21.ななし
扉につけた鈴が鳴り、人が入ってきた気配がした。
いつものように多紀は顔を上げて――悲鳴を上げた。
なぜならば、そこに立っていたのが、血まみれの奈津だったからだ。
「びっくりさせないでよ。息が止まるかと思った」
奈津が脱いだ、汚れてぼろぼろになった服と、同じようにあちこちが綻んだ革の鎧を受け取りながら、多紀はため息をついた。
よく見れば、鎧の傷は、獣の爪で切り裂かれてできたもののようだ。
こびりついた血の臭いも、腐った果物のようなもので、獣の返り血なのかもしれない。服を脱いだ奈津のどこにも怪我の後はなかったし、本人の顔色もいい。
「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど、魔物の瘴気を思い切りあびちゃったからさ。どこかでなんとかしてもらうのもありかと思ったんだけど、面倒だったから」
どうせ歩いて1日程度で、この森につく距離だったし、と笑い声を上げる。
「丸1日って、まさか本当にそんな格好で? 宿にも泊まらず?」
「ちょっと寒かったけどね。野宿したの」
「奈津!」
多紀が、大きな声を出したものだから、奈津は身体を拭くのをやめ、気まずそうな顔を浮かべた。
「前から言っているけれど、あなたもちゃんとした冒険者なら、単独行動は駄目だってことくらいわかるよね? おまけに、そんな匂いを付けたまま森の中なんて歩いたら、襲ってくださいって言っているのと同じだよ。大体、着替えはどうしたの? まさか持っていないとか言わないよね」
「ごめん、持ってない」
「奈津……」
「だって、持ってた荷物は魔獣にぐしゃぐしゃにされたんだもの」
叱られた子供のように身をすくませた奈津は、助けを求めるように雫を見た。
けれども、さきほどからおかしそうに口元を歪めてこちらを見ている雫の口からは、何の言葉も出てこない。どうやら傍観するつもりのようだ。
「予備の服くらい、宿においてなかったの?」
「置いていたけど、ほら、こんな状態だし」
自分が着ていた服を指さし、大げさにため息をついてみせた。
「ごく普通の宿だったから、やっぱり気が引けちゃって」
「うちも、ごく普通の魔女の店なんだけど」
「ええ、普通?」
それほど大げさに驚くことだろうか。町にある魔女の店と、それほどやっていることは変わらないはずである。建物の外観も内装も、確かに魔女の店らしくないかもしれないが、怪しげな雰囲気はないと、多紀も雫も思っているのだ。
「普通ですよね、雫さん」
「ああ、普通だよ」
二人で頷きあっていると、奈津はぼやき始めた。
「どう考えても、普通じゃないと思うけど。だって、来る者拒まず、っていうので客の選り好みをしないって辺りからして、魔女らしくないし」
確かに、来る客を拒んだことはない。
それなりのお金を払ってくれる相手ならば、どんな客でも多紀は対応できる自信はある。たとえ人間でなかったとしても。
雫に関しては、造ったものが売れるのならば、割とどうでもいいと思っているふしもあった。
それに、奈津は誤解している。
客を選んでいるのではないのだ。あまりにも辺境すぎて、訪れる客が少なすぎるだけなのだ。だから、自然と魔物が客として訪れることが増えてくる。彼らは、どちらかといえば、人間がたくさんいるところよりも、こんな場所の方がいいらしい。
「客が来ない店だから、選べるわけないって知ってるくせに」
多紀が言うと、奈津は大きく首を振った。
「でも、知ってる人は知ってる通の店ってことで、人気はあるよ。まあ、褒めているのは、変わった人が多いけど」
「なるほどね。変わり者の店には、変わり者しかこないってことだ」
にやりと意地悪げな笑みを浮かべた雫の言葉に、奈津は妙な声を上げて、がっくりと肩を落とした。
自分も変わり者の一人だという自覚はあったらしい。
「で、どうしてこんなことに?」
奈津に着替えを貸し、瘴気を浴びた服や鎧をきちんと処置したあと、改めて多紀は尋ねた。
こう見えて、奈津は冒険者としては優秀である。魔獣程度ならば、よほどのことが無ければ負けることはない。単独行動をしていて、無謀な行動ととることはあるが、その場合は、今のように体は無傷ということはあり得なかった。
「多紀は、名無しの獣、って聞いたことない?」
名無し、と口の中で繰り返してから、多紀は顔をしかめた。
「それって、言い伝えの?」
「そう。見る人によって姿が違って見えるという、伝説の獣」
子供の頃、祖母や母親から聞かされた恐ろしい獣―――それが『名無し』と呼ばれる生き物だ。
闇色をしたその生き物は、世の中が不安定になるとどこからか現れ人を惑わすという。見る人によって様々な形態になり、その獣に会えば、瘴気に当てられて三日三晩苦しみ抜いて死んでしまう。
