏からのメールが表示されたままになっていた。

『父さん、気にしてるんだ……』

 ぽつりとした呟きに、思わずれんげが止まる。哀しげな横顔が可哀想で、まだ最後まで眼を通していなかったそのメールの続きを一緒に読んだ。

『今思えば、君を頭ごなしに詐欺扱いしたように、わたしの頑固と思い込みが友紀との喧嘩を不毛なものにしてしまったのだ。友紀には理解出来ないだろうと思った。だから話さなかったのだが、昭子はわたしの性向を知った上で結婚してくれと言ったのだ』

「えええっ!?」

 これにはさすがに驚いた。素っ頓狂なわたしの声に轟と千歳もやって来て、三人と霊一人で狭いPC画面に頭を寄せる。

『しかし昭子にもずっと葛藤はあったのだろう。心療内科通いが途切れたことがなかった。だが、昭子にはわたししか頼る者がいないのだ。子供が欲しいと言われたら、それを叶えてやりたかった。そういう意味で望んだ子供だったが、昭子はわたしが情けをかけたとでも思っていたかもしれない。友紀もそう思ったのだろう。話してやるべきだった』

 見ると、友紀は泣いていた。どさくさに紛れて轟にもたれかかっているが、大目に見てあげよう。

『友紀が生まれてからの昭子は、わたしから眼を逸らすようにべったりと子供の世話を焼いた。その友紀が死んでしまって、昭子が納骨を拒んでも、霊能者に会いたいと言ってもわたしには反対できなかった。昭子に嘘をついてでも、友紀がそばにいるのだと思い込んでくれればいいと考えたのは、早計だったかもしれない。だがそんなわけだから、すぐに説得するのは無理だ』

「いや、無理だって言われても……」

 ぐすぐすと泣き続けているのを見ると、友紀の気がかりはやっぱり両親のことだったのだろう。だけど三島家の問題が片付くのを待っていたら、この先何度マヨネーズごはんを掴まされ、轟と千歳におかしな酒を飲ませてしまうことになるかわからない。下手したらわたしは脱いじゃったりするかもしれないのだ。

「友紀、もうお父さんに怒ってない?」

 先に終わらせられるとしたら、昭子さんよりまず三島氏だ。聞くと、友紀は手の甲で頬を拭いながら頷いた。触ることは出来ないけれど、頭の辺りをよしよしと撫でてやった。

 轟はそれが自分の肩から十センチと離れていないことに、複雑な顔を見せている。

「お父さんにそれ、伝えてあげようよ」

 とはいえ、どうすればいいのか。友紀についてはわたしの言葉だけじゃなくて、三島さんにも眼に見える形で証明すると約束してしまっているのだ。

『猫』

 考えていると、ようやく泣き止んだ友紀がふと言い出した。

「え?」

『父さんと母さん、猫のいるとこに連れて来て』



 土曜日は会社が休みだとのことで、三島夫妻は揃ってすぐに廃ビル前まで来てくれた。軽く怪我のことを説明して、耳元でしゃべってくれるように頼んだ。

 足さばきのいいものを穿いてきて下さいと言っておいたら、昭子夫人はスカート以外はこれしかないと顔を赤らめてサブリナパンツを示した。お若い頃のものなんだろう、三島氏が懐かしそうに照れくさそうにしているのが微笑ましかった。

 が、その三島氏はわたしがフェンスを乗り越えるのを見て、管理会社に連絡がどうのとうるさいことを言っている。一方の昭子さんはと言えば友紀に関係があることだと目先が見えなくなるらしい。奥さんが身体の華奢さに似合わぬガッツでフェンスに取り付くのを目前にして、三島氏は唇を曲げつつ無言で続いた。

 昭子さんはわたしが先日供えた花束を見つけて、眼を潤ませている。ふと視線を感じて振り向くと、落雷に半分倒れたままの樫の幹の裏から、こっそり様子を窺っている虎猫がいた。

「あ、あの子が友紀くんがここで飼ってた猫なんです」

 猫アレルギーだという昭子さんは近付きたくても近付けず、もどかしそうに首を伸ばしている。代わりに三島氏が一歩踏み出すと、小柄な虎猫は逃げ道を確保するように身を引いた。轟と千歳は退路を塞ぐような位置取りに動く。

