8話 ドゥシャンベへ
「約束通り、マーマは迎えに来てくれた」――全てを忘れ、心を殺した名もなき少年は、雪の降るシベリアを去る。
奇妙な夢を見た。
何年ぶりだろう、安らかな夢だった。
またあの人が撃たれるけれど、今回は違った。
血を流して倒れたはずのその人が起き上がった。
声を上げたかったのに、自分の背中は微動だにしない。
その人は前方の自分にキスをして、銃を握った手に触れた。
銃口がこちらを向いている。
足元で血が静かに広がっていく。
撃たれた時は音がしないものだ。
弾の方が音より速いので、後になって耳に届く……と習った。
約束通り、マーマは迎えに来てくれた。
だけど、その手が連れて行くのはマーマの返り血を浴びた方の自分の手で、後ろで見ていたこの手ではない。
自分は二度と愛されることはない。
消えてゆく二人の背中に向けて「ごめんなさい」と繰り返し口を動かした。
いつまでも無音だった。
26番は医務室で目を覚ました。
あたりを見回して、世界の膜が破れていないことを知った。
恐らく……強くなった。
何でもできる。無敵の兵士になった。
もはや人間ではなくなったのだと思う。
もうこのままで構わない。平安なんだ。
医務官に言われるままベッドに戻ると、ストンと再度眠りに落ちた。
次に目を覚ました時、26番は11年と6カ月生きた記憶を失っていた。
庭園で倒れる前後を思い出せないだけでなく、自分がどこの誰かも忘れていた。
残ったのは技術と知識だけで、それらは身にしみついたものだった。会話も「Да(はい)」「Нет(いいえ)」という返事と、「おはよう」に対し「おはようございます」。
「今日は何日?」に対し「1978年5月10日です」といった決められた返答しかできない状態になった。
つまり、「Хорошо(分かったか)?」を語尾につけた場合しか返事をしない。
教師たちからすると、これはからかっているのか、あるいは本当にコンピュータになってしまったように感じられた。
子どもは心を完全に閉ざしてしまった。
生徒の自殺未遂をきっかけに、施設の方針に疑問を持つ将校が増え始めた。
庭園で26番を見つけた教官もその一人だった。
彼は昨年1977年9月に派遣されたばかりの30過ぎの将校で、弱い者を守るという使命感に燃えていた。
26番はもともと大人しくて変わった性格ではあったが、毎夕暴れていたし、最低限の要求を訴えることはできた。
こんな死人のような顔ではなかった。
彼は26番と同じように、毎夕情緒不安定になる生徒がいることに焦点を当て、一人一人カウンセリングを行って事の顛末を調査した。
そして自分の赴任した日の3か月前、学校長がこの生徒たちに何をさせたのかを知った。
危険な状態にある生徒だけでも転校させることはできないか、他の教師たちに相談を持ちかけることもした。
幾人かは理解を示し、文章をしたためてくれたが、上の許可が下りるには長い時間がかかりそうだった。
軍事機密を表に漏らすわけにはいかないためだ。
しかし彼はコネクションに恵まれた将校だった。
頼れるものを全て頼り、危険な様子の生徒を密かに学校の外へ送り出した。
26番も彼のリストに含まれていた。
ある夜、26番は目を覚ますと、知らない部屋の中にいた。
いつの間にか外套を着て、靴を履いている。
鞄を枕にして寝ていたせいだろう、首が痛い。
気がつくと違う場所にいる、ということは日常茶飯事だった。
だから昨夜もフラフラと出歩いてしまったのだろう。
しかし校門で引きとめられなかったのだろうか……。
まず重要なのは、学校長のもとに戻れるかどうかだ。
学校長は自分の保護者らしいのだから……。
窓の外は真っ暗だった。
今ここはどこなのだろう。
朝までに学校へ戻らなければ、大佐から罰を受けてしまう。
太陽が昇り、巨大な黒い影が浮かび上った。
まるで壁だ。
土でできた壁がずらりと並んでいる。
遥か虚空、目を細めて太陽の下部を見ると氷山があった。
初めて見るのにどこか懐かしい景色だった。
26番が固まっていると、客室の扉がそっと開かれた。
「やあ、おはよう! 驚かせたかな?」
朝にふさわしい元気な声がコンパートメントを震わせた。
新任の教官だった。
「ここは、シベリア・トルキスタン鉄道1等車だ。
オムスクからカザフスタンに入って、ずっと南下している。
もうすぐ乗り換えだよ!
