1話 旅立ち
「お父さんは、死んでしまったの?」
その問いが、私の小さな世界を終わらせた。
1959年、ソビエト連邦。
学校の存在すら知らず、小さな小屋で母と二人きりで生きてきた少女マリーヤ。彼女の世界のすべては、母が語るコサックの英雄である父の「お話」だった。
しかし、16歳の秋。図書館で見つけた一枚の写真が、母のついた残酷で優しい嘘を暴き出す。
――血の復讐、逃亡、そして身分証すらない自分たちの「透明な」存在。
2009年 カウンセリング資料
イリーナ・セミョーノヴナ・ローゼンシュテイン著
1973年から2009年4月にかけて行った調査記録に基づき、
一人の人物の半生をかえりみたい。
調査記録とは、複数人からの見聞きしたことをまとめたもので、その中には著者の体験も含まれている。
今回文書化したのは、1979年12月までの出来事である。
クライエントはまだ半年前の出来事を整理しきれていない様子だった。
唇を震わせながら、その生い立ちから語り始めてくれた。
マリーヤ・サウレ 1943年生まれ。
混血の子どもだった。
ラトビアの画学生だった母がコーカサス地方を訪ねた時、父と運命的な出会いをしたという。
父はテレク・コサックの一員だった。
ぴんとはった背筋で馬にまたがり、国と愛する人を守るべく戦う姿は生まれ持っての兵士、まるで神話の英雄のようだった……と母は繰り返し聞かせた。
おかげで娘は顔も知らない父の活躍を一つたがわず話せるようになっていた。
母からはもう一つ、重要なことを教えてもらった。父の遠い遠い祖先はアラン人であり、誇り高い民の血がお前にも流れているのだと。
母が倒れたその日の朝も、いつも通り思い出話を聞かせてくれた。
コサックの勇敢さ、馬と一体になったかに見える戦いぶり、長い裾をひるがえして踊るようにエスコートしてくれた結婚式……。
マリーヤが物心ついた時とまったく同じレパートリーだったが、一人ぼっちの記憶しかない彼女にとって、『お話』は母と過ごせる唯一の時間であり、父と会っている気持ちになれる一家団らんの時間だった。
だから、庭で倒れている母を見た時、何が起こったのか分からなかった。
本を沢山読んでいた彼女だが、父の英雄譚はどの物語にもまさる質で、いつか出版されて欲しいと願っていた。
庭のりんごの灌木の下で、『お話』をもとにスケッチブック15冊分も絵を描いた。
オリジナルの物語もちゃんと加えた。
コサックの親衛隊が悪い赤軍を打ち負かし、ロシア帝国を復興させ、王冠を与えられるエピソード。
将軍はもちろん父だった。
舞踏会でお姫様と恋もするけれど、最後にはラトビアに残した家族に会いに行く。
そんな何とも甘いストーリーだが、彼女はいくつになっても自作の絵本に酔いしれていた。
その心理には生活の反動があったのだろう。
小さな部屋と、りんごの灌木と『お話』が彼女の世界の全てだった。
女性はめったなことでは兵隊になることができない。
だからいつか自分も、大家さんの子どものように学校へ行って「ナルト叙事詩」を原文で読んでみたかった。
それはアラン人の口承伝承で、ギリシャ神話にもアーサー王伝説にも影響を及ぼしたという。マリーヤの唯一の夢だった。
彼女は学校とは裕福な家庭の人間が行くものだと思っており、義務教育という制度があることを知らなかった。
大祖国戦争(第二次世界大戦のこと)で女性兵士が100万人も活躍したことを、彼女は知らなかった。
16歳になった1959年の晩秋、一人で物事の判断ができるようになったマリーヤは、父の行方について母に尋ねてみた。
「お父さんは死んでしまったの?」
母は無表情になった。いつも見せていた子どものような微笑みは消えて、知らない人がそこにいた。
それでも勇気を出して、なぜ私たちはシングルマザーの家庭なのに国の保障がおりないのか、『お話』の中の父が生きているのなら、母がこんなに尊敬しているのだから、会いに来てくれてもおかしくないはずだとたたみかけた。
母は沈黙したまま窓の外へ視線を向けて、編み物を再開した。
窓の外はコンクリートの壁しか見えないのに。
