第四章 探偵不在
薄暗い部屋の中、僕は身をよじり目を覚ます。枕元に置いてある腕時計に手を伸ばす。
一月十八日、朝。
ここ二日間、山荘を取り巻くように続いていた猛吹雪が鳴りを潜めている。
静かな朝だった。
随分と深く寝入っていた。
妹の件で心配が解けたせいだろう。
もう、僕が命を懸けて当たるべき事柄は無いのだ。
未解決事項として宙に浮いていることは二つ。
ジムの天井裏に関するメモと、絞殺魔の確定。
注意を払うこととして、僕を狙う堀口さんの存在。
「終わったわけでは、ないか」
気を緩めには早い。あくびを一つ、それからゆっくりと起き上がった。
僕は枕元の推理メモを読みなおし、寝癖のついた頭へ片手を回す。
現時点では生き抜くことが最優先。ここまできて死んでしまっては、駆けつけてくれた怪盗にも申し訳が立たない。
万一の際に力で反抗することもできるが、犯人へ目星をつけてしまえば避ければいいだけなので危険度は下がる。
今までの被害者は三人……いや、高原での殺人を加えて五人か。えーと、それから東京の会社でも一人、手に掛けている。六人だ。すべて同一犯・西原和幸と考えた場合、だけれど。
■一月十五日から十七日の間に起きた、絞殺事件。
・針金のようなものを使ったケースと、男の手で絞められたケースに分けられる
・道具を使った場合も、被害者の体格を考えるに犯人は男性と見て間違いない
(大柄で力のある女性も世には居るが、犯人が逃げ込んだとされる朝霧山荘は華奢な女性ばかりだ)
■アリバイも動機も全部外して、男性を挙げてみる。
高嶋篤哉(僕)
松村滋(伝言メモなど怪しい動きが気になる)
堀口瑞人(麻薬売人だ)
本村和樹(兄貴肌)
橘潤一郎(怪盗スペードジャック)
山崎和夫(一月十六日・午前中死亡)
山田孝樹(一月十七日・午前中死亡)
黒井警部
田村亮介(忘れられがちだが、オーナーの名前である)
この中から、探し当てなくてはいけないのが
・連続絞殺魔
・麻薬捜査官
当然だが、山崎さんと山田さんは外れる。
絞殺は男性にしか無理だとして、麻薬捜査官は……いや、香山さんは若すぎる。無いな。
やはり、以上の中に居るのだろう。
オーナーも真奈さんも、この山荘を構えて三年だ。急遽送りこまれた捜査官ということは無い。
山荘のパンフレットに夫妻の顔写真は掲載されていないので、入れ替わりでやってきた捜査官コンビだったらどうしようもないが。
捜査官は松村さんか、本村さん。
麻薬の後片付けを引き受けるといった橘さんが兼ねていることも考えられるが、そうであれば最初から捜査官を名乗れば済む。ポーズを取りたかったと言いかねないけど。
捜査官がどちらか確定すれば、殺人犯も自ずと知れる……が、五件の殺人が全て同一犯であるとは限らないのだ。
山田さんの胸に置かれていたスペードジャックの偽カード。
目にしたわけではないが、村上さんだけが受けた乱暴。
これをどう説明する?
怪盗スペードジャックが、殺しをしないとも限らない。殺しの時だけ、赤いカードを置くのかもしれない。恩人に対して失礼だけれど。
堀口さんも同様だ。取引相手が僕だけとは限らず、仕事内容が麻薬売買だけとも限らない。
……誰も話題にしないから忘れかけていたことがもう一つあった。
■西原和幸 三十二歳 ゲームのシナリオライター
この男が正体を隠して紛れ込んでいる可能性があるのだ。つまり、連続絞殺魔の正体だ。
そうなると、「麻薬捜査官」「西原和幸」これでカードはピタリとハマる。
西原が全ての犯人では無いとしても、幾つかに関与していると予測される。
自称の年齢が事実であれば、本村さんか堀口さんになるが、職と名前を偽り、年齢だけ事実というのも不自然だ。僕とは事情が違う。
そうだな……。こんな筋書きはどうだろう。
東京で上司を殺し、フラフラと辿りついたスキー場で二人殺した西原和幸。
三人を手に掛けたところで我に返り(しかも、三人目は女子学生だ。罪悪感も芽生えるのでは)、逃亡先として朝霧山荘へ転がり込む。
しかし、そこへ警察が現われた。これ以上の犯行は己の首を絞めるだけ。できるだけ大人しくしてやり過ごすのが賢明だろう。
対して、それを耳にした男が模倣犯を思いつく。絞殺魔の手口で殺していけば、雪が晴れると共に正体が明かされるであろう西原和幸へ、全ての罪を着せられる。
