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T-DAY:台湾戦争  作者: 中央国家安全委員会主席
第2章 封鎖

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203Y年2月2日 台北

203Y年2月2日

中華民国/台湾 台北市大安区 国立台湾大学

旧暦の正月、春節。 本来であれば、爆竹の乾いた破裂音が路地に響き渡り、軒先には鮮やかな紅色の「春聯」が躍り、帰省する人々の熱気と嬌声で街全体が沸き返るはずの台北。しかし、今年のこの街は、底冷えのする異様な静寂に深く沈み込んでいた。湿り気を帯びた北風が、祝祭の象徴であるはずの赤い提灯を、まるで力なくぶら下がる死体のように揺らしている。

国立台湾大学、留学生寮一階のラウンジ。 使い古され、至るところがへたったソファの沈み込みを腰に感じながら、桜木祐希は手の中で氷のように冷え切ったスマートフォンの画面を、あてもなく眺めていた。窓の外では、一月から停滞し続けている陰鬱な雨が、ガジュマルの厚い葉を叩き、椰子並木をどろりとした黒い影のように濡らしている。春節の休暇に入ったキャンパスは、学内の売店も学食も軒並みシャッターを下ろし、色を失ったコンクリートの巨大な墓標の群れと化していた。


「……だから、お母さん。もうチケットなんて、どこにもないんだよ」


祐希は、日本にいる母親からの数回目となる着信に応じ、低く、しかし拒絶の色を隠せない声で言った。スマートフォンのスピーカーからは、数千キロの海を越えて、焦燥と恐怖に駆られた母親の震える声が漏れ聞こえてくる。


『祐希、ニュースを見たでしょう? 台湾だけじゃなく、沖縄の方でも不審者が密入国してるって……。お願いだから、今すぐ桃園空港に行きなさい。お金ならいくらでも送るから。高城総理だってテレビで「邦人は一刻も早い帰国を」って、あんなに深刻な顔で言っているじゃない!』

「わかっているよ。でも、直行便は来週まで全部満席なんだ。エコノミーもビジネスも、ファーストクラスも。転売サイトじゃ一枚五十万円を超えている。今から空港に行ったって、入り口で警備員に追い返されて、ロビーで立ち往生するのが関の山だよ」


実際、台北桃園、台北松山、そして高雄の各国際空港は、二週間ほど前から阿鼻叫喚の混乱に見舞われていた。高まる社会不安と軍事的緊張を受け、在留外国人の出国数は数か月前から右肩上がりに増え続け、逆に新規入国者は途絶えていた。特に、中国国内で進行するあからさまな「戦争準備」の動態が連日報じられるようになってからは、それまで平和の継続を信じて疑わなかった外国人や台湾の富裕層までもがパニックに陥り、文字通り「島を脱出」するために空港へ殺到していた。航空券の価格は数倍から十倍という狂気的な高値に跳ね上がり、仕送りで生活する一学生の手に負える領域をとうに超えていた。

祐希が重い溜息とともに通話を終えると、隣のソファに深く腰掛けていたマークが、力なく乾いた笑い声を漏らした。彼の膝の上には、いつも肌身離さず持ち歩いていたジンバル付きの高性能カメラではなく、中身が空になり、結露したタピオカのプラスチックカップが置かれている。


「日本のママもパニックか。俺のところも同じだよ。カリフォルニアに今すぐ帰ってこいって、親父がうるさくてさ」

「マーク……君は、航空券を取ろうとしなかったのか?」

「無理だよ。それに、俺には残る理由がある」


マークはそう言って、視線を窓の外の雨へと向けた。


「彼女を置いてはいけないしな。それに、俺はジャーナリストの端くれだ。この島が、俺たちの知っている日常が融けていく様を、最後まで世界に配信し続ける義務があると思っている。今さら逃げ出したところで、俺は一生、自分を許せないだろう」