「前回、友紀くんに頼まれて捕まえようとしたんですけど、無理だったんです」

 転がっている季節外れの虫取り網が、三島氏にそれを信じさせたようだ。

「でもさっき、友紀くんが猫の名前を教えてくれました。呼んだら、きっと寄って来るって」

「何だね?」

 息を吸い込んでから、本当に寄って来てくれることを祈った。

「ヒストリーを消していたのなら、友紀くんがあそこを訪ねたのは本当に偶然でしょう。でも三島さんのことに気付いたのは、クッキーが残ってたからじゃないでしょうか」

 三島氏が通っていた交流掲示板のことを匂わす。昭子さんが三島氏を責めていた様子はないし、三島氏も関係者が見ていないことが前提のような、つらい心中をひたすら吐露する書き込みをしていた。恐らく昭子さんは三島氏が掲示板を利用していたことを知らないのだろう、と推測していた。

 現に昭子さんは、クッキーを食べ物の方だと思っているらしい。「どこかのお菓子屋さん?」などと呟いている。

「クッキーに名前が残ってたから」

 履歴は消していても、三島氏はクッキーを消すことまで頭が回らなかったのだろう。あの交流掲示板用に保存されていたクッキーは友紀が偶然アクセスした時に、名前欄にteruと表示してしまったに違いない。父の名前とあまりに酷似したそのハンドルネームで、友紀は父親の性向を知ったのだろう。

 顎を引くような頷き方をして、三島氏は唸った。

「友紀くんは、それを猫の名前にしています」

「な……」

 愕然という形容がふさわしい面持ちで、三島氏の目が見開かれた。

「友紀くんが猫を飼って、って頼んだのは春休みだったそうですね。ペットショップの店員さんも、友紀くんが餌を買いに来るようになったのは春ごろだって言ってます。でも友紀くんがクッキーに気付いたのは」

 teruの記事を思い返しながら、念を押した。

「……それ以前の、二月だったはずです」

 立ち尽くす三島氏が、頭の中で様々な記憶の糸を手繰り寄せているのが見えるようだった。

「三島さん。友紀くんは確かにあなたに色々言ったかもしれません。でも、ちゃんと慕ってたからこそ、本心ではわかりあって仲直りしたかったからこそ、飼い始めた猫にその名前をつけて可愛がっていたんじゃないでしょうか」

 拳を握って俯く三島氏からそっと離れ、猫に向かって屈んだ。おいでと声を掛けてみても、虎猫は首を傾げもしない。続いてチビ、タマ、ミーなどと思いつく猫らしい名前をありったけ呼んでみても同じだった。

「呼んでみて下さい、あの名前で」

 促すと、三島氏はためらうように猫とわたしを見比べた。わたしも内心はらはらしていたが自信ありげな顔を作って頷いてみせると、三島氏の何度も湿らせた唇がようやくその名を呟いた。

「テル……」



『ちょっと、それ反則なんじゃないの』

 テルと呼んだ瞬間に、友紀が三島氏のすぐ後ろに現れた。猫は近眼だというけれど、さすがに友紀だということには気付いたらしい。ハッと顔を上げた後、たたたっと足取り軽く寄ってきた虎猫を、三島氏は信じられないという表情で見下ろしていた。

『それじゃ名前を呼ばれたからじゃなくて、友紀を見て寄ってきただけじゃないの』

 慣れない手つきで猫缶を与えている三島夫妻と、空腹らしく待ちきれずにその膝先に擦りついている猫を、友紀はにこにこ眺めている。轟と千歳まで感動したみたいで拍手しているから、この反則については黙っておこう。