こうなると「西原和幸以外」の、誰かしらに殺意を持つ男であれば誰でも犯人になり得る。僕と堀口さんのように因果関係のある人物、逆上による衝動的な行為、なんでもアリだ。
「苦しいか」
山田さんの際の、偽カードの説明がつかないや。アレは、なんだったのだろうか。
絞殺魔に罪を着せるなら無駄な行為でしかない。絞殺魔こそ、スペードジャックに罪を着せようとした行為なのだろう。
独り言に、僕の腹が応えた。
うん、お腹が空いたね。
熱いコーヒーを飲んで、頭の巡りも良くしないと。
僕にとって、食事の時間が唯一の楽しみでもあった。
真奈さんに会える。苦しい状況で、倒れそうになりながらでも耐える姿は活力を分けてくれた。
基本的に平和ボケである僕に、喝を入れてくれる。がんばろうという、気持ちの羅針盤だった。
不思議なものだ。聞けば年は僕と同じだった。年上だと思ってた……。小柄ながら安心感を与えてくれる雰囲気は、彼女の個性か人妻ゆえか。
妹と同じ年頃の香山さんも健気で可愛らしいが、それとは違う、憧れの様なものを僕は真奈さんに抱いていた。
ひと冬の、ほんの数日の、誰にも知られることのない感情だ。
重沢の雪原にそっと埋めてゆくつもりだ。
『あら、高嶋さんったら』
小さなことで、真奈さんに笑って欲しい。
命を懸けて僕が守る!
犯人はこの中に居る!
そんな大袈裟なことを考えているわけじゃない。
嗚呼、日常は未だ雪の中か。早く融けて、顔を見せてくれないか。
一月十八日 、午前六時四十五分。
食堂。
いつもなら既に朝食を終え、事件について警部さんから報告を受ける頃だ。
男四人が、何を言うでなく席に着いていた。
この現状に、言葉が出なかった。
ひとつ。食堂に電気が点いていなかった。
ひとつ。食事の準備の一切がされていなかった。
ひとつ。調理室へ声をかけても誰も出てこなかった。
ひとつ。本村和樹が、姿を見せない。
僕は未だ、夢の中にいるのだろうか。
「あ、警部さん」
僕が呟くと、残る三人も調理室へ目を向けた。
苦々しい表情、重い足取りで黒井警部が姿を見せる。
とりあえずあるもので、と僕はフリードリンクスペースから四人分のお茶をテーブルに置いていたので、嫌な予感を抱えつつも警部さんにも用意した。
「さて、みなさん……あるいはお気づきの方もいらっしゃると思いますが」
会釈を返し、お茶を一口飲んでから警部さんは切り出した。
昨夜から今朝に掛けて、二つの殺人が起きたという。
ひとつ。十七日午後十一時五十分頃。オーナー・田村亮介が事務室にて発見(山崎、山田と同じ手口)
ひとつ。十八日午前六時十分頃。本村和樹、自室にて発見(男の手によるもの)
夫人の真奈さんが、夜遅く事務室から戻らないオーナーを心配して向かった先で発見し、あまりのショックから今は自室で臥せっているという。村上さんの件を考えて香山さんを付き添いに残し、内側からチェーンロックをかけているそうだ。
本村さんについては、食堂に集まる面々を確認していた警部さんが彼一人来ないのを不審に思い、部屋を訪ねたところ施錠されておらず、仰向けの状態で倒れていたのを発見したという。だから、何時頃に犯行が起きたのかは不明だ。
「驚いたことに、本村さんの着衣には身分証明書があり、彼が麻薬捜査官であることがわかったのです。 本名は島崎徹。三十二歳とのこと」
今朝がたのラジオで、覆面捜査中の刑事が行方不明になったとのニュースがあり、恐らくこの人物であろうということ。
正確には麻薬取り締まりと警察は管轄が違うらしいが、実際の職名でニュースに流した方が物騒だ。知る人が聞けばわかるような内容にしてあるのだろう。
――なんてこった
隣室で……そんなことが。
気付かなかった。……いつだ? 僕と橘さんが倉庫に居る間か、僕が寝静まってからか……。
戻ってからも、そして今朝も、ドアに異変は見られなかった。
僕は一瞬だけ、堀口さんへ視線を走らせた。彼に気付かれる前に、すぐ戻す。
犯人は、堀口さんだと思ったのだ。
麻薬取引。このキーワードで括られるのは、僕と堀口さん、橘さんだけなのだから。
橘さんは取引を知っているが外部の人間で、怪盗という正体ゆえに黒井警部のことはともかく麻薬捜査官を警戒する必要が無い。
そして僕は巻きこまれた民間人なので、上手くすれば泣きつくことができる。こんな形になる前に知りたかった……。
『本村さんの命を狙うのは堀口さんしかいない』
あるいは無差別犯行の絞殺魔だ。しかし、オーナーも殺されているので混乱が大きい。
