一食目 二度目の人生も、腹が減る
死ぬなら、せめて夕飯のあとがよかった。
今でも、たまにそう思う。
焼けた肉を包む俺の横で、もう一人の俺が皿を受け取る。借りた小さな卓へ注文が重なり、同じ声の返事が二つ、厨房へ響く。
袖の奥を、琥珀色の光が走る。
「先に食べるなよ」
そう言った俺へ、隣から、そっちもな、と返ってくる。
食べる手も、働く手も足りる。最後には、俺たちも同じ卓へ座る。
そんな日が来ることを、その朝の俺は知らなかった。
*
そんなことを考えたのは、顔の横を蟻が歩いていたからだ。
払いのけた指が落ち葉を掻く。湿った土。高い木。頭上を横切る、尾の長すぎる鳥。
駅の床では、ない。
「……生きてる?」
起き上がって、今度は自分の腹を見た。
腿がつかえない。細い腕を持ち上げても、見慣れた掌の厚みがない。服の胸元へ手を入れ、擦り傷すらないことを確かめる。
俺は梶原蓮。二十九歳。物流会社で伝票を扱い、帰り道にうまい店を探すのが楽しみな男だった。
昨日は、駅の通路で天井が鳴った。
転んだ人の背を押した。あの人は崩れた場所から抜けたはずだ。その後、俺の足もとまで落ちた。
そこで記憶が途切れている。
目の前の細い手だけが、やけにはっきりしていた。
茂みが鳴った。
犬のような鼻先が出る。肩の高さは立った俺の腰ほど。背には赤黒い棘が並び、口の端から唾液が糸を引いている。
動物園なら柵が欲しい。今は、その柵がない。
「お互い、朝飯前なら穏便に……」
牙が剥き出された。
交渉は、通じなさそうだった。
立ち上がり、幹を背にする。獣を見たまま、足もとと右手の低い場所を確かめた。
細い沢。水を跨ぐ倒木。その下には、人なら腹這いで通れる隙間がある。
あの肩では、つかえる。
走るなら、そこだ。
獣が腹を沈めた。
俺は握った土を顔へ投げ、倒木へ身を投げた。
後ろで牙が鳴る。
腹を擦って隙間へ入り、引っかかった服を引き裂いた。指を石へ掛けて反対側へ抜ける。いつもの重い体のつもりで踏ん張ると、思ったより遠くまで滑った。
沢の向こうで、獣が幹へ前脚を掛けた。
追ってくる。時間は、少ししか稼げていない。
「右だ! 顔を伏せろ!」
木々の間に人影があった。弓を引いている。
俺は立つのをやめ、横へ転がった。
頭のあった場所を矢が抜け、獣の足もとへ突き立つ。
男がもう一本を番えた。獣は唸ったが、今度は沢を越えてこなかった。
葉の揺れが遠ざかるまで、俺たちは待った。
「良くあの隙間を瞬時に選べたな」
弓を下ろした男に、俺は頷いた。短い茶髪には白いものが混じり、日に焼けた顔には目尻の皺がある。鼻筋の通った、精悍な人だった。
「通れる幅が、違ったので」
「いい判断だ。平らな所で追いかけっこをしてたら、間に合わんかった」
そこでようやく、膝が震えた。
怖かった、と気づくのが遅い。
「噛まれたか」
「服だけです。助かりました」
深く頭を下げた途端、腹が鳴った。
今か。
「そっちも無事らしいな。俺はハルド。リゼ村の猟師だ」
「レンです。……村って、近いですか」
「飯の匂いがするくらいにはな」
俺は弓を背負った彼について、歩き出した。
*
木柵の内側では、鶏が土をつついていた。
誰かが玉葱に似た物を炒めている。胃が、そちらへ引かれる。
その手前で、桶を洗っていた女の人が掌を返した。
水が浮いた。
桶の内側をぐるりと回り、汚れごと道脇へ落ちる。
俺は、空になった桶を見た。
「……今のは」
「水の術だ。お前の故郷では使わんのか」
「少なくとも、皿洗いでは」
知らない森。若い手。宙を動く水。
遠くの病院へ運ばれた、では済まなさそうだ。
俺は一度死んで、違う世界で生まれ直したのかもしれない。
「ハルド。戸口を塞がないでおくれ」
家から出てきた女の人が、俺の濡れた靴を見た。栗色の髪を低く結い、柔らかな目元に笑い皺が寄る。落ち着いた、綺麗な人だった。
