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32.みえるもの、みえないもの

 今日も朝から、随分歩いた気がする。

 いつのまにか日差しも強くなり、渇いた道には砂埃が舞っていた。

 見上げる多紀の視線の先には、青く美しい空が、広がっている。雲ひとつなく、おそらく今日も雨は降らないだろう。

 多紀が住む森の中は、ここよりも涼しく、雨も多い。少し離れた場所にある村も、そこまで暑くはない。慣れない気温に、いつもと同じようにはいかなかった。

 額の汗をぬぐうと、ため息をついた。

 ここ数日は、魔女の店ではなく、こうやってあちこちを歩き回ることの方が多い。

 もう何カ所くらい、村や町を回っただろう。

 今まで一度も訪れたことのない街、話でしか聞いたことのない村は、めずらしくもあったが、遊びで来ているわけではないので、あまりよくは見ていない。

 それでも、知らない食べ物や植物、服装の些細な違いや、言葉の訛りに、狭いようでいて、案外この国は広かったのだと驚いてばかりいる。

「あと、もう少し」

 そう小さく呟いて、多紀は日差しを遮る木の影で、あたりをぐるりと見回した。

 多紀が住んでいた村とさほど規模が変わらない、小さな村だ。

 少しばかり活気がないように見えるのは、やはり働き手である若者の姿が少ないせいだろう。

 多紀や幼なじみたちがそうであったように、少しでもお金を稼ぐために、街へと出る若者は多い。兄弟姉妹が多ければなおさらだ。働けるようになれば、家を出て、皆独り立ちしていく。

 ここも同じなのだろう。

 それでも、時折見える走り回る子供たちに、笑みがこぼれる。

 あんな風に、元気な子供がいるうちは、まだ大丈夫だと。

 けれども、自分がここへ来た目的を考えると、顔が曇る。

 奇妙な鉱石が魔女の店に持ち込まれたのは、少し前。

 それが出回った経緯を聞き、鉱石について調べようということになったのは記憶に新しい。

 鉱石自体の分析は、魔女である雫にしかできないことだ。

 魔力のない多紀では、手伝えることは少ない。ならば、多紀自身でできることをしようと決意し、雫ともいろいろ話をした。その結果、実際に鉱石を手にした人のことを知りたいということになったのだ。

 もちろん、このことが商人たちの口から国の機関に行っている以上、すでにいろいろなことは調べられた後だろう。素人である多紀たちでは、聞き取りなど出来るはずがない。

 だが、直感を信じたいと、雫が言い出したのだ。

 この奇妙な鉱石を買った人たちに、共通点はないという。

 年齢も、住む場所も、性別さえもばらばらだった。

 だから、商人も、それを調べた人たちも、誰でもいいから売ったのではないかと言っているのである。

 それでも、目で見て感じることがあるかもしれないと、雫は言う。

 魔力を持たない自分に何が出来るかわからないけれど、出かける時間さえ惜しい雫に変わって、多紀がそれをすることになった。

 自分でも大丈夫かと思ったけれど、魔力がないからこそ、多紀に頼むのだと雫は言う。

 純粋に、彼らを見て何を感じたかを知りたいらしい。

 魔女でも魔法使いでもないただの人の感覚は、時々面白いことを教えてくれる、といつもとは違う妙に明るい笑顔で言われたのは、少し気持ち悪かったけれども。

 ただ、問題もあった。

 鉱石を売られた相手は、国のあちこちに散らばっている。馬車を使ったとしても、時間がかかりすぎてしまう。乗り合いの馬車が全ての町や村へと行っているわけでもない。移動時間だけで、かなりの日数をつぶしてしまうことになるのだ。