マークの恋人は、地元台北の大学生だった。彼女の家族はこの街に深く根を張っており、島を脱出する術も、そして住み慣れた土地を捨てる意志も持っていなかった。マークの静かな、しかし鋼のように固い決意を聞き、祐希は胸の奥をチリチリと焼くような羞恥心を感じた。自分の中に渦巻く「逃げ出したい」という本能的な欲求。それと同時に、友人であるマークの行く末や、淡い恋心を抱く雨婷の安否を見届けたいという、割り切れない想い。その狭間で決断を先延ばしにしてきた結果、台湾海峡を覆う戦雲の下、逃げ場のないこの場所に立ち往生しているのだ。

その時だった。 ラウンジの壁に設置された大型モニターの画面が、心臓を直接掴まれるような激しい緊急警報音とともに、唐突に暗転した。

それまで流れていた、春節を祝うはずの煌びやかな特別番組が掻き消え、無機質なスタジオに座る、血の気の失せたニュースキャスターの姿が映し出される。


『――臨時ニュースをお伝えします。中共軍東部戦区は先ほど、春節の休日期間中である本日より、台湾周辺の全海空域において、大規模な統合軍事演習を開始すると一方的に発表しました』


画面の下部に、血の滴るような太い赤文字のテロップが流れる。


【中共軍、台湾包囲演習「聯合帰航203Y-A」を開始】

「『聯合帰航』……共に母港へ帰る、か。台湾は中国という母なる祖国へ帰るべきだ、とでも言いたいのか!」


マークが忌々しげに吐き捨てた。 画面が切り替わり、台湾島を中心とした地図が表示される。そこには、島の北、南、東、そして海峡側の西を囲むように、合わせて六箇所の広大な海域がどす黒い赤色の円で塗り潰されていた。それは、基隆、高雄、花蓮といった台湾の主要な貿易港と国際航空路を、喉元を締める指先のように完全に覆い隠している。


『演習区域は台湾本島の全周に及び、一部の海域は領海ラインからわずか数海里の地点に設定されています。演習参加部隊は東部戦区の陸海空軍、ロケット軍のみならず、南部戦区や中部戦区の精鋭部隊まで動員されており、中国海軍の空母打撃群、多数の駆逐艦、潜水艦、海警局の大型巡視船が既に所定の配置についています。さらに、空軍の戦闘機や爆撃機による大規模な編隊が、海峡中間線を越えて領空へ肉薄しつつあります。中国側は、今回の演習を「台独分子と外部勢力の不当な挑発に対する当然の措置である」と主張しています』


キャスターが、乾いた喉を鳴らすように言葉を継ぐ。


『現時点において、中国側から船舶や航空機の通航を物理的に阻止する「海上封鎖」の公式な宣言はなされておりません。しかし、実弾射撃区域内への進入は極めて危険であり、事実上の通航不能状態に陥ることは確実です。これを受け、わが国防部は警戒レベルを最高段階へ引き上げ――』


祐希は、肺の中の空気をすべて吐き出したまま、呼吸を忘れてモニターを凝視した。 まだ「封鎖」という言葉は公に使われていない。しかし、地図上に示されたあの六つの赤い円は、島を締め上げる巨大な鎖そのものだった。台湾の生命線である海と空が、春節の偽りの静寂の裏側で、音を立てずに遮断されようとしていた。


「始まったんだな」


マークが立ち上がり、窓際のデスクに置いたノートPCの電源を叩くように入れた。その瞳には、恐怖を通り越した、獲物を追う獣のような鋭い光が宿っている。


「祐希。これが劇の本番だ。入念すぎるほどのリハーサルは、もう終わったんだよ」


寮の外では、細かな雨が相変わらず執拗に降り続いていた。 遠く、台北松山空港の方角から、空気を震わせる重く低いエンジンの咆哮が聞こえてきた。それは、最後の望みを懸けて離陸した民間機か、あるいは迎撃のために緊急発進した中華民国空軍の戦闘機か。それとも、接近する巨大な嵐の先触れか。

春節の静まり返った台北。 かつて人々が「日常」と呼んでいた輝きは、この瞬間、逃れようのない歴史の濁流の中へと完全に消失した。


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