この場で深く考える余裕はない。オーナー殺害について意識を移すことにする。
午後十時から午前零時前。
僕が橘さんと別れ、部屋に居た頃か。他の二人の話を聞かないと何とも言えないなぁ。
この段階で、これ以上の推察は無理だ。部屋に戻らないと整理できない。
諦めて、そして一番気になることを思い浮かべた。
……真奈さん。
今、どんな思いでいるのだろう。
『人質の為に死線をくぐり抜けてきた一般人が、心の支えを取り戻せないと思った瞬間に見せる衝動的行動は実に恐ろしい』
真綾の身をしきりに案じていた時の、僕自身の思いを呼び起こす。
真奈さん。真奈さん。支え合って、山荘を切り盛りしてきて、事件に巻き込まれて……守り続けてくれた、旦那さんがこんなことに。
彼女は今、どんな思いで居るのだろう。
もし僕が、橘さんから真綾の死を告げられていたなら、どんな行動をとっていただろう。
想像しかできない。直接の力にはなってあげられない。
妹の無事を知った僕が、旦那さんを失った真奈さんへ何が言えると思う? なにができると……。
甘えていたんだと思う。僕は、真奈さんの優しさに。強さに。
足元から失った日常を、必死に平静を装おうとする真奈さんに求めてしまった。
気を失い、臥せっていると聞いて、僕は安心した。
ようやく、真奈さんは休むことができたのかもしれない。ずっと神経を張り詰め続けてきたのだ。
香山さんに見守られて、今の間は全てが悪い夢だと思って、優しい記憶の中に居てくれたならと願うしかない。
「今朝は早朝から天候も回復し、この様子では午後には除雪作業も進んで、この山荘にも救援が来ると思われます。みなさん、あと少しの辛抱ですぞ」
連続殺人犯・西原へ怒りの叫びをあげた後、警部さんがこの先の見通しを話してくれた。
午後……。
未解決の、謎のメモ。ジムの天井裏、昼に全員へ話せ。
二人の死者が出て、加害者候補がぐっと絞られた。この中での単独行動は危険だ。かといって固まっていては抜け出る時に狙い撃ちされかねない。西原和幸が、今も誰かに殺意を抱いているかは解らないが、僕個人として要注意人物が一人、いるのだから。
先の推理から、メモの主は麻薬捜査官ではないと導き出している。つまり本村さんではない。
もちろん、堀口さん、橘さんでもない。
そうなると、松村さんしか――
そこまで考えて、ふっと思い至った。
ジムの天井裏なんて『初めて山荘に来る人間が、気にかけるような場所じゃない』、これは僕の感想だった。
山荘の人たちからのメッセージ、とも考えられるか。
香山さんや真奈さん、力の無い女性から言い出しにくいメッセージ。在り得る。
警部さんやオーナーといった、頼りになる男性が傍に居ながら、なぜ僕へのメッセージなのだろう。
『ギターを探している』と公言し、単独で走り回っているから動かしやすい?
僕宛てのメッセージの理由、としては……そうか、それだ。僕は公然として単独行動を取れる。
「どうしても気になるので、やっぱり探してきます」。怪しくても、誰も止めることはできない。付き添いを断ることもできる。
『他の誰にも行けない場所・出来ない行動が、高嶋篤哉には可能である』
今まで自分のことで手いっぱいだったので気付かなかったが、それゆえの「カード」を、僕は手にしていた。
メモの真意はわからない。罠、懇願、ヒント、表裏一体のメッセージだ。乗るべきか引くべきか。
いずれにせよ乗ることも、違う行動を選ぶことも、自然な理由づけで可能というわけだ。
殺人犯に謎のメモ。考えることは多い。しかし、事件終了は時間制限付きで、あと半日ほど。
犯人を突きとめられないまま解放となるか(もちろん、山を降りてからの拘束はあるだろう)、解明して二時間ドラマよろしく予定調和で解散か。
あるいは、自分が最後の犠牲者となるか。うん、これは辞退したい。
更なる被害者は――さすがに無いだろう。生きている人間=犯人なのだから、減る分だけ容疑が濃くなる。
刃物や鈍器といった凶器での死因が山ほどであれば「バトルロワイヤルがありました。ぼくは隠れてました」で済むけれど、絞殺じゃそうはいかない。
下手な考えを巡らせていると、目の前に丼の乗ったトレイが置かれた。醤油の良い匂い、ほかほかの湯気。こ、これは……!
「取りあえず私が得意の牛どんを作りました。これでも食べて元気を出してください!」
け、警部さん!
