第1話 転生
佐伯直人は、顧客に「絶対に上がります」と言ったことがない。
三十八歳。証券会社に勤めて十六年。相場が荒れた日ほど、電話の向こうの声は確信を求めてくる。
「佐伯さんなら、この株、買います?」
その日の夕方、長年付き合いのある顧客に聞かれた。
「まず、来年必要になるお金は分けて考えます。娘さんの進学資金でしたよね」
「よく覚えてますね」
「株価は忘れることがありますが、お客様に怒られたことは忘れません」
顧客が笑った。直人も少し笑い、それから下落した場合の話をした。
会社を出たのは夜十時過ぎだった。昼に買った弁当は鞄の中で、夕食としての価値を失いつつある。駅前の交差点で信号を待ちながら、直人はコンビニの温かい麺を思い浮かべた。
向かい側で子どもが転んだ。
ボールが車道へ転がり、子どもがその後を追う。右からトラックが曲がってきた。
直人は鞄を落として走った。
子どもを歩道へ押し戻す。間に合った、と分かったところで、自分がまだ車道にいることに気づいた。
ライトが視界を埋める。
あの子は助かった。俺の弁当は……まあ、いいか。
それが、佐伯直人の最後の考えだった。
◇
次に目を開けたとき、頭上には木の梁があった。
乾いた草の束が吊られ、窓の外から水の流れる音が聞こえる。病院にしては設備が素朴すぎる。
起き上がろうとすると、額に痛みが走った。
「……痛っ」
自分の声が高い。
寝台の脇で、水差しを持った女性が立ち止まった。
「レオン?」
茶色い髪を後ろで結んだ女性は、水差しを置いて駆け寄る。
「私が分かる?」
知らない人だ。
そう思った瞬間、別の記憶が浮かんだ。冬の朝、一緒に薪を割ったこと。熱を出した夜、額に冷たい布を当ててもらったこと。
「……母さん?」
女性の目に涙がたまる。
「心配したわよ。三日も目を覚まさなかったの」
彼女はマーヤ。自分はレオン。十五歳。アルネ村で母と二人で暮らしている。
直人は彼女が治療師を呼びに行った隙に、水を張った桶をのぞいた。映っていたのは、額に包帯を巻いた黒髪の少年だった。
「転生、か……」
声に出しても、水面の顔は変わらない。
治療師の説明によれば、レオンは薬草を採りに行った森で崖から落ち、頭を強く打った。濡れた服のまま半日近く倒れ、運び込まれた夜には高熱を出した。それで三日間、ほとんど意識が戻らなかったという。
直人が事故に遭った日と、少年レオンが崖から落ちた日。二つの記憶は、そこで途切れている。
元のレオンの意識がどうなったのか、直人には分からない。ただ、マーヤに抱きしめられたとき、身体に残る少年の記憶が温かく応えた。
「心配かけて、ごめん」
「生きていてくれたなら、それでいい」
◇
夕方、レオンは窓から村を眺めた。
麦畑、石の井戸、低い家々。井戸のそばでは少女が手を振り、水を宙に浮かべて桶へ注いでいる。
魔法だ。
レオンも思わず掌を上に向けた。何も起こらない。
少年の記憶によれば、彼は簡単な火の術さえ成功させたことがなかった。
「転生特典ってもらえなかったのかな」
「何か言った?」
夕食を運んできたマーヤに聞かれ、レオンは慌てて首を振った。
窓の下では、村人が南の牧場について話していた。羊がいなくなり、柵が壊されていたらしい。
「おじいちゃんたちが調べているわ」とマーヤは言った。「あなたは傷を治して」
村長のダレンは、レオンの祖父だ。
レオンは頷き、スープを口に運んだ。温かい液体が喉を満たす。なんだかとても久しぶりな気がした。
羊。壊れた柵。村人たちの早足。
何が起きたのか考えるには、情報が足りない。まずは身体を治し、この村を知ろう。
窓の向こうで、森が夕闇に沈んでいった。
昔から小説を書いてみたくて思い切って投稿しました。思いついたままに書いています。一日一話目標です。感想いただけたら嬉しいです。




