203Y年2月14日 台北/北京
203Y年2月14日
中華民国/台湾 台北市中正区
人々がバレンタインデーの華やぎを忘却し、窮乏と暴力の恐怖に震えていた深夜。
台北市内の官舎に戻った経済部長、謝承宗は、書斎の椅子に深く沈み込み、熱を帯びた瞼を閉じた。第三原発を巡るあの忌まわしい偽情報の濁流。パニックに陥った南部住民への対応、そして電力需給の綱渡り。数日間、まともな睡眠は取っていない。ネクタイを緩める気力さえ失いかけていたその時、玄関のインターホンが不躾な音を立てた。
現れたのは、長年の付き合いがある実業家、王だった。大陸に巨大な工場を持ち、かつて謝の選挙資金や政治献金において「合法的」な枠組みで多大な便宜を図ってきた男だ。
「謝部長、こんな時間に失礼する。だが、どうしても今、貴方に伝えておかなければならないことがあってね」
王は謝の返事も待たずに応接セットに腰を下ろすと、高級な革のカバンを足元に置いた。その顔は憔悴しているようにも、何かに取り憑かれているようにも見えた。
「王さん、今は非常時だ。私的な面会は…」
「私的な話ではない! 台湾の、そして君の息子の未来に関わる話だ」
王は身を乗り出し、掠れた声で畳みかけた。
「見たか、第三原発の騒動を。あれはまだ序の口だ。北京の忍耐は限界に来ている。このまま郭総統の強硬路線に付き合えば、次は偽情報ではなく、本物のミサイルがこの台北に降る。謝さん、君は賢い男だ。経済のプロとして分かっているはずだ。封鎖がもう一週間続けば、この島の経済は、文字通り『死ぬ』」
王は急に声を落とし、湿った手で謝の膝を叩いた。泣き落とすような表情に変わる。
「私の工場も差し押さえ寸前だ。従業員数万人が路頭に迷う。お願いだ、郭総統を説得してくれ。『和平協定』のテーブルに着くよう、閣僚として進言してほしい。今ならまだ、条件は悪くない」
「……和平協定だと? それは主権を差し出すのと同義だ」
謝が冷たく突き放すと、王の目が一瞬で冷徹な色に変わった。高圧的な口調が混じり始める。
「主権? 飯の食えない主権に何の意味がある! いいか、私は大陸の『上の方』といつでも直接連絡が取れるパイプを維持している。彼らは明言した。謝部長が総統を説得し、対話の窓口になれば、封鎖は明日にも解除される。貨物船は戻り、電気もガスも元通りだ」
王は再び声を潜め、今度は甘い毒を盛るように囁いた。
「『一国二制度』になれば、台湾の自由なビジネス環境は保障される。それどころか、統一後の『新政府』で、君には今以上の……そう、行政院長クラスの地位が約束されているんだ。君だけじゃない。アメリカに留学している君の息子さんの将来も、大陸の巨大な市場がすべて受け入れてくれる。彼の名義で、既に上海の湾岸地区に口座と不動産が用意されていると言ったら、どうする?」
謝の背筋に、冷たい汗が伝った。目の前の「古い友人」が、得体のしれない怪物に見えてきた。
「謝さん、これは脅しじゃない、救済だ。泥舟の郭総統と一緒に沈む必要はない。君が動けば、数千万の民が救われ、君の一族は永遠の栄華を手にする。……返事を聞かせてくれ。今ここで、私が『友人』に電話を入れるだけでいいんだ」
深夜の書斎に、王が取り出した最新型のスマートフォンの操作音が、まるで秒読みのタイマーのように不気味に響いた。
王は、謝の沈黙を「迷い」と受け取ったのか、さらに言葉の刃を研ぎ澄ませた。
「謝部長、プライドで腹は膨らまない。アメリカを見ろ、彼らが本当に我々のために若者の血を流すと信じているのか? 奴らは最後には武器を売りつけて逃げるだけだ。だが大陸は違う。我々は同じ血を分けた同胞だ。一時の混乱を乗り越えれば、君は歴史に『平和をもたらした英雄』として名を刻むことになる」
王は立ち上がり、謝の肩に手を置こうとした。その指先が触れる寸前、謝は静かに、しかし断固とした手つきでその手を払いのけた。
「……王さん。君の言う通り、私はこれまで政界で『親中派』の急先鋒だと揶揄されてきた。経済部長として、同じ言語と文化を持つ大陸との太いパイプこそが台湾の生命線であり、経済交流と対話を積み重ねることこそが、両岸の共存共栄を実現する唯一の道だと信じて疑わなかったからだ」
謝は椅子に深く背を預け、自嘲気味な笑みを浮かべた。その眼差しは、遠い過去を見つめているようだった。