調理室に戻ったので、証拠品でも持ってくるのかと思ったら!
誰も居ない食堂を不思議に思い、調理室を覗いた時に見た二つの鍋は御飯と具材だったらしい。
深夜にオーナーの死を聞かされて、夫人と香山さんに指示を出して。
もちろん、宿泊客たちの動向も気に掛けていただろう。その時間の合間で、用意してくれたのか……
こんな状況だというのに、思わず鼻の奥がツンとしてしまう。
「せっかく警部さんが用意して下さったんだし、この人数ですし……食べながらでも良いでしょうか。ふふ、カツ丼じゃないんですね」
尋問と言えば定番の。
僕は笑ったが、空笑いに滑った。
「あのギターは大切でしたが、働いてお金を貯めれば、またいつか同じタイプのものを手に入れることができます。今は、取り返しのつかないことにならないよう、注意を払うことが先決だと思いました」
夕食後はギター探し、それから諦めて自室に籠ったことにした。そんな大きな嘘じゃない。
そして大切な鞄の話題は、もうしませんよ。そんな意味を込めて、僕は話す。届くと良いんだけど!
手短に切り上げて、僕はおかわりのお茶の準備へと席を立つ。
「本村さんは刑事だったんでしょう? そんな人までが殺されるなんて、隠れても無駄なのかもしれません」
ずっと自室に居たのだという松村さんが、不安げに続く。
来た!
僕は飛び付きそうになるのを堪え、一呼吸置いて繋げた。
「そうですね……全員で固まっている方が安全かもしれません。誰かが何か行動を起こしても、取り押さえられるでしょう」
本村さんが用心深かった事は皆知っている。まぁ、自室に居ましたと申告しても、それが本当かどうかは目撃情報なんてないのだからなんともいえない。松村さんの今回の証言だって真相はわからない。
犯人として疑われるより命が大事。最終的に辿りつくのはそこだ。そして、犯人もそれを利用する。だから、単独行動は危険なのだ。ギターという名の鞄を探し歩く僕も、怪しまれている可能性は高い。一度、被害に遭っているから微妙だが、だからこそ命知らずの行動に映るはずだ。事実、こちらも命懸けで動いているんだけど。
毒を食らわば皿まで。それぞれのカップへお茶を注ぎ終えてから、具体的な提案へ持ち込む。
「ふ、はは、絞殺魔め、殺し過ぎて自分の首を絞めた! ……ということにはなりませんか。殺人鬼が一人いようが二人いようが、極端な話この場の全員がそうであろうが、互いに見張りあっていれば牽制になるでしょう」
そこで抜ける人物がいれば、それが怪しい。実に簡単な消去法だ。皮肉にも人数が少なくなったからこそ、効力を発揮する形だと思う。
これが真夜中だったら眠る順番も必要になるが、幸いなことに日中なのだ。救援の情報を待ちながら、全員で過ごせば問題ない。
腹の底は知れないが、皆もおおむね賛成のようだった。
「高嶋さんの意見には賛成ですね。呉越同舟で昼までは固まっていた方がよさそうです」
警部さん手製の牛丼を気に入ったらしい堀口さんまで続いた。
呉越同舟とはよく言ったものだ。全くその通りである。刑事、怪盗、麻薬売人、取引代理人、殺人者の乗り合わせ。酷い舟だ。
「娯楽室あたりではいかがでしょう? ジムでも良いんですが私はあまり体を動かさない主義なもので」
……ジム。堀口さんはジムを避ける、か。
いや、少ないとはいえこの人数でジムというのはさすがにあり得ない。卓球台もあるという話だが、昼までなんて間が持つわけがない。
食堂を待機場所に提案した僕に対しての堀口さんの発言は、僕の想像を超えたところに着地した。
食堂、娯楽室。大勢で長時間を過ごすのに無難な場所。
対してジムは、集団であれば寄りつく訳がない。
単独行動をとり、探しやすくなる。
待ち伏せもしやすくなる、が。ハハ。
「特に反対意見がないようでしたら、……そうですね、娯楽室の方が香山さん達も過ごしやすいですよね。オーナー夫人も起き上がれるようでしたら、お二人も一緒の方がいいでしょうか」
そうだ。警部さんの牛丼のお礼に、今度は僕がギターを弾きますよ。音楽で腹は膨れませんが気持ちは和みます。
すいすいと、話を誘導する。娯楽室の片隅にはギターがあって、盗難の一件以来、弾いてもいいのだとオーナーからも言われていたのだ。
が、黒井警部は渋い表情のままだった。
「夫人はまだ無理かもしれませんなあ。まあ理沙くんにはしっかりとロックするように言ってますし二人は大丈夫だと思いますよ」
そして黒井警部は女性たちの警護に付くということ。
それもそうか。
黒井警部の目があれば、呉越同舟も怖くないと思ったんだけどな……。甘かった。
僕のギターも事件が終わったら、ということになった。