 お金もかかるだろう。

 もちろん、それなりの蓄えを多紀も雫も持っているが、実際にどのくらいの費用がかかるかは、回ってみなければわからないのだ。宿代だって必要だろう。

 そのあたりを検討した結果、結局、多紀は知り合いの魔法使いに頭を下げて、転移の石をいくらか売ってくれないかと頼んだ。魔法使いが作っている転移の石は、あれから何度か彼が改良を繰り返し、前よりも移動できる範囲が広がっていたのだ。使い捨てなのは相変わらずだったし、魔法使いが訪れたことのある場所限定という制約はあったが、幸いというべきか、仕事柄彼は国内の大抵の場所には行ったことがある。

 だが、頼んだことで、魔法使いは当然理由を知りたがり、事情を話すはめになった多紀は、意外なことを教えられた。

 実は、当の魔法使いも、鉱石を調べたらしい。その時感じた違和感の正体がつかめず、同じく鉱石を調べた魔法使い仲間と議論している最中だったと、目を輝かせたまま熱く語られてしまった。

 そのままの流れで、一人で国中を回るなんて危ないでしょうと言われ、話を通しておくから何か揉めた時には、軍の詰め所を尋ねろとまで言われてしまったのだ。

 話が大きくなりすぎだとは思ったが、確かに幾ら昔より治安がいいとはいえ、危険がまったくないというわけではない。

 転位の石を譲る代わりに、決してむちゃはしないことと同行者まで約束させられ、今に至るのである。

 あまり他人には干渉しないような人物に見えたのに、実はあの魔法使いがあれほど心配性だとは、多紀も思っていなかった。

 いずれ身内になるかもしれないから心配するのは当然、という言葉はどこまでが本心なのかはわからないが、多紀にもしものことがあれば、自分の養い親であり多紀にとっては恋人にあたる男が悲しむという言葉には反論できなかった。多紀だって逆の立場ならば、そう思うだろう。

 つい最近、恋人――その時は、まだそうではなかったが――を失うかもしれないと思い、辛い思いをしたのだから。

 そんなわけで無事に転位の石を譲ってもらったとはいえ、日に何度も使用するのは身体にも負担がかかる。

 改良を重ねて以前よりも使いやすくなったとはいえ、やはり移動時の気持ち悪さは完全に消えていない。

 せいぜい1日3回が限度だと使用した結果と同行者の体調も考えて、話を聞くために移動し、そこで一泊しまた移動ということを繰り返している。

 そこで、多紀はまたため息をついた。

 そのことが辛いわけではない。

 一番困っているのは、移動が大変だということではないのだ。

 ついてくることになってしまった男が問題なのである。

 最初は、友人の奈津を誘おうと思っていたのに。

 その方が気楽だと考えていたのに。

 どうして、この旅の同行者があの人――界になってしまったのだろう。周りに恋人同士だと思われているとはいえ、誰も何も突っ込まなかったのは、未婚の男女に対しての態度ではないと思う。

「しかも、嫌じゃないから、困るんだよね」

 ため息とともに、愚痴を吐いた。

 普通ならあり得ないだろうと思いながら、心底いやがっていない自分がいる。男女の関係において、他国よりも大らかなお国柄とはいえ、やはり少しばかりよくないのではないかと思ってしまう。

「どうした?」

 声をかけられ、多紀は顔をそちらに向けた。

 旅慣れた格好をした背の高い男が、不思議そうな顔でこちらを見ている。

「なんでもないです」

 袖から覗く手には、まだ傷が残っているが、だいぶん目立たなくなってきている。ぱっと見ただけでは、男が大きな怪我をして死にかかったのだとはわからないだろう。

 天気が悪い日には、傷が痛むらしいことも、時々無意識に、まだ動きが悪い左手をかばうようにしていることも、気がついている。

「……まだ、気にしているのか」

 男が旅について行くことを、最後まで反対したのは、多紀だった。

 それを、身体を動かす訓練にもなるからと強引に納得させたのは男だ。もちろん、何故か協力的な養い子や魔女の後押しもあったのは事実だが。

「旅についてきたことは、もういいです。そうじゃなくて」

 多紀は界が手に持っている水筒と、濡れた布を見つめた。

「私が行ったのに」

 そう言うと、界は笑った。

「そんな顔で言われても、説得力はない」

 確かにこの熱さが堪えている。転移の石を使っているとはいえ、その到達場所は、人がいないところが多い。今回も村から離れた森の近くへと出たのだが、思っていたよりも暑かった。