『いーじゃん、父さんホッとしてるみたいだよー。終わり良ければ全て良しって、このことだね!』

 良くない。確かに終わりはいいけど全ては良くない。詐欺はイヤだと、三島氏に対してあれほど努力したわたしの心がけを踏みにじりやがって……。

『……ねえ、シロ。ぼく、死んだらさっさと成仏しちゃうのが生きてる人のためだと思ってた』

 睨んでいるのに気付きもしないように話し出したが、友紀の口調も横顔も珍しく真面目そうだった。文句をつけるのは後回しにする。

『だけど、残された人は死んでる人に許してもらおうと思っても、絶対返事をもらえないんだよね。死んでぼくに会うまで苦しまなくちゃならない』

 三島氏との喧嘩のことを言っているらしい。友紀が正論を展開しているのには驚いたが、とにかく頷いておいた。

『だから、なるべく早く仲直りしなくちゃいけないよね。うっかり死んじゃったりしないうちにさ』

 ……それって、三島夫妻の問題をどうにかしてやれと何気に催促してるんじゃないだろうか。

『あんたって、要求ばかりな子。正式に誰かの守護霊になったらそういうわけにはいかなくなるんだから、覚悟しときなさいよ』

 えー、と途端に上がる嫌そうな声を無視して三島夫妻に近付いた。

「三島さん。もしこの猫がいなかったら、友紀くんは三島さんに言いたかったこと、ずっと伝えられずにいたかもしれません」

 久しぶりの高級餌なのだろう、取り合うライバルもいないというのに虎猫は必死にかぶりついている。それを見下ろす三島氏の目は、猫でなくて友紀を見ているのかもしれない。

「でも、その気になれば猫がいなくても言いたいこと言える人が、近くにいらっしゃるんじゃないですか」

 そう言って昭子さんを見つめると、三島氏は言わんとすることを察したらしい。きょとんとしている昭子さんを前に、また何度か唇を湿らせている。

「何のお話?」

「えー……、昭子」

 不意に三島氏は重々しく口を開く。

「おまえは、わたしが情けで結婚したと思っているかもしれないが……」

 不意打ちをくらった形の昭子さんは、一瞬ぽかんとした。

「おまえを支えるのはわたししかいないと思っているし、だから友紀にだって死んでもらいたくなどなかった。だけど、友紀は死んだんだよ」

 表情を強張らせた昭子さんの、ぐっと引き結ばれた唇の横を涙が滑り落ちていった。

「これからは、わたしたちがしっかり友紀の冥福を祈ってやろうじゃないか。友紀が心配しなくても済むように、ちゃんと暮らしていくべきなんだ。納骨もして、霊能者を呼んだりするのもやめて……旅行にでも、行こう」

「あなた……」

 まだ納得しきっていないような素振りも見せたけれど、三島氏の言葉が嬉しかったに違いない。昭子さんは、泣きながら頷いた。

(こういう形の愛情もあるのかもしれないな……)

 例えば好きな人がいるのに見合い結婚をさせられて、でも気付けばその結婚相手がとても大事な人になっていたり。

 昭子さんは、三島氏を必要としている。愛されていないことを知りながら結婚を望んだのだし、愛しているからこそ夫に愛されたくて精神のバランスを崩していたのだろうから。三島氏に対して愛情がなければ、苦しむ必要もないのだ。

 三島氏も、三島氏なりのやり方で昭子さんを大事にしようとしていたんだろう。ニセモノであれ霊能者を呼んであげたのも、ゲイの交流掲示板に通っていることを隠しているのも、彼なりの愛情だったんじゃないだろうか。それを良しとするかどうか、わたしにはまだ理解できないけれど、三島氏には昭子さんに対する愛情が確かにあるのだということはわかった。

(それでいいのかも……)

 夫婦の邪魔をしないように大人しく見守っていると、友紀に手を取られてぶんぶん振られた。単なる駄々っ子だ。

『なによっ、まだ何かして欲しいことがあるわけっ』

『ねえシロ、シロ飼ってやってよー』

(……は?)

 わたしの名前が一回多く呼ばれた気がする。

『あっ、あれ嘘だから。ほんとはあいつの名前、テルじゃなくてシロなんだ。あはっ』

 あはっ、って、おい。

『だから父さんの後ろに立ったんだよ。テルじゃ寄って来るわけないもん』

 ふらふら、と後ずさったら壁に頭をぶつけた。

「ひろさん、大丈夫ですか? 耳が痛みます?」

 すっ飛んできたらしい轟が、おろおろと覗き込んでくる。

「ちょっと……気が抜けて」

 本当のことを言えばちょっとどころじゃないのだが。三島氏に嘘はつくまいという心がけは、その息子によってめためたに踏みにじられ風に飛ばされていったようだ……。

「なんだ、まだ酔ってるのかと思いました」

 千歳の憎らしい軽口に反応する元気も出て来ない。

『ねえ、飼ってくれる?』

 相変わらず相手の反応など見えていないらしい友紀は、しつこく食い下がってくる。

『あのさ……あの子が虎猫だって知ってる?』

 虎猫にシロって。しかもよりによって、シロって。

『えー、だってお腹の毛は白いんだよ!』

 どうだ参ったかとばかりに言い切られても。そんな、猫が一番見せたがらない場所の特徴で名付けられても。だけど同じ名前で、さらに食べ物に困り気味となるとますますほっとけないかも……。