……天山山脈は初めてか?」
大男は26番と目が合って、ゆっくりと話をした。
「学校長の指令でキミは転校することになったんだ。
僕は付き添いをしている。7年生になってからも引き続き担任だったもんな。
でも、今日でお別れだ……。
樅の木祭りも、今年は違うマロースじいさんがくるぞ!
去年着替えてるところを見せちゃったもんな。ははは……。
泣くなよ? 寂しいから」
その時、担任は初めてコンピュータの返事以外の少年の声を聞いた。
「転……校……?」
思いもよらない反応に、彼は小走りで26番の隣に座った。
「そう、転校だ! 新しい父親のもとに、今から行くんだよ」
「新しいパーパ」
26番は人差し指を大男に向けた。
「違う違う、僕はもう2年間もキミを見ているから新任じゃない。酷いなぁもう」
担任は立ち上がると、扉の外に立っている若い教官に声をかけて、サモワールへ行くよう命じた。
身分証の確認に来た車掌はその奇妙な光景に目を見張った。
まず寝ぐせだらけの子どもがいて、何が気になるのか壁の一点を凝視している。
体格のいい将校が二人、対面する形で座っており、その子どもの機嫌を取ろうとしている。
上級将校の子息を預かっているのだろうか。
会話と言える会話もなく、気まずい雰囲気が流れていた。
アルマアタで航空機に乗り換えて3時間。
目的地に到着した頃にはもう夕刻が迫っていた。
手で標識の雪を払うとドゥシャンベと書いてある。
ここはオムスクから2700キロメートル南、タジキスタンだ。
唐突にあまりにも遠い場所へ来てしまった。
転校ということは、これからは新しい学校長、新しい教官・教諭、つまり新しいパーパの命令を受けるんだ。
だから何も気にすることはない。
今この教官たちがいない間、少なくとも一日、元いた学校では業務に差し支えがないだろうか……。
出張ということで代わりの人間が教壇に立っているのだろうか。
歩きながら、2年間も担任だったという教官が今後について大まかに説明してくれた。
「これから君がお世話になる方はとても偉い将軍様だ。なので礼儀にはくれぐれも気をつけなさい。
言語の成績がいいからと、あえて難しい言葉を使ったり、不自然な熟語を用いてはいけない。
なあに、干渉しない人だから、すぐに慣れるよ。
僕のお義父さんなんだ。
偏屈で気難しいとこもあるけど……。きっと26番にとって息がしやすい場所になる」
担任の目には、26番は新しい環境にまったく動じていないように見えた。
いつも通り無表情で、淡々と状況を受け入れているようだ。
文句もなければ返事もなかった。
「Да(はい)」「Нeт(いいえ)」で答えられる質問でも、指示でもないからだろう。
教官の独り言は冷たい空気に吸い込まれていった。
少年自身はとてもドキドキしていた。
本人にもはっきりと分からない緊張と不安があった。
それを感じていても、何かが壁になって表層へ移すことができなかった。
(ここより元の場所に帰してほしい。
大佐のところに。
もう人間ではなくなったのだから、どこへも行けない。
血みどろの化物なのだから、人前に出るのが恥ずかしい。
外気に肺がつぶれてしまいそうだ。
早く心を後ろの方へ飛ばしてしまわなければ)
それらは全て無意識に抑えられ、記憶と意識に移すことなく、26番は人形になっていた。
ドゥシャンベには第201自動車化狙撃師団が駐屯している。
26番はその師団長のもとに預けられることとなった。
水面下で戦争の準備がされている1979年12月1日だった。
ここまでご覧くださり誠にありがとうございました。
この小説は2013年8月に制作した、私にとって最初の小説作品です。
続きは漫画と小説のかたちをとって、ホームページで連載しております。
小説作品のみ、このあと掲載いたします。
最後までお読みくださり、心より感謝申し上げます