「一国二制度か。……ああ、認めよう。二十年前、若かった私は確かにその枠組みを支持していた。それが、この島が繁栄を維持しながら平和を享受できる、現実的な落とし所だと思っていた時期もあった。だがな、王さん……」
謝の瞳に、鋭く冷たい光が宿った。
「二〇二〇年、あの、香港国家安全維持法が施行され、かつての東洋の真珠が、一夜にして言論の死に絶えた監獄へと変貌していく様を目の当たりにして、私の淡い期待は完全に粉砕されたんだ。約束は反故にされ、自由は法の名の下に圧殺された。大陸が言う『自由の保障』がいかに空虚なものか、もう我々は知っている」
「謝部長、それは極論だ! 台湾は香港とは違う……」
「いいや、同じだ。君が今提示した条件も、結局は我々の首に鎖を繋ぐための甘い餌に過ぎない。私が信じていたのは『自由を前提とした共存』であって、『生存を請うための隷属』ではない。自由を放棄してまで手に入れる平和に、経済的な価値など一銭もありはしないんだよ」
王の顔が強張り、謝の言葉を遮ろうとした。しかし、謝はそれを制するように自分のスマートフォンを手に取り、画面を王に向けた。そこには、ボイスレコーダーのアプリが作動し、王のこれまでの言葉をすべて波形として刻み続けている画面が映し出されていた。
王の顔から、一気に血の気が引いた。
「な……何を……」
「君の今の発言は、『境外敵対勢力』と通謀し、中華民国の軍事的・政治的利益を害し、国家を敵に降伏させようと画策する行為だ。外患罪に反浸透法違反、一体いくつの重罪に相当することか」
謝の脳裏には、数日前に蔡国家安全局長から受けた「王は大陸の国家安全部から送り込まれた潜伏工作員である疑いが濃厚だ」という、その時は一笑に付した忠告が鮮明に響いていた。
謝の指先が、画面上の「送信」ボタンを叩いた。
「今、この録音ファイルを蔡局長へダイレクトに送信した。君がこの官舎を出る頃には、調査局の車が門の前に並んでいるだろう」
「謝! 貴様、自分が何をしたか分かっているのか! 私を捕まえれば、大陸は黙っていないぞ! 貴様の息子がどうなっても……!」
王は豹変し、テーブルを叩いて立ち上がった。その顔は醜く歪み、かつての成功した実業家の面影はどこにもなかった。しかし、謝は揺るがなかった。
「息子は、自由のない上海のマンションよりも、この自由で騒がしい台湾で私と一緒に戦うことを選ぶはずだ。……王さん、君はビジネスマンとしては一流だったが、台湾人の『意地』というものを計算に入れ忘れていたようだな」
深夜の官舎に、遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてくる。謝は深く息を吐き、椅子にもたれかかった。それが、迫りくる巨大な嵐の前の、彼にとって最後の「個人的な戦い」の終わりだった。
中華人民共和国 北京市東城区 国家安全部
李建国部長は、深夜の報告に激昂し、重厚なデスクを拳で叩きつけた。
「……王が逮捕されただと? 台北の頑固者どもめ、こちらの『温情』が理解できんのか!」
この「新型戦争」の要諦は、軍事的包囲という巨大な圧力と台湾社会内部の融解を背景に、謝承宗経済部長、あるいは内政部長や立法院長のような、以前から「親中派」として知られる閣僚や総統側近を「平和の使者」に仕立て上げ、内側から郭総統に降伏を迫ることにあった。圧倒的な人民解放軍に対し、日米の増援が届かず孤立無援の状況で海上封鎖という兵糧攻めをされ、国内の混乱で抗戦どころではなくなり、そして自身の周りの重鎮たちからも勝ち目はないと諭されたら、いくら総統が頑固者でも、大陸との和平協定を結ぶ他ないだろう。
謝部長はMSSの内部文書上でも、本人の自覚なき協力者、「潜在的アセット」として登録され、崩落の起点となるはずだったのだ。
しかし流石の李建国も、台北に住む王が、自信の勤務評定と北京から送られる工作費の金額を上げるため、自らが獲得工作を担当する謝部長のことを、あたかも既に中国共産党の主張に完全に共鳴しているかのように誇張して報告したことは予想できなかった。李が、台北の重要閣僚を完璧にこちらの陣営に取り込んだ、と確信したからこそ、「新型戦争」の発動を周華平主席に強く進言したにも関わらず……。
工作員たちの網が次々と引き裂かれ、血を流さない調略のシナリオが瓦解していく。李は苦々しく吐き捨て、窓の外の闇を見つめた。
「もはや、言葉を尽くす段階は終わった。……こうなれば、『あれ』をやるしかない」