「その時は二人でデュエットでもしましょうか。実はかくいう私も若い頃はギターを弾いてましてね。歌声喫茶じゃちょっとした人気者で結構モテていたんですよ。いやあ、あの頃はよかったなあ……」
歌声喫茶かぁ……。懐かしい響きだ。田舎に、まだ残っていた気がする。
「札幌オリンピックのテーマとか如何です。アハハ……」
しかし意外にも、黒井警部はノリノリだな。
「そうですか……。警部さんがそうおっしゃるのなら。その曲なら僕も知っています。この事件のエンディングにはぴったりですね。どうか、皆で聞けますように」
親の青春時代の曲で、酔うと両親がよく歌うんだ。真綾がキャアキャア喜んで、僕は調子に乗ってギターを弾いた。
父は仕事人間だけど、その分、一緒に居られる時間を大切にしてくれる人だった。
家族の為に、仕事を一生懸命している。幼い頃はそれが理解できなくて、旅行しただの外食しただの、友人の話を聞いては拗ねていたものだった。
あの曲は、橘家の数少ない暖かい記憶の一つなのだ。それを黒井警部が指名したことが、なんだか嬉しかった。
歌えるといい。聞かせられるといい。真奈さんに届くといい。
殺人犯も麻薬売人も、この際まとめて皆して生き延びて、悪夢のような非日常から別れを告げられたらいい。
「娯楽室ですね。分かりました。四人で申し合わせれば、例え誰かが抜けても大丈夫ですね」
きっと誰もが考えの一つに入れているだろう『誰かが抜ける』。それを口にしたのは、松村さんだった。
一度は自室へ戻ることになり、僕はチェーンロックを掛けてからドアに背を預ける。
娯楽室に集合という形になったが、果たして素直に揃うかどうか。
僕だってタイミングを計り、中抜けしてジムへ向かおうと考えている。
最初から誰かが欠けていたら、あるいは誰かが先に抜けたら、待ち伏せされる可能性がある。
そして運よく先に抜けたとして、帰りを待ち伏せされている可能性がある。
全員が疑心暗鬼になっている中、誰かが心のバランスを崩してバトルロワイヤル勃発も勘弁だ。
今一度、チェックすべき事、考えうることを整理しておく必要があるだろう。
十五分程度の遅れは許してもらおう。
今朝の報告から導き出せることを、起きぬけに走り書きしていたメモに補足する。
まず、残念な形で一つのカードがハマった。
■麻薬捜査官=本村和樹(手による絞殺)
そして確定事項だ。
■高嶋篤哉=僕・麻薬買い手代理
■堀口瑞人=麻薬売人
■橘潤一郎=怪盗スペードジャック
■田村亮介=朝霧山荘オーナー。もともとアリバイがはっきりしているので、翻しようがない
■黒井警部=警察。
正体がはっきりしていないのは
■松村滋
■山崎和夫=一月十六日・午前中死亡
■山田孝樹=一月十七日・午前中死亡
とにかく外堀から埋めていく。
本村さん殺害の件だ。
それぞれの正体から、反射的に堀口さんが犯人だと考えたけど、実際のところはどうだろう。
堀口さんが犯人であることを前提にシミュレーションしてみる。
本村さんが自室で発見されたことから推察するに、堀口さんが先に本村さんの正体を知り、手を打ったことになる。
別の場所で殺害してから本村さんの部屋まで遺体を運ぶという方法が考えにくいことは、犯人が堀口さん以外の場合でも同じだ。運ぶ途中に目撃される可能性があるのだから。本村さんは、自室に居て殺害された。これは確定だ。
とはいえ、誰もが自分以外の全てを疑っている状況で、安易に他人を招き入れるとも思えないな。
ドアノブの鍵は「器具」で開けられても、室内に人が居ればチェーンロックがある。
■本村さんが堀口さんを誘い、反撃にあった。
■誘うように堀口さんが仕組み、犯行に及んだ。
部屋に入りこむ方法としては、以上が考えられるかな。シンプルだ。おびき寄せた……と本村さんは考えたが、逆手に取られた結果ということだ。
本村さんが部屋を出ているうちに「器具」で鍵を開け、入りこんで待ち伏せるということも可能だ。
絞殺自体は、スタンガンなどで気絶させてしまえば誰でもできる。
堀口さんであれば、ヨロシクナイ道具など幾らでも用意できるはずだ。眠るように死ぬ薬だってあるだろうけど、あえて絞殺魔の仕業に見せかけるための絞殺と思える。
オーナーの件がなければ、僕だって絞殺魔の仕業だと思ったかもしれない。
それから、橘さんからの言葉。堀口さんが、僕のことも狙っているという話。あれを聞いてしまった以上、堀口さんが本村さん殺害の犯人と断定するのに迷いはない。
事情聴取でも明確なアリバイはなかった。
犯人が絞殺魔であり、オーナーと立て続けに犯行に及んだ場合はどうだろう。
絞殺魔と堀口さんの違いはなんだろう。
……道具か?