「あら。先に着替えだね。私はエナ。歩けるなら、こっちへ」
乾いた服を借り、泥のついた体を拭いた。手拭いを畳んで返すと、エナは鍋の前へ戻った。
「話はあとで聞こうか。今、何なら出来る?」
「水汲みと皿洗い。あと、物を順番に並べるのは得意です」
「じゃあ、水瓶を半分。それが済んだら座りな」
何をすればいいか決まると、少し落ち着いた。
井戸から二度運び、濡らした床を拭く。桶は口を下にして並べた。次に使う人が取りやすいよう、柄を揃える。
家の中へ戻ると、ハルドが破れた上着を干していた。あれを引っかけたままなら、沢で捕まっていたかもしれない。
布の裂け目を見ていると、彼は何も言わず、乾いた靴下を寄越した。
俺も何度も説明するのをやめ、もう一度だけ、ありがとうございますと言った。
今度は、ちゃんと声になった。
「そこまでやってくれたの。ありがと」
その一言で、ようやく、ここにいてもいい気がした。
「はい。熱いうちにね」
椅子を引くと、深い器が目の前へ置かれた。
白い豆と干肉の煮込みだった。
表面に浮いた脂が、湯気の向こうできらりと光る。匙を入れると、とろりと崩れた豆の下から、炒った麦が現れた。
ひと口、食べた。
燻した肉の香りが、鼻へ抜ける。
豆は舌で押すだけで潰れた。麦の芯には小さな歯応えがあって、噛むと香ばしい。薄い葉物の苦みが、甘い脂のあとをすっと拭っていった。
もう一口。今度はパンを浸す。
ふやけた真ん中と、まだ硬い焼き目を一緒に噛んだところで、ようやく息を吐けた。
「どうしたの。熱かった?」
「いえ。……うまくて」
エナは俺の器を見て、鍋へ杓子を入れた。
「それなら、もう少し食べな」
二杯目を受け取ってから、遠慮するのが遅かったと気づいた。
前の俺なら、先に周りの皿を見た。欲しいだけ頼むと、また食べるのかと思われそうで、一人になってから買い足した日もあった。
今日も言うつもりだった。少しでいいです、と。
だが、杓子はもう戻っている。
俺は礼を言って、食べた。
三杯目が空になったとき、ふと腹へ手を当てた。
苦しくない。
あれだけ食べたのに、帯がきつくなる感じさえしなかった。若い体は、こんなに違うものだっただろうか。
「おかわりは?」
エナに訊かれ、俺は鍋より先に二人の器を見た。
「お二人の分が、なくなりませんか」
「明日の分も取ってある。今日は豆をたくさん煮たから」
「なら……いただきたいです」
四杯目。五杯目。
さすがにハルドが俺の器を覗いた。
「その底、抜けてないよな」
「抜けてたら、床を拭き直します」
口へ運んだ豆は、最後まで同じようにうまかった。
*
洗った器を受け取ったエナが、磨いた盆を差し出した。
「鼻の横。まだ泥が残ってる」
短い黒髪の若い男が、盆の中から俺を見た。黒い目に、すっと通った鼻筋。泥を拭うと、我ながら整った顔が現れた。
知らない顔なのに、目を細める癖だけは昔のままだった。
太っていた頃の俺も、こんなふうに、うまい飯のあとには目が緩んでいた気がする。
拭いてもらう前に、自分で布を取った。
今の手は細い。けれど、今日の俺を逃がしてくれた手だ。
寝床は、納屋の乾いた一角を使っていいことになった。家の仕事を手伝い、当面の食費を働いて返す。出来ることは少ないが、明日の用事は決まった。
「今日は新年だからね。明日は残りの豆と、焼いたパンだよ」
「十分、楽しみです」
「寝坊したら先に食べる」
それは困る。俺は真剣に頷いた。
戸を閉める前、庭で薪を割るハルドを見た。
振り上げた腕に、細い光が寄る。
その脇で、小さな数字が瞬いた。
目を凝らす前に、光は消えていた。
明日、聞いてみよう。
知らないことは山ほどある。食べてみたい物も、きっと同じくらいある。
今夜は、パンの焼ける匂いを想像しながら眠ることにした。