「千歳、今日……お店に飲みに行ってもいい?」

 友紀に言い返すのは諦めた。酒がいる、としか考えられない。

「ひろさんは昨日退院したばっかり……」

 心配丸出しの轟に、いつもなら引き下がるかもしれない。だけど今回ばかりはと思いっきり睨み返すと、僕も行きますという小さな怯えた返事が返って来た。



「友紀、あんた何でまだいるわけ? 絹さん、さっさと引き取ってよねー」

「ひ、ひろさん、声が大き……」

 開店したばかりのPoison Appleのソファ席に通してもらった。千歳が運んできてくれたアマレットで乾杯しようとした矢先、ビールを掲げる轟にちゃっかり友紀がすり寄っているのを見つける。しっしと手で追い払うと、轟はそれが自分の肩先であることに硬直しているようだ。

「千歳、友紀をつまみ出しちゃってよ」

「……そもそも見えないのに無理言わないで下さい」

 制服姿の千歳はチョコレートやチーズを置くと逃げるように、と言うか逃げたのだろう、さっさと戻っていった。

『三島さんと仲直りしてシロも連れて帰ってきたのに、まだ何か不満があるの?』

 友紀がヘンな組み合わせを試す気にならないよう食べ物を遠ざけながら聞くと、ぷっと頬を膨らまされた。ガキか。……いやガキだ。

『あ、トラ次郎飼ってくれるんだね! よかったー心配してたんだ』

「……は?」

 本能が、聞いてはいけないことだったと告げている気がする。友紀がぺろっと舌を出して、しまったという顔をしたのは一瞬だった。すぐに天使のようなくるくる髪を揺らして、例の無邪気な笑顔で単純に喜んでいる友紀が悪魔に見えてくる。

『虎猫にシロなんて名前付けるわけないじゃん。ああでも言わないとシロ、トラ次郎飼ってくれないと思ってー』

 つまり猫の名前はテルでもなくシロでもなくトラ次郎だったらしい。

「あのね、あの子……メスなんだけど」

 脱力のあまりソファに倒れながら言う。

『そんなの知らないよう。だってぼく、弟が欲しかったんだもん』

「…………」

「ひろさん、しっかり……」

 轟に肩を揺さぶられてる気がするけど。何だかもう、全てがどうでもいいような気分だ。

「轟、お酒……」

 倒れたまま手を突き出すと、轟は慌ててアマレットのロックグラスを持たせてくれた。起き上がるなり一気に流し込む。慣れた味を噛み締めつつ氷を鳴らしていたら、だんだん落ち着いてきた。

「これ、いい音かも」

 ふとそれに気付いて、グラスを右耳に近づけてみる。うちにある安物のグラスとは大違いだ。友紀は無視することにして、しばらくグラスを揺らして音を楽しんだ。

「良かったですね」

 いい音収集癖があることを知っている轟は、にこにこと上機嫌だ。

「でも、こっそり持って帰ったりしないで下さいね」

「……やっぱりだめか」

 轟は冗談で言ってたらしい。舌打ちしていると、急に笑みを消してぶんぶん首を振られた。

「お代わりしますか?」

 そういえばグラスが空だった。カウンターを見るとロマンスグレーさんの手が空いていそうだ。昨日のこと謝ってくる、と席を立った。

「今日は耳のお加減、いいみたいですね」

 何ていい声してるんだ。収集物に加えたい。

「はい、ありがとうございます」

 ちょうど、テーブルセッティングを終えたらしい千歳が通りかかる。肘を掴んで小声で聞いた。

「ロマンスグレーさんって独身?」

「店長? いえ、奥さんと二人のお嬢さんが」

 お持ち帰りは無理ということらしい。なあんだ、と肩を落としていると逆に千歳に小声で吠えられた。

「生身の人間でも妻子持ちはダメですよっ」

「だっていい声だったから」

 千歳はわたしを睨みながらキッチンへ消えていった。確かに声の良し悪しで選んじゃいけないか。

 気を取り直して、ロマンスグレーな店長さんに昨日の飲み比べで迷惑をかけたことを謝った。店長さんは目尻を下げた優しい笑顔で、いえいえ楽しませて頂きました、と手を振る。轟の三十年後はこんな感じかもしれない。