マリーヤは自分の側にいつも母が居たというのに、なぜ孤独を感じ続けていたのか、その理由を悟った。
自宅の小屋から秘密の小道を歩いて10分、こっそり市の図書館に入ることができる。
ここには人が沢山いて、表の町の賑わいも窓の隙間から聞こえる。お気に入りの建物だった。
彼女は母の話したがらない父の姿が知りたかった。自分がどうして学校に通えず、外出もままならない青春時代を送ることになったのか、その答えのような気がしていた。
しかしこの図書館には、近年のコサックについての本が1冊もないことを昔探した経験から知っていた。
ではコーカサス地方への行き方を調べられないだろうか。そこには父が、あるいは父を知る人がいるかもしれない。
たとえ信じていたものと違う父が現れても、真実として受け入れるつもりでいた。
テレク・コサックはテレク川周辺の人々から構成されたコサックのことだ。
テレク川の流れる地方、チェチェン、オセチア、ジョージア北部について紹介した書籍を手に取る。
開いてすぐ、掲載写真に目が止まった。
石造りの塔が無数に立ち並ぶ村。スヴァネティ、メスティア、トゥシェティ、オマロ、ダルトロ……。
その高原の風景に見覚えがあった。この同じ形をした塔を最上階まで登ったことがある。
急な階段で、何度も靴を落としては後ろをつっかえさせたことを覚えている。
雪の降りしきる夜にそこを出て、もう戻らなかった。
あれは「塔の家」と言って、「血の復讐」から逃れるために一家ごとが持っている、伝統的なシェルターだったのか。
母はコーカサスを理想郷だと言っていたが、物騒な慣習が根付く土地でもあった。
記憶をもとに整理すると、母は親戚関係を結んだ土地から、祖国のラトビアへ逃れたということになる。
走り出したマリーヤは誰にも止められなかった。
できるなら父の生死を確かめて、生きているなら会いたい。本当のことを知りたい。
それほど彼女は自分の未来に行き詰まりを感じていた。
旅の支度を始めたマリーヤに悲しい出来事が訪れた。
それは母の死だった。
住居の大家が神父を呼び、彼女を含めてわずか3人だけの式だった。国は無宗教を信条にしていたので、教会は物置小屋になっていた。神父を呼べたのも、綱渡りのことだった。
独りになった彼女を待っていたのは経済の問題だった。
16歳以上に発行されるはずの身分証明書はとうとうもらえなかった。
それどころか……自分で確かめに行ったわけではないのだが……役所には母の名前さえ登録されていなかった。
なるほど、だから母は夜の仕事をしていたのか。
政府は売春も管理しているが、抜け道もちゃんとあるらしい。
今まで軽い気持ちで図書館へ行ったり歌を歌ったりしていたけれど、運悪く役人に見つかり、身分証の提示を求められていたら……と思うとぞっとした。
今頃シベリアだったかもしれない。
食べてゆくにはこの狭い小屋で息をひそめて、夜の世界に身をやつすしかないのだろうか。
潮時だった。
マリーヤはこの件を生涯引きずり続けた。
「母は直面している現実を変える手立てがなかったのだろうか。
目をそらすように理想の夢物語を語り続けて、子どもにも将来関係のあることなのに、何一つ本当のことを話さなかった。
状況を変えようという努力も自分の見ている限りでは知らない。
そんな母が憎らしく、あてにされていなかったのかと今も悔しい。
何も知ろうと努力もせずに、夢ばかりに浸っていた自分が情けない。
こんな私だったから、母は期待することを止めたのだろう」
彼女は心理的に子どもだったところから大人の領域へ足を踏み入れて、保護者と対等に会話を始めた。その矢先に引き離されてしまった。
憶測すると、その生涯、母と二人で過ごした期間を「仕方がなかった、君は精一杯やってきたんだ」と誰かに言ってもらえることを待っていたのだろうと思う。
そんな存在を探し続けて、どこにもいないことに孤独を募らせて、他のことへ非建設的な昇華をしたために、彼女は破綻してしまったのだ。
次回は二話目です。続きを見守ってくださいますと幸いです。