今まで素手による犯行は、女性が二人。そして僕。僕以外の男性で、本村さん以外は全員に針金のような道具を使っている。
僕が未遂に終わった原因はわからない……そういえばアリバイを洗った時、僕がロビーを立ち去ってから数人がロビーで過ごしていた。犯人は、近付く気配を感じて立ち去ったのかもしれない。
『椅子に座れば体格差は無関係?』
そんなことも、考えたっけな。適用できるかな?
そうなると、僕が女性カテゴリの手段で殺されたことにも納得はいくが、本村さんはどうなる。
首を絞める道具は数あれど(いやだなぁ、こういう想像)、今のところ連続絞殺魔の犯行は「素手」および「針金状のもの」。椅子に座っていたというオーナーさえ、後者の方法で殺害されている。道具が尽きたので素手にしました、というわけではない。僕が絞殺魔だとして、オーナーと本村さんを殺したいと思った時、道具は本村さん相手に使うなぁ……。手ごわさから考えるに。
オーナーには疲労がたまっていたと話していた。絞殺魔に襲われること、自分の経営する山荘で客が被害に遭うこと、さぞかし神経をすり減らしていただろう。そんな相手と、常に自分の命だけに集中できる客とでは、抵抗したって力の違いは歴然だ。本村さんを殺害する方が困難。
「絞殺魔と堀口さんは、別。そして、堀口さんが本村さんを殺害した」
声に出して、確認してみる。
うん、そうだ。間違いないと思う。
■堀口瑞人=本村殺害:絞殺魔ではない。西原和幸でもない。
こうなる。
残っているカードは、西原和幸と絞殺魔。
警部さんはイコールで結んでいたが、山崎さん・オーナーは同一手法だったとして、村上さんと山田さんの件がひっかかったままだ。
別人なんじゃ、ないのかなぁ?
絞殺魔は、生きている。これは確かだ。
しかし……西村和幸は、既に死んでいるかもしれない。
だとしたら。
「……山田さん?」
ゲームのシナリオライターをしていたという西原和幸。
なかなかディープなゲームに詳しかった山田さんがそうであってもおかしくはなかった。
純朴な印象だったが、缶詰での制作生活が長い故、ということも考えられる。この山荘に着いて、叱咤ばかりだった会社を出てからようやく人の温かさに触れた。
この流れは悪くないと思う。
ディレクターを殺害しての逃亡だから、身元証明になるようなものは残しているまい。携帯に触れていたのも、危険なデータを消していたとも思える。
宿の予約は十四日だったか。
ディレクターの死体が発見されたのは十五日朝、ということは殺害されたのは十四日となる。
殺害してから、逃亡しようとして宿を確保した。しかし、バスは翌朝に出る便しかなかった。
それなら辻褄が合うんじゃないか……
死人に口なしとはいうけれど……。
殺人の全てが西原の犯行だと決めるには手法にムラがある。
そこへ、西原の模倣犯が居ると仮定すれば解決できるのだ。
――つまり
■山田孝樹=西原和幸
■松村滋=絞殺魔
アリバイの不確かさ、伝言メモの怪しげな行動から、僕は松村さん以外に絞殺魔を思い浮かべることができなかった。
松村さんには演劇の経験があるという。事情聴取の際の、自分の番で突然に様子が変わるのはそのせいなのだろう。
「アリバイ……か」
そういえば、村上さんの件だけ、松村さんにはアリバイがしっかりとあるんだ。堀口さんがずっと一緒だった。他にも証言がある。
まさか、山田さんが村上さんを?
香山さんを訪ねたら村上さんしかおらず、トラブルが起きた、とか。
絞殺魔は、自分以外の人間が殺人を犯したと知り、容疑の矛先を撹乱しようと試みる。
そこで山田さんへの偽カード。しかしタイミングが悪く本物の怪盗が同じ頃に僕の部屋を襲っていたので、ますます混乱。
そのまま事件が終われば、「怪盗スペードジャックが、盗むフリをして実は殺人もしていた」チャンチャン、で済むというのに……今朝の、二つの事件だ。
本当に、自分の首を絞めてるとしか思えない……。
どうせなら、それぞれにもカードを置いていけばいいのに。
完全に決め手となる証拠とはいかないが、残っている選択肢から、僕は以上を予想した。
ほんと、「お客様の中に名探偵は居りませんかー」と叫びたい気分だ。
僕には手に余る。
とにかく、松村さんと堀口さんには要注意。二人きりにはならないように。
謎のメモは、どうしようか?