「アマレットでよろしいでしょうか?」

 ダンスを申し込んでいるような優雅な仕草で手を出された。お願いしますと空のグラスを渡すと、それを受け取った店長さんは片眉をひょいと上げて、灯りにグラスをかざしている。何か確認でもしているようだ。

「先月の半ばでしたか。千歳くんが、店中のグラスを引っ張り出しましてねえ」

 のんびり話しながら、店長さんはグラスがずらり並んで出番を待っている戸棚とは違う場所を探っている。出してきたのは、渡したのと同じ型のグラスだった。

「片っ端から氷を入れては、音を聞いてるんです」

 こんなふうに、と透明な氷を落として揺らすと澄んだ深い音がした。

「これは数が少なくなってしまって、もう使ってなかったグラスなんですけれども」

 それで別の場所から出してきたのか、と納得する。

「彼はこれが一番いい音だと思ったみたいですね。なのにその後一度も、自分でも使わないしお客様にも出そうとしないんですよ」

 アマレットの瓶の四角いキャップは、店長さんの指に弾かれてくるくる回った。

「不思議に思っていたところでした」

 グラスに注がれていく琥珀色が氷を躍らせる。

「どうぞ」

 少し待ってみたけれど、店長さんの話は終わってしまったらしい。どうやら千歳は氷の音に興味を持っていたようだ。バーテンダーはそんなことにもこだわるのかな。

「ありがとうございます」

 アマレットの御礼を言って、轟の待つソファへ戻った。



「ひろさん、僕ずっと寒気がしてるんですが……」

 戻ると、相変わらず友紀が轟にすり寄っていた。

「だからー。あんた、何でまだいるわけ」

 二杯目のアマレットも一気に減る。わたしの不機嫌など何処吹く風で、友紀は拗ねた顔をした。

『だってシロ、まだぼくの心残り聞いてくれてないじゃん』

 何言ってんの、と言いかけて黙る。確かに、本人の口からは聞いていない気がする。まさか、実は三島夫婦のことじゃないとか言い出すんじゃ。

『あのね、ぼく……キスってまだしたことないんだー』

「……はあ?」

 もじもじと顔を赤らめているところを見ると、本気らしい。

『ぼく、シロと一緒に味わうから! シロ、誰かとキスしてよ』

「うわっ、ひろさん、何するんですかっ!」

 胸ぐらを掴んでソファの背に押し付けると、轟はじたばたと手先で暴れた。

「これで友紀を厄介払いできるんだから、協力してよ!」

 ソファに膝をついて顔を寄せる。何をしようとしているのか気付いたらしく、轟は真っ赤になった。

「そ、それだけはひろさんっ……僕、友情を大事にしたいんですけどっ……」

「わたしとの友情が大事ならキスさせて!」

 暴れ続ける轟を押さえ込む。

「いえひろさんとのじゃなくて……」

「どうしたんですかっ!?」

 騒ぎを聞きつけたらしく、千歳が駆けつけて来た。轟がキスさせてくれない、と言うと眼を剥かれる。

「そうだ、ひろさん! 千歳でもいいんじゃないですか、千歳として下さい!」

 言うなり、ソファの背を乗り越えて逃げられてしまった。

「轟の薄情者! やっとこれで友紀と手を切れるっていうのにー! いいもん、千歳とするから」

 茫然としている千歳を引っ張って強引にソファに座らせた。逃げられないようにと、膝の上をまたいで座って確保する。肩を押さえて顔を近付けると、待って下さいと慌てて止められる。