しかも、ここに住んでいたはずの鉱石を買ったという親子は、すでに村にはいないという。行き先に関しても、誰も知らないとのことだったのだ。

 それまで順調にいっていただけに、がっくりした。

そのうえ、この暑さの中無理をしたせいで、少し目が回ってしまったのだ。でも、病み上がりの男の方が彼女よりも元気だというのはどうなのだろう。元々の鍛え方が違うのだろうか。それでも、男は前よりは痩せてしまっているし、仕事復帰ももう少し先な状態だ。

「少しくらい休んだほうがいい」

 言いながら男は水筒と濡れた布を差し出した。

「でも、あと一人です。この村にいないのならば、すぐに移動した方がいいのでは?」

「だからこそ、だ」

 そう言いながら、男は多紀の手を引き、木の陰に座らせた。そのまま隣に腰掛け、多紀が水を飲み一息つくのを確かめてから、口を開く。

「少し休憩したら、移動する」

「どこへ行くんですか?」

「宿だ」

 今日はもう休むということなのだろうか。確かにこの状態で転移の石を使うのは無理だろう。

 また気分が悪くなって男に迷惑をかけるのは嫌だった。

「宿の主人は、あの石を買ったという親子と親しかったらしい」

 よくよく話を聞くと、界が水を手に入れるために手っ取り早く訪ねた場所は宿屋で、偶然に多紀たちの尋ね人のことを耳にしたらしい。どうせ、今日は宿に泊まるつもりだったので、そこに部屋を取り、主人の時間が空いた時に話を聞かせてもらうことになったと言う。

「話は直接聞いた方がいいだろう」

 男の言葉に、多紀は頷いた。

 そうしながら、これまでに会った人たちのことを、ぼんやりと考える。

 全員に会ったわけではない。

 商人たちが把握している範囲だったし、実際にまだ知らない人間もいるかもしれない。

 それでも、それなりの人数だ。

 最初は、羽振りのいい貿易商だった。

 幾人もの人間を雇い、あちこちの国と取引をしていた。確か大きな船を持っていて、余所の大陸とも交易があるという。鉱石を買ったのは彼ではなく、彼の娘だったが、その鉱石の異変に気がついたのは、貿易商と面識のあった魔法使いだったという。

 それから、流れ者の傭兵。

 彼は、大きな仕事を終えた後で、宿屋で酔っ払っていた。そこで出会った男から、勢いで鉱石を買ったらしい。相手のことはよく覚えていないし、いくら払ったかも記憶が定かではないが、朝起きたら自分の側にその鉱石があったと言っていた。

 他には、町外れに住む老夫婦。最近、近くの森で魔獣が出ると聞いたから、ちょうどいいと購入したらしい。

 遠くへ旅立つ友人のために、餞別として購入した青年。

 道中のお守り代わりにと買い求めた、手紙を運ぶ仕事をしている男。

 ただ安いからと、成り行きで買った女性。

 それ以外の何人かも、誰にも共通点はなく、年齢も性別もばらばらだ。

 いい人もいたし、胡散臭い人もいた。関係ないことまで話してくれる人がいれば、騙されたことを悔やんだり恥じたりして、口が重い人もいたのだ。

 ただ、わかったのは。

「みんな、普通の人たちでしたよね」

 何か特徴があるような者は誰もいなかった。職業柄、やや怪しげな人はいたが、飛び抜けておかしな人間ではなかったように思う。

 あと一人に会ったところで、何かがわかるのだろうか。

 不安と、失望と、時間を無駄にしてしまったようなむなしさを感じてしまって、多紀はため息をついた。

「やはり、誰でもよかったということなんでしょうか」

 その問いに、答えは返ってこなかった。

 界自身にも、わからないということなのかもしれない。



「村の人間ではなく、よそから来た方だったんですか?」

 宿の主人は、多紀の言葉に、申し訳なさそうに縮こまる。

 多紀と界がやってきたのは、村にひとつだけある小さな宿屋だった。この辺りは、街道へ抜ける近道があるため、それなりに客はあるらしく、宿の中はこざっぱりとしていて心地よかった。

