10.痣
ふわふわして、まるで柔らかいお布団に包まれてる様な気持ち良さ。このまま眠ってしまいたい……だけど、どうせ寝てしまうなら最後にハデス様に「おやすみなさい」って言いたいな……。
「入るよ?」
「…………だれ?」
今まで見た神様とは違う圧倒された存在感が眠かったはずの脳内に警告を鳴らす。
近づいてはダメ。
だけど……一度体に入ったお酒はまるで痺れ薬の様に、その警告すら曖昧にし始めた。きっと逃げなきゃいけない……でも、上手に体も動かないし、きっと大丈夫って思ってしまったの。
「貴方がベル? ハデスが連れてきた人間の娘なんだろう?」
「……そうです。貴方は?」
「私かい? 私は全知全能の神ゼウスだよ、聞いたことくらいあるだろう?」
「……はい」
聞いたことあるも何も、一番最初に学び覚える神様の名前をこうも目の前で聞くことになるとは思いもしなかった。圧倒的な存在感は神様の頂点に立つが故のものなのかもしれない。そう思うと、横になってた身体を無理矢理起こして姿勢を正そうとした。
上手く力の入らない腕のせいでバランスを崩した途端、ゼウス様に支えられる様に肩を借りてしまった。
「すっすいません! ゼウス様あの大丈夫です……」
「こんなに酔っている女性を黙って見ておけるほど出来た男じゃないんだ。落ち着くまでこうしてると良い。ところでハデスはどこに行ったの?」
「お……お水を取りに……」
行ったんだと思う。でもぼんやりする頭で思い返せば、私のせいでここを出て行ったのかもなんて……思ったりもするんだけど。もし今ハデス様が帰ってきたら……こんなところ見られたくない。触れられる感覚だってハデス様とは違う。私は……ハデス様だから隣にいたいって思ったんだ、こんなのダメだ。
「本当に大丈夫です。ご迷惑をお掛けしました、ゼウス様のお気遣いに感謝します」
「ふふっ、警戒されてしまったかな? 実はね、ここに来たのは貴方にハデスの昔話でもしてあげようと思ったからなんだ。聞きたくない? ここの庭園にはハデスに纏わる石碑もあるんだよ、少しだしここから目と鼻の先だから見たらすぐここに戻れば良いだろ? この私が直々に案内してあげるんだよ、来てくれるね?」
『神を怒らせると厄介だからな』
プロメテウスから前に教えてもらった言葉が頭をよぎった。威圧的になるゼウス様に逆らって怒らせたりしたら……私に罰が下されたり……プロメテウスにも迷惑がかかるかもしれない? それは困る。
「す……少しだけなら……」
「そうこなくっちゃ、足も力が上手く入らないだろう? さぁ行こう」
横抱きに軽々持ち上げられた私は、落ちない様にゼウス様に掴まったけど天蓋から出て景色が変わるたび後悔の念が強くなった。怒らせるのは怖いけど、なんでちゃんと天蓋でハデス様を待っていられなかったんだろう。
見上げるゼウス様の顔も、別に怒ってるわけじゃないのに怖い……まるで獲物を捕らえたような愉悦に浸る顔みたいに見えて仕方ない。
「やっぱり降ります、降ろしてっ!」
グッと力を込めて押し、降ろしてもらった私はゼウス様にお辞儀をして来た道を戻ろうと歩き出した。
「人間のくせに生意気だな〜」
歩き出した私の腕を掴んだ反動か、幾重にも重ねられたシルクの衣装が勢いよく宙を舞う。側から見ればダンスのワンシーンかもしれないけど、踊れない私の心に生まれた焦り。そして目付きの変わるゼウス様……。
「ゼウス様、どうか離してくださいませ」
「……名前は何と言った」
「……ベル……です」
「ベルか、気が変わった。ハデスの昔話でもしてやろうと思ったがお前の話を聞きたくなった。これは命令だベル、お前に拒否権はないよ。乱暴な事はしないから、向こうに見えるガゼボまで行こうじゃないか」
乱暴はしないと言うゼウス様に、引っ張られるようにガゼボまで来た私に、座るよう告げて二人で腰を下ろした。結局、ハデス様のところには帰れない……きっと部屋にいない私を探すかもしれない。ここにいるよって、どうやったら伝えられるんだろう。
それにゼウス様に掴まれた腕は、座った今も離してもらえない。また逃げると思われてるのかもしれないけど、逃げた所で所詮人間の私にはどうやったって神様には敵わない。
「ベル、お前の父と母は地上にいるのか?」
「お……お父さんもお母さんもいません。孤児だった私をプロメテウスが育ててくれました」
「ほぉプロメテウスとな、久々に名前を聞いた。プロメテウスに聞いた事はないのか? 父と母が誰なのか」
「きっと小さい頃は聞いたかもしれませんが覚えていません」
「そうか。この腕に付く痣についてプロメテウスから何か言われた事はあるかい?」
「……ないです。なんでですか?」
「この痣はね――」
生温かい風が吹き、背後に感じる殺気のような視線に思わず後ろを振り返った私は目を見開いた。私の前に被さるように立ったゼウス様が溢した「しまった」という言葉の意味をこれから思い知ることになるなんて。
「お前たちはそこで何をしてるんだい?」
「ヘラ、これは違うんだよ。何もないからそんな顔をするのは止めてくれ」
「何もない。隣の娘に触れたのを見た私に言うのか。人間の娘にまで現を抜かす亭主を持つ私の気持ちは、一体誰なら理解してくれるんだろう。本当腹が立つよ……ゼウス、その娘と話をするからどいてくれた」
「ヘラ、彼女はハデスの連れだ。私がハデスの元に返すから見逃してくれ」
「見逃すとは、似つかわしくない言葉を使うんだな。ゼウスの言葉の半分は信じないと言ったであろう。その娘と話をするから、そこをどけっ」
緊迫してるのは一目瞭然。
でも私は何もしてない。何もしてないことをきちんと説明しなくちゃいけない。だからゼウス様の前に出た。
「人間の娘、ハデスと共にいたというお前がここにいる理由を説明しておくれ」
「……あの……」
ここにいる理由、話をしようとゼウス様に連れてこられたなんて言ったら火に油を注ぐようなもの。
「なんだ説明できないのか? さっきお前の身体にゼウスが触れていたね?」
「ふ、触れてなんて……」
「触れていただろう!!」
一気に私へ近付いたヘラ様に、今にも食べられそうな距離で怒鳴られた私は思わず目を瞑るしかない。
怖い……どうしてこんな事に……。
「怖いか? 貞節を重んじる私に、この女好きの亭主め、そう悲しんだこともあったが、たぶらかす女も女……お前のような人間は地上に帰れば良い」
気付いた時には身体の自由を奪われて、不思議な力で宙に放り投げられた。
一瞬の出来事に声も出せず、辺りが走馬灯のようにゆっくりに見えるのは……死んでしまうから……?
「ベル――!!!」
私の名前が聞こえた気がする。
どうせ最後に呼ばれるなら……ハデス様が良かった――




