閑話、国内外の動き
官庁の、窓の開かない部屋。
鷲尾修司は、机の上の紙束を指で揃えた。
この時代、いまだに紙で情報を管理している。
政府というものは呆れるほどに、新しい物への適応が遅い。
眠気はもうない。
眠る段階を過ぎた人間の頭は、妙に乾いている。
壁際のモニターには地図が映っている。
国内。国外。赤い印。黄色い印。灰色の空白。
ドアが開く。
若い職員が、封筒とタブレットを抱えて入ってきた。
「更新入りました」
鷲尾は頷いた。
「順に」
職員は封筒を机に置く。
白い紙の端には、簡易な見出しが打たれていた。
米国。
中国。
東南アジアの一部地域。
中南米。
可食性個体。
未承認流通。
紙だけで、胃が重くなる。
鷲尾は一枚目を取った。
「米国からです」
職員が言う。
「低層個体に対しては、地域差はありますが、比較的早く対処が進んでいます。銃器保有率と即応性が大きいようです」
鷲尾は紙面を追った。
住宅街。駐車場。州兵。保安官。散発的な発砲。
上層の個体なら、銃火器で押し切れている。
「ただ」
職員が一度言葉を切る。
「銃で処理した人員は、近接で倒した例に比べて、成長が鈍いという見方が一部で広がっています」
鷲尾は視線を上げた。
「広がっている、では曖昧だな。どこまで確度がある」
「帰還者の自己申告と、現地フォーラム、動画投稿者の検証です。公的確認ではありませんが、複数、似た傾向が出ています」
鷲尾は短く息を吐く。
低層は銃で片づく。
だが銃に頼るだけでは、潜る側が伸びない。
紙をめくる。
バール。山刀。斧。警棒。即席の槍。
火器を後ろに回し、前に出て近接で倒す動画の切り抜き。
編集済みの記録映像。潜行前の説明。帰還後の報告。コメント欄の翻訳。
電波が届かない以上、生中継はない。
だが帰ってきた後の映像で十分だった。
危険は、それだけで商品になる。
「探索はどこまで」
「不明です。ただ、進んでいるのはその手の連中です。銃で入口を確保して、近接に切り替える。あるいは最初から近接主体で潜っています」
「対応はどうなっている」
「州ごとにばらついています。潜行許可の扱いも、買い取りも、違法化の範囲も統一されていません」
統制が取れていない。
だが、それだけではない。
鷲尾は紙を見ながら思う。
取る気が感じられない。
少なくとも、最初から一枚岩で締め上げるつもりはない。
もう一枚。
淡赤の瓶についての報告。
呼び名は違う。回復薬。赤薬。リカバリー。
だが中身はだいたい同じだった。
確認時期も、日本と極端にはズレていない。
鷲尾はそこで紙を置いた。
日本だけが先行しているわけではない。
どこも同じくらいの速度で、同じ壁にぶつかっている。
「次」
職員が別の束を開く。
「中国です」
そこで部屋の空気が少し変わる。
口には出さない、疑念と危険視。
「初期混乱は相応にあったとみられます。ただ、その後の封鎖、移動制限、区域管理は非常に速い。無許可潜行については重く取り締まられているようです」
「これまた曖昧だな」
「はい。出てきている情報がほとんどありません」
情報を出させていない。
紙面には、短い要約だけ。
民間映像はすぐに消される。
転載元は追えない。
投稿者の所在が途切れる。
外に流れるのは封鎖線の映像ばかり。
「ポーション類似の情報は」
「可能性はあります。ただ、確認不能です。発見されていても外には出ていない、という見方が強いです」
「深層調査は」
「進んでいるとみられますが、実態不明です」
鷲尾は紙の余白を指で押さえた。
民間を締め上げ、情報を閉じる。
国家主導に集約する。
筋は通っている。
少なくとも、あの国としては。
だが日本は、そこまで振り切れない。
「次」
「東南アジアと中南米の一部、それからアフリカの一部地域です」
職員の声が少し硬くなる。
読み上げる内容が軽くないとき、だいたいこうなる。
「封鎖能力や治安維持能力が足りず、初期被害が拡大した地域があります。一方で……」
一方で。
その先が、この報告の本題だった。
「住民のダンジョン忌避が、かなり薄いです」
鷲尾は顔を上げた。
職員は続ける。
「生活基盤が弱い地域ほど、危険であること自体が参入障壁になっていません。潜れば食えるかもしれない、持ち帰れば売れるかもしれない、その判断が先に来ています」
写真が添付されていた。
整っていない市場。雑多な布の屋根。肉。骨。乾燥中の皮。
真贋も衛生も分からない。
「可食性については未確認が多いですが、魔物由来肉への期待が急速に広がっています。食料難地域では特に」
「死者は」
「多いです」
即答だった。
鷲尾はそれ以上聞かなかった。
紙に書かれている死者数は、実際より少ないはずだ。
確認できていない者も多くいる。
危険だから行かない、ではない。
危険でも行くしかない。
その理屈は、日本の役所に座っていると忘れやすい。
だが世界は、それで動いている。
ドアが開いた。
入ってきたのは、腹の出た男だった。
歩幅は小さく、音はない。
だだ、部屋の空気だけが一段、下がる。
狸原泰三。
元警察庁長官。今は政府の顧問として、誰にも頼まれない意見をよく持ってくる男だ。
顔は緩いが、目は笑っていない。