イマイチ踏ん切りのつかないまま、僕はドアが開放されたままの娯楽室へ踏み入った。
「おや」
「あれ」
堀口さん一人。
「他の二人は……」
「うん? 橘さんがまだですか」
僕のピタリと背後で、松村さんの声がした。
「うわっ」
「やだな、高嶋さん。そんな、殺人犯に背後に付かれたみたいに」
「実際に付かれた身なんですから、もう……」
「それは悪かった」
松村さんは爽やかに笑い、僕を越してソファに座る。
危なかったぁああああ……
堀口さんと二人きりだったらどうしようかと。
胸をなでおろし、僕も適当な位置に座った。
今回も、堀口さんセレクトの洋画だ。堀口さんは怖いけれども、洋画のセンスは良いなと思った。が、このタイミングでマフィア物はいかがかな、とも思った。面白いんだけども笑えない。
待てど暮らせど、橘さんは来なかった。
僕を守るって真綾に約束したんじゃないんですかー。
殺人犯(ほぼ確定)と連続殺人犯(可能性濃厚)との洋画観賞(マフィア物)は、まったくもって生きた心地がいたしません。
一月十八日、午前十時。
ジュースを買ってきます、そう告げて僕は娯楽室から抜け出した。ジムの天井を調べるためだ。
堀口さんか松村さんが娯楽室へ来ないようであれば自重も考えていたが、幸い抜けたのは安全牌の橘さん。行動に移すなら今だ。
「自分の分も」と頼まれもせず、一緒に行くよと名乗り出もされず、僕はシンとした山荘内を歩き始めた。
ここまできたら、アリバイもヘッタクレもない。変な開き直りが互いにあるのだと思う。一か所に集うのは監視という名の自衛策だ。
僕はわざとスリッパの音を立てながら歩く。僕以外の音に気付けるように。
階段を下りて、吹き抜けを見上げる――、怪しい影は無い、かな。娯楽室からは、二本目の洋画が始まったらしく、今度は美しいBGMの あれ、これ、トトロ? なに可愛いものを観ているんだ堀口さん! 懐かしいな、僕も観たかった。天井裏に異変がなければ、ジュースを三本買って娯楽室に戻ろうっと。
「夢だけど、夢じゃなかったー」
現状を思えばキツイ台詞を口ずさみ、僕は自動販売機を越えて角をまがった。
それから約十分後。
ジム内に、物が崩れ落ちる派手な音が響き渡った。
「夢じゃなかっ いったぁああああああああ!」
僕は積み上げた椅子から派手に落ち、腰をしたたかに打った。痛い! これは痛い!
ストレッチや簡単な運動ができるように、ジムの床は体育館のような弾力をもっていて、そのお陰で大きな怪我は避けられた。
防音施設だから、情けない僕の悲鳴丸ごと誰にも聞かれていないはずだ。色々と幸運だった。
『ジムの天井裏』そんなメッセージがなければ気に留めないほどの違和が、天井の一角にあった。
折りたたまれていた古い卓球台だの椅子だのを重ね、天井板へ指先を引っ掛ければ容易く外れる。
なんでまた、お誂え向きに……。ひょい、と中へ首をのばす。這いつくばれば、大人も移動できるくらいの空間が広がっていた。
防音効果の為か、それとも……と、考えを巡らせながら右を向く。……あった! 鞄だ!
僕が持参したものだ。つまり、堀口さんへ渡したもの。
橘さんが僕から攫った麻薬鞄ではなく、僕が持ち込んだ現金鞄・つまり堀口さんの持ち物が隠されていたんだ!
「本当かなぁ……」
似たような、別の鞄かもしれない。僕だって中身は見ていなかったけれど、たぶんぎっしりと札束が
――詰まっていた。
そこで僕は動転し、転倒し、落下した。
無理。容量超えた。
鞄をキチンと閉めたかは自信が無い。
とりあえず天井板を戻し、卓球台の類もガタガタだが戻し、勢いよくジムのドアを開け、有無を言わさぬスピードで部屋に戻った。
仮に僕を襲おうとして待ちかまえている殺人犯が居たとしてもドン引きしていたと思う。
娯楽室からは、相変わらず可愛らしい音楽が聞こえていた気がする。
腰の痛みだけが、夢ではないことをしきりにアピールしている。
あぁ、わかってる。ずっとわかってる!
