203Y年8月 台北
203Y年8月
中華民国/台湾 台北市大安区 国立台湾大学
台北の空は、かつて火球が舞っていたことなど忘れてしまったかのように、吸い込まれるような深い青色に包まれていた。
国立台湾大学の象徴である椰林大道を、夏の暴力的なまでの陽光が黄金色に染め上げる。風が吹くたび、青々と茂った椰子の葉がさらさらと音を立て、その隙間からこぼれる木漏れ日が、舗装された道を踊るように照らしている。空襲警報のサイレンに代わってキャンパスを支配しているのは、命の限りを謳歌するような凄まじい蝉時雨だ。
交換留学の最後の日。スーツケースを手に寮を出た桜木祐希は、立ち止まって大きく息を吸い込んだ。空気には、台北特有の熱気と、どこかの屋台から漂う八角の香り、そしてスコールが降りる直前のような濃い緑の匂いが混じり合っている。
「……きれいだな」
独り言のように呟いた祐希の視線の先には、平和を取り戻した街の営みがあった。色とりどりのスクーターが軽快な音を立てて走り抜け、軒先では老人が談笑し、幼い子供が笑いながら犬を追いかけている。かつて「奈落」の淵まで行ったこの島は今、生きる喜びという何にも代えがたい輝きに満ちていた。
九月からは、日本の東都大学での元の生活に戻ることになる。戦火の中を駆け抜けたこの数カ月間は、彼にとって一生忘れることのできない、重く、そしてあまりに濃密な時間だった。
キャンパスの掲示板近くにある大型モニターからは、聞き覚えのある力強い声が流れていた。暗殺未遂による重傷から奇跡的な回復を遂げ、退院したばかりの郭総統の演説ニュースである。
「……我々は、もっとも暗い夜を潜り抜け、再びこの太陽の下に集うことができました。自由民主主義とは、単なる政治制度ではなく、我々が血を流してでも守り抜くと決めた、かけがえのない『尊厳』そのものです」
画面の中の郭総統は少し痩せていたが、その眼差しは以前よりも鋭く、そして慈愛に満ちていた。
「独裁の影が海を越えて迫ったとき、我々は決して独りではありませんでした。共に立ち上がった盟友たち、そしてこの島で不屈の意志を示したすべての市民に、私は最大限の敬意を表します。この自由という名の灯火を、二度と消してはならない」
「祐希。ずいぶん熱心に聞いてるのね」
鈴の鳴るような声に振り返ると、そこには白いワンピースに身を包んだ雨婷が立っていた。夏の光を背負った彼女は、息を呑むほどに眩しかった。
「あ、いや。この1年のことを思い出して感慨深くてさ……。いよいよ、出発だよ。マークも別の用があって桃園空港で待ってるって」
祐希が少し寂しげな視線を落とすと、雨婷は歩み寄り、祐希のスーツケースのハンドルにそっと自分の手を重ねた。触れ合った指先から、彼女の柔らかな体温が伝わってくる。ほんのりと爽やかなシトラスの香りが、夏の熱気の中で祐希の鼻をくすぐった。
「祐希。今まで黙っていたことがあるの」
彼女の瞳が、いたずらっぽく、それでいて深い慈しみを持って祐希を見つめる。
「私、九月から東都大学に留学することにしたわ。あなたには内緒で準備していたのよ」
祐希は驚きで言葉を失った。重なる彼女の手の温もりが、急に熱を帯びたように感じられた。
「将来は駐日外交官になって、あなたと私の国を繋ぐ架け橋になりたいの。戦火の中で、私たちが言葉を交わしたあの時間の続きを、今度は日本で紡ぎたいから」
雨婷はそう言うと、重ねた手に少しだけ力を込め、祐希の顔を覗き込んだ。二人の距離が、陽炎の中に溶けてしまいそうなほど近づく。祐希は、彼女の瞳の中に映る、自分自身の希望に満ちた顔を見た。
「……参ったな。一生かけても、君には敵いそうにないよ」
祐希が照れ隠しに笑うと、雨婷は花が咲くような笑顔を見せ、祐希の腕にそっと寄り添った。
「ふふ、覚悟しておいてね。九月の東京は、どんな景色かしら?」
「きっと、今日みたいに最高の青空だよ」
二人は、新冷戦の冷徹な足音が遠くで響く世界を見据えながらも、目の前にある確かな愛しさと、途切れることのない明日への希望を抱きしめた。
台北の夏空の下、若き二人の影は一つに重なり、新しい物語の始まりを告げるように、光溢れる正門へとゆっくり歩き出した。背後では郭総統の演説を締めくくる喝采が、祝祭の鐘の音のようにいつまでも響き渡っていた。
祐希たちが歩く歩道の向かい側。スクーターの群れに紛れ、タピオカティーのカップを片手にスマートフォンを眺めている一人の青年がいた。どこにでもいる大学生のような風貌だが、その鋭い視線は決して祐希と雨婷から離れることはない。
青年の耳元に隠された超小型イヤホンに、微かなノイズと共に中国語の音声が飛び込んだ。
「対象『海燕』、『長虹』中山北路を南へ移動中。周囲に不審な車両および歩行者は認められない。空港で『蒼鷹』に合流する模様だ」
「了解。後方より追尾を継続する。彼らの安全を最優先せよ。北京の連中は、負け戦の腹いせに何を仕掛けてくるか分からんからな」
彼らは国家安全局第三処の私服捜査官たちだ。戦争が表舞台で終わっても、水面下の「影の戦争」は終わっていない。自由のために戦い、中国共産党の目論見を挫いた祐希ー「海燕」、雨婷ー「長虹」、マークー「蒼鷹」たち三人の若者は、今や大陸側にとって最大の「報復対象」となっている可能性が高かった。
彼らを守るため、台湾政府は二十四時間体制の秘匿警護を敷いた。祐希たちが笑い合い、何気なく歩くその数十メートルの圏内には、常に数人のプロフェッショナルが風景に溶け込んで配置されている。
「『海燕』と『長虹』が日本へ行った後はどうなる?」
「心配いらん。郭総統から日本の首相へ、直々に特別の要請がなされているそうだ。警視庁公安部が警護を引き継ぐことになっている。自由民主主義の英雄に指一本触れさせる訳にはいかん」
そうとは知らず、祐希は初夏の風に吹かれながら、日本の家族へ送るためのメッセージをスマホに打ち込んでいる。
「……平和を守るってのは、案外、高くつくものだな」
捜査官は小さく苦笑してタピオカを飲み干すと、人混みに消えていく二人の背中を追って、静かに歩き出した。