「まだやっとるのか」
誰にともなく言って、空いている席に腰を下ろす。
許可を待つ気配はない。
「狸原さん」
鷲尾が言う。
狸腹は手をひらひらと振った。
「いい。挨拶は省け」
「どうせ似たような報告だろう。米国は勝手に潜る。中国は隠す。貧しい国は死にながら潜る」
職員の手が止まる。
鷲尾は紙を閉じた。
「雑にまとめるなら、そうです」
狸原は鼻で笑った。
「結構。結論は変わらない。民間に持たせるな。情報も、力も、金もだ」
鷲尾は返さない。
狸原は机を指で叩いた。
「若いのに武器を持たせて、ダンジョンに潜らせる制度など論外だ」
「今は英雄ごっこで済んでいるかもしれん。だが深層まで行ける連中が育ったらどうなる」
「警官が止められん人間が、民間で何十人、何百人と出る」
「犯罪。私兵化。政治への圧力。極端な話、地方で武装集団が自治を名乗ったらどうする」
若い職員が息を止めた。
狸原は構わず続ける。
「それから情報だ。深層情報、ドロップ情報、特殊個体、薬品。どれも国家の札になる」
「民間に流してどうする。国外に流れたらどうする」
「ネットに載せる?馬鹿げてる。国だけで秘匿すべき情報があるだろう」
鷲尾は言った。
「隠せる段階はもう過ぎています」
狸原の目が細くなる。
「口に戸は立てられん、か」
「逃げ口上だな」
「いいえ、それが現実です」
鷲尾は紙を一枚引き寄せた。
「帰還者はいます。海外情報も入ってきていて、動画もある。D networkも機能し始めている。全部を潰そうとすれば、表から消えて裏に潜るだけです。時代は変わってきてるのです」
狸原が口元だけで笑う。
「なら潜らせるのか。国が認めた形にして」
鷲尾は答える。
「もうすでに認めて、潜っています」
そこで一拍置く。
「問題は、死なせるか、管理するかです」
部屋の奥の時計が、カチカチと乾いた音を立てている。
しばらくして、職員が別の資料を渡してくる。
国内分だ。
探索者ランクの暫定改定案。
D network運用案。
買い取りと申告の整理。
アクセス権限の階層化。
鷲尾は一枚目を開いた。
「現行のランク制度は、現場の実態に追いついていません」
「暫定で、七層突破者をEとする。以後は突破階層と実績を見て段階的に見直す」
狸原がすぐに噛みついてくる。
「階級か、勲章でも配るつもりか?」
「選別です」
鷲尾は言った。
「誰がどこまで行けるのか、明確にして動かします」
次の紙。
「D networkは全面公開しない。Fは基礎情報と一層から七層までの危険情報まで。E以上で閲覧範囲を拡張する」
「深層に近い情報ほど、突破実績のある者にしか見せない」
狸原が眉を上げた。
「甘いな、見せること自体が甘い」
「無謀に潜って死ぬ人間まで、国が面倒を見る義理はない」
「勝手に減る分には、むしろ整理が早いだろう」
鷲尾は言う。
「形にして見せなければ、人は噂で潜ります」
「人を多く殺すのは噂の方です」
狸原は黙る。気に食わない顔をしている。
鷲尾は続ける。
「買い取りも同じです。税率を上げすぎれば、闇流通に回ります」
「強制買取一辺倒にすれば、隠匿が増える。申告しない、見せない、持ち帰る。そうなれば把握も保護もできません」
狸原が低く言った。
「国家の手を嫌う者に、なぜ配慮が要る」
鷲尾はそこで初めて狸原をまっすぐ見た。
「国家が全部拾えるなら、配慮は要らないかもしれません」
「拾いきれないのです、そのために制度が要ります」
部屋が静かになる。
張り詰めた空気。
狸原は椅子に深く座り直した。
「お前は、人間を信用しすぎだ」
鷲尾は首を振る。
「違います」
「信用はしていません。だから線を引いています」
「登録、ランク、閲覧制限、買い取り、記録。全部そのためです」
「現場を無いものとして扱うのは、現実に即していない」
狸原は返さなかった。
窓のない部屋。
紙の匂い。コーヒーの冷えた匂い。
世界はもう、封鎖線の向こうだけの話ではなくなっている。
アメリカでは、個人主義がより表面化してきている。
中国では、見えないまま進んでいるものがある。
貧しい場所では、恐怖が薄れてきている。
日本だけが止まっていられるはずがない。
鷲尾は資料の最後のページを見た。
探索者協会。
暫定運用。
ランク改定。
情報階層化。
調査隊増員。
買い取り制度整備。
急ごしらえの言葉が並んでいる。
急ごしらえでしか間に合わない。
狸原が席を立つ。
「死人が増えた時、同じことを言えるなら大したものだ」
それだけ言って、狸原は出ていった。
ドアが閉まる。
鷲尾はしばらく、その音の消えた後を見ていた。
どのみち死人は出る。
その上で減らすしかない。
紙を閉じる。
「Eは七層突破」
「D networkは案二で詰めてください。Fは基礎まで。ランクに応じて段階開示」
「買い取り税率はそのまま一律一割で」
「深層情報は分ける。全部を出す必要はないが、全部を隠す意味もない」
職員が部屋から出ていく。
部屋の空気が、少しだけ前に進んだ。
鷲尾は残ったコーヒーを口にした。
冷えて、苦い。
それでも十分だった。
未知を閉じ込める段階は、もう終わっている。
国は、潜る者を必要としていた。