これは現実なんだ。
この山荘内で、五人も殺された。
麻薬の取引が行われた。
その情報を得ていた麻薬捜査官も潜入していた。
事件に巻き込まれた一般人を救うべく怪盗も紛れ込んでいた。
僕はその一般人で、一般人なのに、妹を人質に取られ麻薬取引に一枚噛み無差別殺人犯に首を絞められ取引を終えた麻薬を盗まれ取引相手に命を狙われ牛丼ウマカッタデス!
「無理!」
自室に籠り、いま一度、言葉にして叫んだ。
遺体を目の当たりにはしていないから、殺人と言われても非日常だった。
麻薬なんてテレビのドキュメントで視るものだという認識からして非日常だった。
突きつけられた拳銃! 上に同じ!
首を絞められたといっても自分は生きている。疲労の蓄積からの幻覚と片づけることもできた。
僕にとって確かなことは、人質に取られてしまった真綾の叫び声。
そして辿りついた山荘での真奈さんの笑顔。それだけだった。
「福沢諭吉はリアルなんだよ…………」
ここにきて、庶民の弱点を突かれるとは思わなかった。
あれ、金額はいくら分だろう。
ドラマ的には一億円! とかそういう単位しか浮かばない。クイズ番組で見せる百万円というレベルではなかった。
なんだか急に泣きたくなってきた。別に命を狙われたわけじゃない。強烈なショックで感情を制御できなくなってきたんだ。
「一億円があったなら」
僕は何をするだろう。もう、現実逃避してしまえ。
海外旅行? 家を建てる? 会社経営? 結婚相手も居ないしなぁ、富を得てから出会う女性はちょっと信用できなくなりそう。
一生遊んで暮らせるだろうか。
……一生。たとえば、こんな山荘の一室を買い上げて。ときどき仕事を手伝って。
僕は料理こそできないが、力仕事や情報処理関係は得意分野だ。
夏と冬には、新人OLの真綾が遊びに来る。
『真奈さんみたいなお姉さんが欲しい!』
そんな風に笑っては真奈さんを困らせる。
『真綾ちゃんったら…… そうね、私も』
真奈さんが、僕を見上げる。そして言うんだ。
「祐樹さんみたいな、お兄さんが居たら嬉しいわ」
現実逃避終了。
我ながらこれは酷い。せめて弟になりたい。もっと酷いな。
「……元気だな」
ハハハ。声に出して確認する。くだらない妄想をする程度には、元気だ。
妄想は、時として人に元気を与える。くじけてはいけない。妄想を突き放すことができた自分を褒めろ。……無理。
とりあえず、ある程度は立ち直った。
「真綾。おにいちゃんに勇気を下さい」
財布に入れて持ち歩いている、兄妹で撮った写真を取り出して眺める。真綾の大学の入学式だから……二年前か。
オフホワイトに、濃いめのピンクの縁取りが可愛らしいスーツを身にまとった真綾。
着古したビジネススーツに、誕生日プレゼントで真綾からもらったネクタイ(本人には言えずじまいだが趣味が悪く、この時初めて日の目を見た)を締めている僕。
ひらひらと、桜の花びらが雪のように舞っていたことを思い出す。
『困ったことがあれば、なんでも相談しろよ』
『そうだね。アパートが同じ区内だから、お兄ちゃ……兄さんが困った時には、私が助けに行ってあげる』
ははは、ちょっと離れちゃったけど。僕のピンチに怪盗を送りこむとは、さすがだ真綾。
真綾はとっくに、僕を助けてくれていたんだ。
……橘さん。ありがとう。
娯楽室に姿を見せなかったのは、あとは僕一人で切り抜けられるという判断か。だったら誇らしい事は無いな。
怪盗にも、他になすべきことがあるのかもしれない。深追いはしない。
愛しい日常を確認して、ゆっくりと平静を取り戻す。
娯楽室には、もう戻れないな。
見事な取り乱しようを思い出し、苦く笑った。腰がズキズキ痛む。どれだけ酷い痣になっただろう。もういっそ、誰かに目撃されて指さして笑われた方が楽だ。
真奈さんや香山さんには、警部さんが護衛としてしっかり付いてくれている。
あの橘さんが容易に殺されるとも思えない。
僕も、ここに居る限りは狼が母親のふりをしてやって来たってチェーンロックを解くつもりはない。
堀口さんと、松村さん。
僕が殺人の容疑をかける二人の動向が、さっぱり知れない(僕が逃げ出したからだが)。二人でバトルロワイヤルしていたらどうしよう。犯人確定になるから、牽制し合うか……。
さぁ、昼の集合時間まで残り一時間を切った。
全員無事に、救出されることができるだろうか……
しばらくぶりの青空が、窓から覗いている。まっ青な空が。
夢、力、それとも――