 出てくる料理も悪くはない。

 今はちょうど暇な時間なのか、宿屋内にある食堂は主人と多紀たち以外誰もいない。時折、厨房のあたりから物音が聞こえて来るが、こちらにやってくる気配はなかった。

「そうなんですよ、お客さん。つい最近のことなんだけど、村から出ていっちまってねえ」

 去年のことだが、このあたり一体で大水が出て、橋が流されてしまったらしい。それを修理するために、村にはたくさんの人たちが訪れていた。多紀たちの尋ね人も、そのうちの一人だったらしい。

「街道へと抜ける道だったんですが、結構大きく崩れちまってね。直すのには人手が足りず、いろんなところから雇われた人たちがきていたんです」

 大がかりの工事だったため、ほとんどの人間が長期滞在をしていた。技術者や責任者などのある程度上の立場のものは、宿屋や村の空き家に。そうでないものや単身者は現場近くに簡単な小屋を立て生活していたのだという。

 件の者は技術者で、小さな娘を連れていたため、この宿屋に寝泊まりしていたらしい。

「母親は随分昔に亡くなったっていうし、日中父親が出かけちまうと一人きりでしょう? だから、自然とうちの宿のものが面倒みるようになったんです」

 街道への抜け道が閉ざされ、宿には普通の旅人はいない。工事に関わるものたちは、昼はこちらには戻ってはこないから、休みの日以外は、特に昼食の用意も必要ない。各部屋の片付けや掃除を済ませてしまうと、夜の食堂の仕込みまで時間が空く。そうでなくとも、幼い少女が一人で留守番しているのは不憫で、と主人は笑った。

「うちの子供たちは大きくなったが、まだどの子も結婚していませんからね。孫でも出来たみたいで、楽しかったのは確かです」

 その時のことを思い出したのか、男の表情が緩んだ。

「まだ小さいのに、大人びた子でね。しっかりしすぎているのが、気掛かりだった」

 多かれ少なかれ、こんな村で生まれた子供は親ばなれも早い。ある程度大きくなれば外に働きに出るし、親元にいたとしても、大人たちに交じって畑を耕したり、手伝いをしたりするのが普通だ。そういう子供を多く見ている人間が言うのだから、よほど大人びた子だったのだろう。

「子供らしい遊びも知らないし、まだ小さいのに人に気を遣いすぎるし……。うちの子たちだって、同じくらいの年の頃はもう店の手伝いをしていたけれど、それでも時間があれば兄弟や近所の子と走りまわっていましたからね」

 多紀も子供の頃はそうだった。

 暇があれば、泥だらけになって遊びまわったし、年が近い者同士、喧嘩もしたけれど、常に誰かが一緒だったはずだ。

「このあたりの子供とも合わないみたいで、いつも一人きりでいたんですよ。そういうところもあって、父親の方もひどく娘のことを気にしていてね。ああ、そうそう。あんたらが言っている鉱石を買ったのも、この辺りに変な生き物が出たなんて、噂がたったからだったはずです」

「変な生き物?」

「私は見たことはないんですがね。工事をしているあたりで、何人かが見たこともない化け物がうろついているのを目撃したなんて話がありまして」

 誰かが襲われたというわけではなかった。

 瘴気にあてられたものもいたが、彼らが見たことが無かったと言っただけで、実際の魔獣の姿はわかっていない。気が動転してなんでもない魔獣を恐ろしいものだと見間違えたのかもしれないのだ。

