第79話 離れにて
窓から差し込む月明かり。薄暗い部屋の中、ベッドの上で力なく項垂れた少年が一人。桂華本家の長男である桂華待宵は、自らの左目に手を当て顔を歪めた。
「痛ッ……」
視界が霞む。右目は正常だが、しかし左目はもう殆ど見えていない。視力に極端な差がある所為か、じっとしているだけで気分が悪い。いっそこれが生来のものであったなら、或いは慣れていたかもしれないのに。
彼の左目が使い物にならなくなったのは、つい最近の事だった。原因など分かりきっている。感応力の発動によって齎される、強烈な負荷がその原因だ。彼が8歳の時に発現したその感応力の名は『境界歪曲』。恐らくは世界中を探しても他にいないであろう、非常に稀有な能力だった。
稀有といっても、強力な感応力なのかと問われればそれは違う。戦闘系の感応力ではない為に、感応する者としてのランクは良くてC級といったところだろう。その能力の本質は、文字通り境界を歪ませることにある。
人間には視認できず、未だ誰も真実に辿り着いてはいない現象。境界鬼がやってくると言われている『あちらの世界』と、そして『こちらの世界』の間にある隔たり。それが『境界』だ。待宵の感応力はそれを肉眼で捉える事が出来る。そればかりか、任意に歪ませることが出来た。
境界が歪む。つまりそれは『境界振』が生まれるということに他ならない。『境界針』の開発で漸く人類が観測出来るようになったそれを、待宵は自らの意思で発生させることが出来たのだ。
感応力が発現した当初は、誰も彼の感応力の正体に気づかなかった。なにしろ他の感応力とは違い、誰の目にも映らない現象なのだから。当の本人である待宵でさえ、ただなんとなく『視界の一部が歪んだ気がする』といった程度にしか認識していなかった。おかげで彼は感応力が発現しなかった無能力者とされ、桂華の中でも雑な扱いを受けてきた。長男は彼であるというのに、次期当主は彼の弟とされた。同じ理由で、管理局のDBにも彼の名前は載っていない。要するに感応する者として認識されていないのだ。
彼が自らの感応力に気づいたのは、ある日の訓練後のことだった。次期当主候補ではなくなったとはいえ、桂華の人間である以上は戦闘訓練を課せられる。家を追い出されない為に必死だった当時の彼は、無能力者にとって殆ど嫌がらせのようなその訓練にも耐え続けていた。
そうしていつものように訓練を終えた時、桂華家の敷地内で境界振が発生した。境界鬼も多数現界したが、しかしそこは流石の六家である。境界鬼達はすぐさま討伐され、何事もなく終わった───筈だった。
簡単に言えば、討ち洩らしがあったのだ。そしてその洩れた一体は、訓練を終えたばかりの待宵の眼前に立っていた。
相手はただのE級境界鬼だ。一人前の感応する者であれば、一人でも十分に倒せる相手。だが戦闘能力が殆どない待宵には、抗う術が無かった。当然の様に襲いかかってくる境界鬼を前に、待宵はすっかり諦めていた。終わる時はこんなものかと、ほとんど開き直りにも似た心境で。
しかし終わりはこなかった。彼の眼前にはもう一体の境界鬼が現界し、何故か分からないが境界鬼同士で争い始めたからだ。そうしているうちに桂華の感応する者達が駆けつけ、争い合う二体の境界鬼はあっさりと討伐された。桂華家所属の感応する者達は、二体もの境界鬼を討ち洩らしたことで、相応の罰を受けることとなった。待宵はその様子を、ズキズキと痛みを訴える瞳でぼんやりと眺めていた。
その後も似たような出来事が何度か起きた。それも決まって、待宵が窮地に陥った時だった。そのような事が何度も起きれば流石に気づく。これは自分の仕業なのだと。これが自分の感応力なのだと。
何故こんな感応力が発現したのかは分からない。感応力とは持ち主の本質に根ざす力だ。ならば自分はそこまで歪んでいるのかと、ひどく悩んだ時期もあった。しかし結局のところ、感応力が発現する理由など、悩んだところで誰にも分からないのだ。そうして待宵はありのままを受け入れ、何に使えばいいのかまるでわからないその感応力を、誰に話すこともなく受け入れた。考えれば考えるほどに、災いしか生み出さないであろう感応力だ。どうせ自らの意思で使うことはないだろう、と。
そのまま隠し通していられたなら、どれだけ良かっただろうか。当時のことを思い出す度、待宵はいつも悩まされる。あの時のことを思い出す度、『漸く桂華の役にたったじゃないか』という父の言葉が頭を駆け巡る。
「クソっ……痛ったいなぁ……」
左目の奥底から、まるで脳内を殴りつけるかのような鈍痛に苛まれる。待宵の感応力は、境界を歪ませた規模によって左目に痛みを齎す。震度3や4程度ならばそれほど大したことはない。だが先日、彼が父の命令で発生させた境界振は震度9だ。いつもなら耐えられる痛みも、この時ばかりは気を失う程の痛みとなって押し寄せた。そればかりか、今でもその後遺症で目が痛む。挙げ句、左目が使い物にならなくなった。これが一時的なものなのか、それとももう回復しないのかは分からない。だがもう一度同じ規模の境界振を起こせと言われても、恐らくは無理であろう。
そんな痛みに耐える待宵へと、傍らから声がかかる。執事服に身を包んだ、長身の男であった。薄暗い部屋の中だというのに、動きを乱すようなことは一切なく。慣れた動きで茶を淹れ、ゆっくりと待宵へ差し出す。
「待宵様。無理をなさらず、横になっていた方が……」
「はは、ありがとう湊。でもこれは寝てても一緒だから」
「お労しい。この家に仕える身で、こんな事を言うべきではないと分かっておりますが……現当主様は歪んでいます」
「おっと、それは聞かれたらクビじゃ済まないなぁ」
待宵の能力が愉楽にバレた時、彼は待宵をこの離れに押し込めた。殆ど軟禁状態に近かったが、しかし以前の雑な扱いを受けていた頃に比べれば、幾分マシな生活環境だ。湊はその時に付けられた世話係である。待宵の置かれた特殊な環境に心を痛める、桂華家内では稀有な存在だった。
「どっちにしろ……次はもう従うつもりはないから」
湊の言葉がなくとも、待宵はこの家がイカれていることなど重々に承知している。あの時自らが起こした境界振で、一体どれだけの人が傷を負っただろうか。一体どれだけの人が命を落としただろうか。半月近くも気を失っていたが故に、どれだけの被害が出たのかは分からない。だがそれを思う度、待宵は罪の意識に苛まれていた。
鬱屈した環境の中にあって、しかし待宵の精神は奇跡的に、感応力ほど歪んではいなかった。まるで道具のように使われている反面、これまで育てられたのも確かだったから。自分が父の悪事の、その片棒を担いでいるのは理解している。だがそれでも、彼には他の道がなかったから。
しかしそれもこれまでだ。これ以上、我が身可愛さで他人を傷つけることが許容できない。これまでに犯した罪は消えないが、だからといって開き直ることは出来ない。待宵にはもう、愉楽の命令に従うつもりはこれっぽっちもなかった。
「というよりも、俺に出来ることなんて他にないんだけどね」
もしも自分に、戦闘系の感応力が発現していたなら。まだ幼い弟に代わり、父の暴挙を止めることが出来ただろうか。
「もういっそ、誰かこの家をぶっ壊してくれないかな」
待宵にはただ祈ることしか出来なかった。情けのない自分に代わり、この歪んだ桂華を誰かが終わらせてくれることを。




