12.昔の記憶
会わなければ……思い出さなければ良い。
そう思えば思うほど頭を締めるベルの残像が、これ程までに私の心を支配するとは……想像できなかった。
特に一人でいる寝所はなかなかに辛い。
ついこの間、ここにベルが一時でも寝ていたと思うと、良く分らない欲望が顔を出す。思わず引き寄せたシーツに顔を埋め「ベル……」と名前を呼んだ。返ってこない返事を幻聴で誤魔化すのは、一体何回目だろう。
一日の終わりが辛いと感じるのは、エロスの矢の恐ろしさなんだろうか。人は……神は……矢が無くともこんな感情になるのかと思うと、尚のこと自分には耐えられないと思い知らされる。矢があると解るから、解決するその日まで耐えればいいと……終わりが見えるから、まだ救いがあるのだ。
もし……ゼウスやヘラがもっと普通の神であったなら。
もし……私の背に矢など刺さらなければ。そしたら今、何も考えずベルに会えていたのではないか?
そう思う程、神が憎かった。
自由すぎる天界の神々が憎い。
自分たちの都合だけで人間を振り回し、人間界がどうなろうと構わず犠牲になった者達をまるで……まるで――
ふと、自室に飾られた一枚の絵に目が止まった。
気にも止めなかったそれには、子供の描いたような太陽と笑った顔がある。
「何故、人間が巻き込まれなければいけないんだ」
そうだ、私は許せなかったんだ……人間を最も簡単に傷つける彼らが。そうだ、だから私は私の力でどうにかしようと考えたんだ。
『お花がね、生まれ変わったの。ありがとう』
ふと過った誰かの言葉。靄が掛かる人影がやけに懐かしく、酷く感じた頭の痛みに「ゔ……」とくぐもった声が漏れた。
「ハデス様!!!!」
異変に気づいたタナトスとカロンに支えられるも、治まらない頭痛に頭を抱え、靄が掛かった断片的な場面が次々と溢れてくる。
『――だから神の都合に人間を巻き込まないでくれ……』
『お家花がね、生まれ変わったの。ありがとう。はい、水仙』
『今日一番綺麗に咲いてたからお渡ししようと包んだんです。水仙なんですけど』
『この水仙はいずれ枯れてしまうんだろうか……』
そうだ。
思い出した。
500年前にあの地を救ったのは、私だ。
***
500年前、エティオピアに突然現れた黒雲。
ゼウスが本気で愛した女神、それがイオだった。
ヘラという妻を持ちながらも、イオを手放せずにいたゼウスは、誰も立ち寄らないような島を密会の場として愛を育んだ。ヘラと離れる視野を徐々に広げたある日、誰の手招きか……ゼウスとイオのいる島にヘラが降り立った。
「ゼウスー! ここにいるのは分かってるわ。一緒にいる女と出てきて頂戴」
「……っ! ゼウス様……どうしましょう……」
「……君を手放したくないんだ。少しの間だけ、姿を変えて待ってて欲しい。いいね? 必ず迎えに行くから」
「わ……分かりました」
ゼウス一人でヘラの前に出たものの、辺りを見回すヘラはイオがいない苛立ちを隠さず大声を上げた。小さな島を飛び始めたヘラが見つけたのは、一頭の羊。鳴きもしない羊を抱え「おいで」と言って地上へ降り始めたヘラは、不毛の地に羊を降ろしながら「次はない」と告げて立ち去った。
ゼウスによって変えられた姿は、羊のイオに解けるはずもなくただひたすらゼウスを待ち続けた。
ヘラの仕業によって匂いを消された羊を探すのに数ヶ月が経った頃、ゼウスがイオを見つけた時には酷く衰弱していた。神は不滅、神は不死……頭で解っていても、目の前で酷くやつれた彼女を抱えて頭に血が昇ったゼウスは、怒りの感情のまま頭上に黒雲が広がり始めた。
こんな目に遭わせたくて彼女を愛したんじゃない。ただ、そのぬくもりを感じていたかった。
広がった黒雲から大地を揺るがす稲妻が何度も落ち、至る所から火の手が上がった。人々は、稲妻のあまりの大きさに慌てふためき、迫る火の手から逃れようと急いだ。追い討ちをかけるように大粒の雨が人々の体を冷やし、瞬く間に増した川が氾濫を起こした。
行手を阻まれた人間が死を覚悟した時、現れたのがハデスだった。雨に濡れるゼウスと、ゼウスに抱かれた羊の前に立ち、こう言った。
「羊は、私が預かろう。次ヘラに見つかれば命はない。必ず護る、だから神の都合に人間を巻き込まないでくれ……」
「…………ただ、愛しただけなのに……」
「私には解らぬ。だが、その愛が人間を殺して良い理由にならないのは確かだ。嵐を止めてくれ」
「…………」
羊を抱きしめた腕を緩め、涙と雨に濡れた顔を空へ向けて暫く、大地を滅茶苦茶にした黒雲が徐々に引き始めた。溢れた川が落ち着くには時間も掛かるだろう、焼けた野や家が再生するには余りにも時間が必要だ。
羊を受け取り、歩いて街に向かう後ろから「必ず迎えに行く!」そう叫ぶゼウスの声に振り返ることもなく、途方に暮れた人間の方へ向かった。
焼けた家の前で泣き崩れる者、子が川に流されたと悲観する母親、畑も消え、仕事を失った彼らに何が出来るか考えたがそれが正解なのか……償いのような気持ちで、野を再生させた。
「焼け跡が……消えた……!」
「見てっ、新しい葉っぱだ! 畑が蘇っているみたい」
「信じられない……こんな奇跡が、一体……」
雲の隙間から差す一筋の光芒が視線を集め、一人の老人が「幾重にも重なる黒いシルク……まさか貴方は……」と。そして、一人の少女が徐に近付き一輪の花を差し出した。
「お花がね、生まれ変わったの。ありがとう。はい、水仙」
「水仙……美しい花だ。いずれ会おう」
それだけ告げ、風と共に姿を消した。
もしかしたら自分がハデスだと気付いたかもしれない。だが、それでも良い。アスポデロスを冥界に創った時のように、地の再生に力を貸したこと、後悔などしていない。焼けた葉や花が死に、また生まれる。それは人も植物も変わりないのだ。
手にした水仙をその後どうしたかまでは覚えていない……。
確かなのは、記憶を失くして出た地上でベルに出会い、500年の時を経てまた水仙を手にした私の心を癒した事実。
思い出した記憶は500年前のそれだけで、それ以外は依然思い出せそうにない……。エロスの矢で創られた偽物の愛だと分かっていても、思い出した記憶は余計、ベルに会いたいと懸想するに至った。