 だが、噂は一人歩きし、漂う不安感に、現場の雰囲気もあまりよくないものとなった。

結局、噂を払拭するためにも、念のために安全を確かめるという理由からも、責任者が、上に頼んで魔獣の探索と討伐してもらおうとしたところ、見つけることはできなかったのだという。

最近、別のところでも魔獣の被害が広がっていたから、討伐隊も相当広く探索したが、いたのは臆病な魔物ばかりだったらしい。

「結局、ただの見間違いだろうってことで、討伐隊は引き上げたんですが……」

 それ以後、目撃情報自体は減ったが、妙な生き物がどこかにまだ隠れているのではという噂はなくならなかった。

「村の方まではそういう話は出てこなかったんですが、たまたま来ていた行商人がお守り代わりになるって見せた鉱石を、父親が娘のためにと買ったわけです。まさか偽物だったとはねえ」

 主人もそれを見せてもらったらしいが、以前別の商人が持っていたものと、同じように見えたという。

 たまたま、偽物の鉱石について調査していた国の役人が訪れたせいで、発覚したのだが、それを知らずに持ち続けていたらと思うとぞっとすると、主人は言った。

「瘴気をまき散らす、得体の知れない魔獣……」

 そう聞いて、思い出すものがある。

 まさかと思う。

 でも。

「……名無し」

 呟いた言葉に、自分自身で呆然とする。

 世界が不安定になれば現れ、人々を惑わすと伝えられる生き物。姿形ははっきりせず、それに会ったものは、瘴気に当てられ苦しむという。

 そういえば。

 最初に出会った男は何と言っていたか。

『商売柄、あちこちに行くせいか、危ない目にも遭っています。この間も、隣国へ続く街道で妙な魔物にあったと、うちの商隊がいいましてね。そこには娘の許嫁もいたものですから、大騒ぎになりまして』