いたずらばかりする悪い子のところには、名無しがやって来て食べられると言われていて、子供たちはみんな怖がっていた。親に『名無し』が来ると言われれば、どんないたずらっ子もおとなしくなったものだ。
多紀もさんざん言われて、寝台の中で、名無しが来ませんようにと震えていた覚えがある。
だが、奈津がいきなり名無しの名前を出したのは何故なのだろう。
彼女も、幼い頃に聞かされて当然知っている話なのだろうが、それと奈津が魔獣の瘴気を浴びた理由がつながらない。
「実はね、それを捕まえてくれって依頼があって、出かけたんだ」
「そんな不吉なものを? というより、本当にいるの?」
子供の頃は恐ろしかったけれど、大人になった今では、あれが単なる言い伝えでしかないと多紀も知っている。伝説の獣を見たなどといえば、酔っ払っているか寝ぼけていたのだろうと笑われてしまうだろう。
けれども、目の前の奈津は大真面目だった。冗談を言っているわけではないらしい。
「実は、ちょっと前から、名無しっぽい生き物の目撃情報があるんだ」
奈津が言うところによると、国境で魔獣が現れることが多くなってから、時々、大陸のあちこちで妙な獣を見たという話が聞かれるようになったのだという。
目撃したものは、口を揃えて今まで見たことのない獣だと言う。
だが、最初は誰もが単なる見間違いだろうと考えていた。魔獣に襲われた恐怖で、勘違いしたのだろうと。
違うのではないかと言う話になってきたのは、それと同じ場所にいて、同じものを見たはずの複数の人が、まったく違う姿を告げたからだ。
ある者は鱗があったといい、ある者は体毛に覆われていたと言った。
大きさも、一人一人違っていたし、目の色も耳の形状も、全てが違っていたのだ。
それぞれの人間によって見え方が違う魔獣――あれは名無しなのではないか。そういう噂が広がり始めたのは、当然といえば当然だった。
「あんまり目撃情報が多いし、実際瘴気に当てられて倒れる人も出たから、冒険者に、それを捕獲してほしいって依頼が来たってわけ。獣を本当に捕まえた場合の報奨金も結構な額だったしね」
「でも、伝説通りだと、瘴気に当てられると死んでしまうって」
「今のところ、死人は出てないから、本当は名無しとは違うのかもしれない。でも、ちょっと嫌な感じだしね。上の人たちも、ほったらかしに出来なくなったんだと思うよ。かといって、わざわざ軍を動かすほどのことでもなさそうだし」
怪我人が出たというのならば、仕方ないのかもしれないが、確かにいるかいないかわからない生き物に軍は出せないだろう。かといって、動かずさらに被害が出れば、不満がたまっていく。
「でも、名無しは見つからなくてね。変わりに、最近では滅多に見ないような強い魔獣と遭遇しちゃって。魔獣は何もしなければ攻撃してこないことが多いから、やり過ごそうかと思ったんだけど、駄目でね。さすがにあれは、苦戦した。こっちに怪我はなかったんだけれど、とどめを刺した時、瘴気を浴びちゃって。この状態だよ」
「……魔獣が、人を襲う、か。嫌な感じだね」
こちらから何か仕掛けなければ、襲うことのない魔獣だから、人は住み分けをする。そうやって、何年もうまくいっていたのに、最近では何もしていないのに、魔獣に襲われたという話は多い。単なる偶然なのか、それとも何かあるのか。
気にはなるが、それを調べる方法は、彼女たちにはなかった。
ただの偶然であればいいと、願うだけである。
「ねえ、奈津。名無しを見つけたら、本当に捕まえるの?」
依頼を受けた以上、それを達成しなければ、報酬どころか違約金を取られる場合がある。ましてやこちらからの破棄ならば、信用も失いかねない。
だからといって、自分の力量以上の依頼を受ければ、命を落とす可能性もあるのだ。今回に限っては、多紀も胸騒ぎがして仕方ない。
それが本当に名無しでなかったとしても、関わり合いにならない方がいいような気がする。
「そうだね。報酬につられたってこともあるけれど、違約金払っても、やめた方がいいのかもしれない」
奈津が、珍しく深刻な顔をしている。
「もし本当に名無しを捕まえてしまったら、よくない気がするんだ」
伝説は、伝説の方がいい。
下手に首を突っ込んで、とんでもないことになるくらいなら、知らないふりをした方がいい場合もある。
「まだまだ冒険者でいたいものね。依頼破棄なんて、情けないけれど」
割り切ったようにそう言うと、奈津は曖昧に笑ってみせた。
その複雑な表情を見て、多紀も雫も頷く。
本当に何もない、ただの見間違いであればいいのに――そう願うことしか、彼女らには出来ないのだから。