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朝、教室に入ると、美琴が窓際でノートを広げていた。
彼女は眉間に軽くしわを寄せ、真剣な表情で何かを書き込んでいる。
その横顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「おはよう、美琴」
声をかけると、彼女はぱっと顔を上げ、柔らかく笑った。
「おはよう、翔。ねえ、昨日の続きなんだけど――」
昨日図書室で調べたことを、どう活かすか相談したいらしい。
僕も机に荷物を置き、隣の席に腰を下ろす。
美琴の手元にあるノートには、演劇に関するメモやアイデアがびっしりと書かれていた。
「本当に好きなんだね、演劇」
つい口からこぼれた。
美琴は少しだけ照れたように笑い、でもすぐに真剣な顔に戻った。
「うん。翔と一緒にやってみて、やっぱり楽しいって思ったから」
その言葉に、なぜか胸がじわっと熱を帯びた。
授業が始まると、僕は黒板の文字をノートに写しながらも、美琴の言葉を思い返していた。
(僕も何かを夢中になってやってみたい…か)
今までそんなふうに考えたことはなかったのに、今はそれが自然に湧き上がっていた。
昼休み、教室の端で美琴と話し込む。
彼女はスマホ(演劇用の動画を見せるために持ってきた)を取り出し、動画を再生して見せてくれた。
「こういう表現、すごくない?」
画面の中では舞台役者が感情を全身で表現していた。
僕は思わず見入ってしまった。
「すごい…こんなふうにできたら気持ちいいだろうな」
自然に口から出た感想に、美琴は少し嬉しそうに笑った。
放課後、体育館裏の空きスペースで、美琴が軽い発声練習をしていた。
僕はその様子を黙って見ていたが、やがて美琴に気づかれた。
「翔、見てないで一緒にやろうよ」
「え、僕も?」
思わず聞き返すと、美琴は真剣な顔で頷いた。
「昨日も言ったけど、翔と一緒にやりたいの。…だめ?」
その瞳を見ていると、断る理由なんてひとつもなかった。
「…わかった、やってみる」
そう言うと、美琴は嬉しそうに笑い、軽く拍手した。
練習を始めると、恥ずかしさが先に立って声が小さくなった。
すると、美琴が近づいて小声で言った。
「大丈夫、失敗しても私しかいないから」
その言葉で、不思議と肩の力が抜けていった。
何度か発声とセリフの練習を繰り返すうちに、体の奥から声が出てくる感覚があった。
「…なんか、ちょっと楽しいかも」
ぽつりとつぶやいた僕に、美琴は満面の笑みを向けた。
「でしょ? 翔は向いてると思うよ」
夕暮れ、帰り道。
二人の影は長く伸び、道路に寄り添うように重なっていた。
美琴がふいに立ち止まり、僕を見た。
「ねえ、翔…ありがとう。付き合ってくれて」
「こっちこそ、ありがとう。…なんか、新しいことを始められそうな気がする」
それは嘘ではなかった。
むしろ本心そのものだった。
家に帰り、机に向かっていると、今日の練習のことを思い出した。
声を出すだけのことが、こんなに気持ちを軽くするなんて。
(僕も…何か、もっと挑戦してみたい)
そんな思いを胸に抱きながら、静かに目を閉じた。