12
どれほどの時間、呆然自失でロビーに座りこんでいただろう。
琴美は、逮捕も取り調べも、罰金さえなく警察署をあとにした。
朝の七時。陽の下に出てもまだ悪い夢を見ている気分だった。
「うそでしょ……」
もう何十回とこればかりを繰り返し呟いていた。
職場や学校へ向かう人々に逆らってマンションへ帰り着いた琴美は、半狂乱で水谷の持ち物を漁った。
スーツのポケットを探る。ブランド物のサイフの中身は二万円弱の現金と一枚のクレジットカードだけだった。
携帯電話は数年前の古い機種。履歴や登録内容を調べるが、どれも仕事に関するものばかりだった。琴美は『アサヒ商事・早川さん』として登録されていた。
「なにそれ!」
水谷の鞄の中身を床にぶちまける。
仕事の書類と、スマートフォンと、別の財布が出てきた。
スマートフォンの待ち受け画像。知らない女と知らない二人の男の子、そして水谷が笑顔を寄せ合っている。どうみても家族写真だ。女の首元に見覚えのあるネックレスが光っている。
セキュリティロックはかかっていない。琴美は震える指で操作する。通話やメールの履歴のほとんどが『ママ』という相手だった。保存されている画像の主役はさっきの子供たちばかりだ。
布製の財布は使いこまれてボロボロだった。現金は五千円ほどだが、代わりに様々な店の会員証やポイントカード、飲食店の割引券などがぎっしりと詰まっている。生活感が溢れていた。
小銭入れには、指輪が入っていた。
スマートフォンと、財布と、外されていた指輪――これが水谷誠という男の本当の姿だった。
真面目で仕事一筋。女に縁が薄いまま四十歳が見えてきて焦っている小金持ち、などではない。妻と子供がいて、古びた財布の中の小遣いを懸命にやりくりし、それでも隙あらば指輪を外して女に声をかける――そういう男だったのだ。
本性を見抜けずに、浮気を疑った挙句に殺してしまった。
浮気の相手は自分の方だというのに。
けして琴美の部屋に泊ろうとはしなかった。
下着の換えを置こうともしない。
情事のあとのシャワーでも、ボディソープの類を使わない。
些細なことが不安や疑惑を大きくしていたのだが、こうなってしまうと様々なことに合点がいく。
妻子の待つ家があるのに、遊び相手の家に泊るわけがない。妻に気取られるような匂いを付けて帰るわけがない。
あのネックレスも妻へのプレゼントだった。
これだけのヒントがあって今日まで気づきもしなかった自分の愚鈍さが情けなかった。
刑事の説明では、水谷の妻に琴美の情報が渡されるが、その逆はないのだという。
『遺族は少しでも有利に復讐せよ』
『そしておまえは復讐に怯えよ』
人を殺した自分を守ってくれたように思えた公殺法に、一転、慄然とした。
そんなつもりはなかった。交際相手と上手くいかなった末の不幸な出来事だ。あくまでも二人の問題だ。
それなのに。自分は唐突に、ある家庭から夫を、父親を奪った悪女となってしまった。
こんな不条理があるだろうか。
「悪いのはアイツじゃないの。嘘ついてたクセに!」スマートフォンの家族の写真を次々と送っていく。「奥さんがいるクセに!」
そして気がつく。水谷の妻は、昨夜琴美と入れちがいに病院へやってきたあの女性だった。
少しのタイミングの違いで鉢合わせしていたかもしれない。
ゾッとした。
もしそうなったら――
なじられていただろうか。殴られていたかもしれない。
もしかしたら、その場で殺されていたかもしれない。
「よかった……」
安堵もつかの間、琴美の情報を警察から受け取ったら、むこうはここへやってくるかもしれないと気づく。
琴美は預金通帳や着替えをまとめて逃げ仕度を始める。そしてそれもすぐに中断する。刑事の言葉を思いだしたからだ。
殺した本人にではなく、親兄弟に復讐をする者もいるという。
両親や兄家族は九州だ。まさか即日そこまで行くことはないだろうが、自分が逃げてしまえば復讐の矛先はそちらへ向くかもしれない。
両親はどちらも六十代で歳相応に足腰は弱っている。相手が女でも簡単に殺されてしまうかもしれない。
兄はすでに結婚し、子供もいる。義姉やかわいい甥にまで危険が及ぶかもしれない。
逃げるわけにはいかない。ここで待ち、とにかく話し合おうと決意した。
ソファーに座り、水谷の妻を待った。
非常時だというのに昨夜から一睡もしていないので、待つうちに睡魔に負けてしまう。近所の住人が出入りする音や、ポストにチラシが押し込まれる音で震えて起きる。
浅い夢の中で、水谷の妻に謝罪した。聞こえない声で蔑まれ、叱責される。そして刃物を向けられたところで目を覚ます。
そんな夢を繰り返す。繰り返す。
結局、その日は夜になっても誰もやってこなかった。
(お通夜やお葬式があるんだから、まずはそっちが先なのかも)
もちろん琴美が出席できるはずもない。
「しょうがない……」
気は進まないが琴美は親兄弟に連絡を取ることにした。差し当たり今はこれしか出来ることがない。
両親とは反りが合わないとしかいいようのない関係で、実家にはもう何年も帰省していない。
まず、いつも両親とのパイプ役を勤めてくれる兄に電話をした。
ことの次第を説明するうちに、兄は相槌も打たなくなった。
「そっちに押し掛けてくるようなことはないと思うけど、念のため教えとこうと思って」
『バカヤロウ! なんちゅうコトばしたとかおまえは』
「なにがよ。大丈夫。賠償金とか罰金とか、そういうの払わないでいいから。公殺だもん」
『そういう問題やなかろーが! 人ば殺したとやろーも!?』
「だから、そこまでするつもりじゃなかったし、だいたい悪いのはアッチだったんだから。だから不倫の慰謝料とか請求されても突っぱねるし」
『そいけん、そがんことやなかてッ……」
電話の向こうで兄は絶句した。
「少しはアタシのこと、心配してよ」
『親父とお袋には俺から電話する。ちょっと待ってろ』
兄は電話を切った。
しばらくして、父から電話がかかってきた。
『ふーけもん! おまえてんもう娘じゃなか! そこでじっと殺されてしまえ! 死んでしまえ!』
挨拶もなく父は喚き散らす。
「ちょっと待ってよ……」
『殺されてお詫びせい! そん人が殺しきらんて言うないば、我がから死ね! そいもしきらんないオイが殺してやっ!』
父の嗚咽まじりの罵倒で琴美は気が付いた。恋人が死んだというのに、自分は涙ひとつ零していなかった。
『殺されてお詫びせい!』
ようやく湧き上がってきた罪悪感に震える琴美の手の中で、父親はそう繰り返していた。
『殺されてお詫びせい!』