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吠えない蝉  作者: 野間義之
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10

 それは体内に蓄積される類の毒で、致死量を好きな回数に分けて飲ませればよかった。



『彼女の浮気がハッキリわかったので、三度目のときに残りを全部入れちゃいました。信じていたかったけど。有罪ですよね(笑) あれ以上騙されずにすんだのでよかったと思ってます。今では新しい彼女もできてHappyです!』

『ゴチャゴチャうるさい上司のお茶に時々いれています。殺そうと思えばいつでも殺せると思ったら、気持ちが落ち着いてまた頑張れます』

『四回目ぐらいで気が変わりました。駄目な亭主だけど、いなくなってしまうことを考えたらやっぱり寂しくて……衝動的に殺さなくてよかった! この方法なら殺すほうもじっくりと相手に対する気持ちと向き合うことができていいですね』



 通販サイトには購買意欲をかき立てる使用者のコメントが並んでいた。評価も高い。

 公殺法の施行以降、こんな薬物も簡単に手に入れることができる。

 届いた毒薬は、茶色の小さな瓶に入っていた。五十ミリリットル入り。まるでドリンク剤のような手軽さだ。

 成人の致死量は多くても半分の二十五ミリ程度。今ならお得な二人分ということだった。

 とにかく水谷になんらかの罰を与えてやりたい。

 もし途中で水谷の疑惑が晴れたら、そこで止めればいい。

 もし浮気が確定したら、そこで一気に残りを飲ませてしまえばいい。

 そんな、とりあえず、な気持ちで水谷に毒を与え始めた。無味無臭と書かれていたが、念のために味の濃い料理に混ぜた。

「最近、辛いの多いね」

「そうでもないと思うけど、辛いの嫌い?」

「ううん、美味しいよ」

 なにも知らずのん気に笑う水谷。

 毒を与えるようになって、琴美は密かな高揚を覚えていた。恋心も嫉妬心も霞むほどの、生殺与奪の万能感。

 ところが予期せぬ事態に陥った。四回目の毒食事を饗した晩、水谷が死んだ。

 (まー)(ぼー)豆腐に毒を忍ばせ、一緒にテレビを見て、しっかりと歯磨きをさせてベッドに入った。

 前戯の途中で水谷が呼吸を荒くし始める。

「ごめん。なんか調子悪い……」

 彼はとうとう体を離すと、仰向けになって胸を大きく上下させる。顔は赤黒く、風呂上がりのように全身汗で湿っている。それでも陰茎は怒張しているのが滑稽だった。

「大丈夫?」

「胸が痛い」

「息は? 息はできる?」

「苦しい……」

 間違いない。あの毒が効き始めたのだ。

 琴美は動揺した。まだ症状が出る半分の量のはずだ。

「病院、いく?」

 訊くと水谷は激しく首を振った。

 琴美は安堵した。病院へ連れていけば助かるかもしれないが、毒が原因だと見抜かれてしまう。

 殺しそこねた上に自分のしたことを知られてしまっては、水谷の気持ちが完全に離れてしまう。

 苦しんでいる姿を見て、はっきりとわかった。水谷に死んでほしくない。水谷を愛しているのだ。

 最も望ましいのは、病院へ行くことなく水谷が回復し、琴美のしたことも知られず、これまで通りの関係が続くことだ。

(死ぬわけない。まだ半分だから! 大丈夫に決まってる)

 自分に言い聞かせる。

水谷が帰ると言い出した。全く回復した様子はない。

「タクシー呼んで……」

「無理しないほうがいいって。泊ってきなよ」

 帰ると言いつつ病院に行かれては困る。

「でも……明日仕事だから」

「ワイシャツとか今から洗ってあげるから」

 ベッド脇のワイシャツと下着を抱えて寝室を出ると、洗濯機に放りこむ。スーツと鞄も隠した。

 琴美は震える指でスマートフォンを操作する。急いで解毒の方法を調べなくてはいけない。

 しかし、症状を確認するために寝室へ戻ったときには、もう水谷は死んでいた。


 諦めきれず、とうとう救急車を呼んだ。

 救急隊員は水谷をひと目見て手遅れだと悟ったようだが、それでも業務手順に従って病院へ搬送した。そこですぐさま死亡が確認された。

「死ぬはずないんです! まだ……」

「その手の毒はね、効き目に結構個人差があるんですよ」

 救急車に同乗してきた琴美の言いわけに医師が蔑む口調で応えた。

 病院から警察へ連絡がいき、五十がらみと三十そこそこと思われる二人の刑事、そして制服の警官が二人やってきた。

「アタシが殺しました」

 琴美は観念して素直に認めた。健康になんの問題もなかった働き盛りの男が唐突に死んだのだ。自分のせいではないと言い張っても通用しないだろう。あの医師の態度では庇ってくれそうもない。

 それに事故死や病死に偽装して、それが見破られてしまうともう公殺権は主張できない。従来の法律に則った刑罰を受けることになる。

 だったら最初から正直に認めておいた方がいい――そうわかっていても、警察手帳を見せられた途端に不安と恐怖に襲われた。本当は公殺権などという馬鹿げたものは存在しないのではないか。都市伝説めいたものを自分は愚かにも信じてしまったのではないか。

「人を殺したのは初めてですか?」若い刑事が訊いてきた。淡々とした事務的な態度だった。

「はい」

「公殺っていうのはご存じですよね?」

「はい」

「では、今回のことは公殺扱いということでいいですか?」

「はい。よろしくお願いします」

「では手続きがありますので、署までご同行いただきたいのですが。今からでも平気ですか?」

「はい」

 琴美がパトカーに乗り込んだとき、そばにタクシーが停まり女性が降りてきた。ダウンコートの下は部屋着らしい大雑把な格好。長い黒髪はまとまりなく乱れている。

 深夜一時。親しい者が生死の境をさ迷っていると連絡を受け、取るものも取り敢えず駆けつけた――そんな感じだ。

 走り去る女性の背中を見ながら、その人が助かればいいなと琴美は願った。

 警官の一人が運転し、琴美と年嵩の刑事が後部に並んで座る。あとの二人は病院へ残った。

 サイレンを鳴らすでもパトライトを回すでもなく、パトカーは静かになにくわぬ顔で走った。殺人者を連行しているような緊迫感はない。

 手錠をかけられることも、腕を掴まれることもない。

(アタシ、犯罪者じゃないんだ。ほんとに犯罪じゃないんだ……)

 拍子抜けな成り行きに、背骨から力が抜ける。

 刑事は時折遠慮のない横目を向けてきた。怒りと嫌悪を湛えた視線だった。

 琴美はせめて神妙な表情を保とうと努力した。

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