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吠えない蝉  作者: 野間義之
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 警察署に着くと、取り調べ室ではなく窓口に案内された。まるで交通違反の手続きだ。

 刑事が書類を突きだしてきた。文字も枠線も赤で印刷されている。

「これの太枠の部分を書いて」

 左半分に公殺を行った琴美の氏名・年齢・住所などを記入する欄があり、右半分には同様に公殺された水谷のそれを記入する欄があった。

 巷で『公殺届け』『赤の紙』と呼ばれる物だ。

「相手さんのことは、とりあえず分かる範囲でいいから。それと、ここに判子を。ないか……それじゃ三日以内に判子持ってまた来て」

 刑事の説明も上の空に、琴美は――

(婚姻届けみたい)

 と考えてしまった。

 水谷の側はひとまず名前と年齢だけを記入した。空で書けるのはそれだけだった。

「個人的に忠告しとくよ」刑事は公殺届けを検(あらた)めながら言った。「アンタの家族や親兄弟や親しい連中には、アンタが人を殺したことを素直に言っといた方がいい」

「なぜですか?」

「たまに殺した本人じゃなくて周りに復讐する遺族がいるからな。ちゃんと用心するように言うんだ」

「復讐……」響きが、氷の塊を飲んだように体の中に落ちていった。「あるんですか? そんなこと」

 刑事の答えは、琴美を一瞥しただけだった。

 ややあって刑事が口を開いた。

「あちらのご遺族には、アンタに関する情報をお渡しします。これは決まり事なので、あしからず」

「情報ってどんな……」

「アンタの名前、住所、本籍地、年齢、務め先、家族構成とかだ。これは警察から遺族の代表に渡される。それがどう広まるかは遺族次第だね。自分の胸だけに収めることもあれば、親戚や友人一同、すべての人に伝えることもある」刑事は、今度は厚紙と太いペンを差し出した。「はい。コレに自分の名前と今日の日付を大きく書いて」

 促されるまま黒い横線の走る壁の前に立ち、名前と日付を書いた厚紙を胸前に持つ。

 その姿を何枚か写真に撮られた。

「この写真、情報と一緒に遺族に渡すのでそのつもりで」

 壁の横線は十センチ刻みで高さが記されている。これで写真でもおおよその身長が分かる仕組みだ。

「渡すのは、彼のご両親にですか?」

「この場合は奥さんだな」

 刑事の言葉が理解できなかった。

「あの、まだアタシたち、結婚してませんけど。婚約だってまだ……」

 だいいち自分が殺したのに。わけがわからない。

 刑事はまじまじと琴美を見た。

「アンタ、知らなかったのか? 水谷さん、結婚してるぞ」

 今度は琴美が刑事をじっと見た。しかしどれほど待っても、冗談だと刑事が笑うことはなかった。

「うそでしょ!?」

 悲鳴を上げる琴美。

「本当に知らなかったのか?」刑事はやりきれない様子で首を振った。「なんてこった……」


 二〇一二年四月十二日。こうして早川琴美は公殺権を行使した。

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