 世間話の延長のような口調で、口にしたのは、そんなことだった。

 あるいはあの傭兵はなんと言っていたか。

『あの後、魔獣の討伐隊に加わることが多い。なんでも、変な獣が出るという話でな』

 彼は、金払いがいい仕事を優先する人だった。

 少々の無茶な仕事でも、それなりの金が動けば、簡単に頷く。よく無茶な奴だと言われるんだと、照れくさそうに笑っていたのも、多紀は覚えていた。

 それ以外の者も、似たようなことを言っていたのではないか。

 たとえば、よく旅をするのだとか、家族が遠くへ出かけるとか、村や町の外で仕事をすることが多いとか。

「普通の尋ね方だけだと駄目かと思って、世間話みたいなことを聞いたりしたのが役に立ったということなんでしょうか」

 愚痴や不満、自慢話がほとんどだった。

 鉱石のことはあまり話さず、のろけ話ばかり聞かせてくれた男もいた。反対に、騙されたことを憤りながら、自分がどれだけ危険な仕事をしているか語ったものもいた。

 だが、それらを思い返して見ると、皆が共通して話すことがひとつだけだった気がする。

『人を襲うよくわからない魔獣』のことだ。

 実際にそれを見たわけではないだろうが、少なくとも彼らがいた場所で、噂があったのは間違いない。

「今は、その魔獣の噂ってあるんでしょうか?」

 多紀が尋ねると、主人は否定する。最近は――というよりは、この村のあたりでは、元々そんな話は出ていない。ただ、騒いでいたのは、工事に関わっていた人間だけである。

 だから、村人の間では、やっぱりあれは見間違いだったんだということになっているらしい。

「あの親子が村を出て、どこに行ったかは知りませんが、仕事柄、行くのは安全な場所ばかりじゃない。怪我なく無事にやっていてくれればいいとは思いますがね」

 しみじみと呟いた主人だが、厨房からの呼びかけに慌てて立ち上がる。

「ああ、いけない。お客さん、食事はゆっくりどうぞ。追加で何か欲しいものがあったら、声をかけてください」

「いえ、こちらこそ、長い間引き留めてしまって申し訳ありません」

 頭を下げると、人のいい笑みを浮かべたまま、主人は厨房の奥へと消えていった。



「名無し、と言ったな」

 主人が消えた厨房の方向を見ていた多紀は、その言葉に視線を戻す。

「おとぎ話の生き物か」

 この国では広く知られている話だ。界も当然知っているのだろう。

「知り合いの冒険者も、そんな噂がある魔獣を探す依頼を受けていました。うまくいかなくて、依頼は破棄したって言っていましたけれど」

「そうだな。あの噂には、皆振り回されている」

 手が回らず、冒険者にも頼んでいるが、軍の方でもいろいろ調べているらしい。まだ大きな被害は出ていないが、確かに何かがあってからでは遅いのだ。

 それが、万が一にも魔王復活とやらに関わるのならば。

 不安そうに男を見上げた多紀を、界がそっと引き寄せる。

「妙な魔獣のことは、前から報告が上がっていたんだ」

 囁くような声は静かだったが、わずかに界の手に力がこもる。

「俺は、その魔獣の探索と討伐に行き失敗して怪我をした」

 目を見開く多紀に、界は苦笑いを浮かべる。

「現れたのは、噂の魔獣ではなかったが、あれは強かったな」

 あまり見かけない魔獣とはいえ、同種のものを倒した経験もあった。彼の認識の中では、それほど強い魔獣ではないはずだった。油断していたわけではないが、相手が何もかも規格外で、なすすべもなかったのだ。

「それに、あの瘴気は尋常ではなかった」

 あれが、名無しだと言われても納得したかもしれない。

 その言葉に、多紀は、思わず界の腕をつかんだ。

 いったい、何が起ころうとしているのだろう。

 目に見えない、どこか得体の知れない不安だけが、多紀の心の中にある。

 これは、もうすでに多紀たちの手に負えるものではないのかもしれない。

 そして、ふと思う。

「このことは、軍にも報告するんでしょうか」

 多紀が尋ねると、一瞬界は瞠目した。その様子に、やはりと思う。

 魔法使いが軍の施設を頼れといったあたりから、おかしいなとは思っていたのだ。妙に協力的なのは、なんらかの情報が欲しかったからなのではないかと。

「本当は、ただ、私が心配でついてきたわけじゃないんでしょう?」

「違う」

 否定した男の言葉は、弱々しいものだった。

「わかっています。まだ身体だって完全じゃないのに、ずっと守ってくれていたから」

 それは疑ってなどいない。酔っ払いに絡まれた時も、森の中で小さな魔獣に襲われた時も、彼はずっと自分を庇い気遣ってくれた。

 さきほどだって、疲れた様子の多紀にすぐに気がついてくれた。

 だから、魔獣のことがなかったとしても、彼はついてきてくれただろうとは思う。ただ、彼はあまり嘘をつくのは上手ではない。

「何か、軍の方から言われたんですか?」

「特には何も。だが、もし有益な情報が得られればと思ったのは事実だ。俺は」

 彼はひどく苦しそうな顔をした。

「……いや、いいわけはしない。ただ、何も出来ないことが苦しかった」

 真面目で融通が利かないところが、界にはある。仕事を休んでいたときも、なかなか思うようにならない身体に、苛立っていたことも知っていた。

「気にしていないっていったら、嘘になりそうですけれど。でも、軍に話して貰う方がいいかもしれません。きっと、もう私と雫さんだけでは、どうにもならない」

 もし、得体の知れない魔獣があの鉱石と関係あるのならば、だけれども。

「ただの、偶然だといいんですけれど」

 確信など何もないのだ。

 あちこちに魔獣は出ているし、被害はすこしずつ広がっている。

 この国だけで最近噂になっている名無しと、国内だけに出回っていた鉱石。

 桁外れに強い瘴気をまき散らす魔獣たち。

 関わりがあれば、誰かがすでに気づいているかもしれない。もう、それぞれが関係ないとわかっているかもしれない。

 だから。

 どうか、全てが杞憂でありますように。

 界の手を握る指先に力を込めると、多紀はそう思った。

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