「何となく話はわかりましたけど……それでいいんですか。見習いのために好きでもない男とキスしたりして、ひろさんはそれで満足なんですか?」

 友紀を追い払えるなら満足です。一刻も早く去ってもらいたいです。

「そういうの、良くないと思いますよ。どうせするなら、ひろさんの気持ちでして欲しい……」

 何だか逃げ腰のようだ。千歳にまで逃げられてたまるか、というのがひろさんの気持ちである。

「あのね、千歳。これがわたしの気持ちなの」

「え……」

 有無を言わせずキスをした。

 千歳は驚いたのか、一瞬身をすくめる。けれど何だかんだで友紀には同情していたのだろう、観念したらしく受け止めてくれた。腰に腕を回して頬に手を添えて、とサービスまでしてくれる。

 友紀は友紀で、千歳が何度もキスしてくれることにすっかり気を良くしたみたいだ。調子に乗ってちゃっかりわたしの身体を使い始め、あろうことか舌まで入れている。抗議しようとしたが、千歳は応えてくれちゃっている。サービス満点どころか、明らかに過剰サービスじゃないだろうか。

『シロ、キスって、美味しいんだね』

 震えるような友紀の声が聞こえた。

『ずっと、美味しいものなんて食べてなかった。何を食べても食べた気になれなかったんだ。でも、やっと美味しいって思えたよ。ありがと、シロ……』

 嬉しかった。友紀が心残りを果たしてやっと見習いを卒業してくれることなんかじゃなくて、あんなにヘンなものばかり食べながら美味しいものにやっとたどり着いてくれたことが。

「ひろさん?」

 泣き出したことに気付いたのか、千歳は唇を離した。そして指先で涙を拭ってくれながら、絞るように囁いた。

「ひろさん、俺……ひろさんがそんな気持ちでいてくれてたなんて知ら……」

「友紀ね、美味しかったって……」

 一拍置いて、千歳は「はあ?」と大声を出した。さっきまでの感激したような顔は何だったんだろう。

「味覚音痴にも、キスは美味しいんだね。とにかくこれで見習い終わりだ! ありがとねー、千歳」

 やったあ、とテーブルに戻って残っていたアマレットを掲げて飲み干す。三杯目はアマレットベースの何かにしようとうきうきメニューを開いていると、どこかで様子を見守っていたらしい轟がおずおずと戻ってきた。

「……轟、俺さ、言わないだけで隠してないよな」

 千歳はソファに埋もれたまま独り言のように呟いている。

「すげえ直球じゃないと見送られるもんなのかな。実は高度にはぐらかされてるとか」

「たぶん、相手は自分がバッターボックスに立ってること知らないんだと思う……」

「……やっぱ?」

 二人は何やら野球の話をしているらしい。

「でもさ、俺……何だかだんだんそれが快感になってきた気もするんだけど……」

「……千歳それ、危ねーって」

「あ、ゴッド・ファーザーってあの映画にちなんでるの? これにしよう」

 ふと痛いような視線を感じて眼を上げると、轟と千歳に揃って呆れた顔を向けられていた。

「飲みすぎ、って言おうとしてる?」

 沈んでいたソファからやっと身を起こして、千歳は首を振った。

「見習いが面倒なのもわかりますけどね、ひろさん。もうちょっと自分を大事にして下さいよ」

「怪我は不可抗力だもん」

 怪我の話じゃありません、と叱るように言われた。

「あ、キス? ごめんごめん、あれで最初で最後だから」

「……最初で、ですか」

(あれ?)

 そういえば、昨日の夜は変な夢を見たような……。

「あのさ、千歳。わたしに読唇術教えてくれたりしたっけ?」

 不貞腐れたようにぶらぶらさせていた千歳の組んだ足が、ぴたっと止まった。

「どんな?」

 どんなって言われても。興味ありげに聞いてくるところを見ると、やっぱり夢だったのかもしれない。

「ご希望なら教えますよ。って言っても俺が知ってるの、一番簡単な一つしかありませんけどね」

 冗談でも借金に利子つけろとか言うヤツだ。千歳に何かを教わるとのちのちまで恩着せられそうだから、やめとこう。

 黙っていると、千歳はやっと笑って立ち上がった。

「ゴッド・ファーザー持ってきますけど、轟の簿記も途中だしこれくらいにしといて下さいね。でないと今度はみっちり、読唇術教えてやりますから」

「えーっ、見習い卒業のめでたい日なんだから、飲むわよ! とことん!」

 その結果、簿記の試験前日は揃って徹夜する羽目になった。



 でも仏壇に加わった亜鉛のサプリを見ると、それでもまあいいかと思えるのである。


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