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トレーシング・ユア・ワールド  作者: あやめ康太朗
第7章 家族

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第3話 対面①

 じりじりと降り注ぐ昼の日差し。自転車のハンドルを握る、制服の袖から出た腕がチリチリと痛い。柚はうなだれて「あー」と嘆いた。



 八月に入り、日に日に増す暑さ。毎日、小学生たちが短パンとサンダルで草むらを駆け回っている。


 そんな夏休み真っ最中だというのに柚が制服を着ているのは、夏期補習という名の授業のために学校に行かなければならないからだった。


 進学校も自称できないくらいの公立高校だというのに、中途半端に勉強の機会を設けようとしてくるのが困る。しかも、授業は午前中だけであるため、太陽が一番高い位置にある時間に自転車で帰宅しなければいけないのが余計に億劫だった。



 自宅のある森に入る。生い茂る木々の下の空気は、直射日光を浴びていた肌に涼しかった。それでも、汗が引くほどの涼しさはない。


「暑いー」


 木々の間から覗く空を見て嘆く。すると、その空の面積が、緩やかに小さくなっていった。あれ、と柚は思う。


 視線を前に戻すと、普段よりも広く開かれた道が伸びていた。ひんやりとした影で全体を覆った道に、爽やかな風が通り抜けていく。その様子に、柚は軽く首をかしげた。


 どういうことだ。

 今日はやけに機嫌がいい。


 こんなに優しい森は滅多に見ない。一体どうしたというのだろう。蓮人が何か特別なことをしたのだろうか。


 不思議に思いながら、いつもより通りやすくなった道を進む。そうして、最短記録を更新しそうなくらいの時間で自宅前の目印まで到着した。



 柚が近づくたびに広がる木々の隙間。その間から見えた、一人の少女の後ろ姿。息を吐くように、あ、と柚はつぶやいた。


 暑さを感じさせない、澄んだ空気の中で、ふわり、と髪が風になびく。思わず見惚れてしまうその背中に、夢を見ているような心地のまま、柚は呼びかける。


「……翠ちゃん?」


 名前を呼ばれた少女が、ゆっくりと振り返る。そして、柚の姿を認めると、彼女はパッと表情を明るくした。


「柚ちゃん」


 涼風に鳴る風鈴のような澄んだ声が、柚の名前を呼ぶ。


「ごめんね、急に来て」



     




「本当にごめんね、急に来ちゃって」


 机に二つのグラスを置きながら、翠が申し訳なさそうに言った。グラスの中には、翠が持ってきてくれた茶葉で入れたアイスティー。透き通った飴色が、生活感あふれるダイニングの中央で輝いている。


「いつでも来てもらって大丈夫だよ。こちらこそ、たくさんお土産持ってきてくれてありがとう」


 柚は、机の上に置かれた紙袋を見遣った。おしゃれなデザインのロゴが印刷された紙袋が三つ。中身はお菓子や飲み物などらしい。柚には分からないけれど、あの光咲翠が買ってきたのだから、おそらくどれも有名なブランドなのだろう。


「前に助けてもらったお礼もまだできてないから。見つけてもらえなかったらどうなってたんだろうって思うと、むしろ全然足りないくらい」


 微笑んで、翠は言った。


「みんなの好みが分からないから色々買ってきたんだけど、大丈夫かな。食べられないものとかある?」

「全然全然。みんな何でも喜んで食べるから。本当にありがたいよ」


 食べるものがないときは、およそ食べ物とは言い難い草だって食していたのだ。食べ物なら何だって嬉しいに決まっていた。


「そっか。それならよかった」


 食い気味に答えてありがたがる卑しい柚に、翠は聖母のごとく優しい笑顔を向けた。浄化されそうだった。



 座るように翠に促して、柚も彼女の正面の席に座る。

 席に着くと、翠は少し視線をさまよわせた。


「今日は、蓮人さんは?」

「今日は大学行ってるよ。その後バイトだから、夜までは帰ってこないと思う」

「……そっか」


 吐息のように、翠は小さくそう言った。変わらない穏やかなその表情には、落胆が薄っすら滲んでいる。そこで、彼女がここまで来た目的は、蓮人に会うことなのだと気づいた。


「お兄ちゃんに何かあった?」


 ここで気づかない振りをするのも良くないだろう。大事な用事なら、蓮人に伝えないといけない。そう思って尋ねると、翠は「ううん」と緩やかに首を横に振った。


「何でもないの。もし会えたら、前のお礼が言いたいなって思ってただけ」


 本当に何でもないような様子で、翠は答えた。その姿を見ていると、何だか申し訳なくなってくる。


 昨日だったら、兄は大学のレポートとテスト勉強のために家にいたから、ちょうど運が悪かった。わざわざ遠くから時間をかけてきてくれたというのに、空振りとなるのはさすがに残念過ぎる。


 遅くはなるけれど、夜まで待てば蓮人と会うことは叶うだろう。場合によっては、またここに泊まっていけばいい。そう思い、柚は翠に尋ねた。


「翠ちゃんは、今日はお休み?」


 柚の質問に、翠は少し眉を下げて微笑んだ。


「今日は夕方からレッスンがあるんだけど、それまでは何もないから、急に思い立ってここまで来てみたの。だから、少ししたら、またここを出ないといけなくて」

「そうなんだ」


 夕方から予定を控える中、わざわざ間を縫って来てくれたのか、と柚は驚く。都心からここまで来るのなんて、ただ距離があるだけでなく、乗り継ぎの多さや電車の本数の少なさもあって本当に骨が折れるというのに。


「やっぱり忙しそうだね」

「そんなことないよ。元々映画の撮影で予定が埋まってたから、それがなくなって突然暇な時間ができちゃった」


 翠はそう言った。その言葉に、柚はそういえば、と思う。


「撮影、今止まってるんだっけ」

「うん。あんなことがあったからね」


 あんなこと。

 T市での撮影中に起きた、翠を狙った爆破事件。


 あの事件の数日後から、テレビでもネットでも、あらゆるところで撮影の中止が報じられている。いつも通り、学校でもクラスメイトが騒いでいた。


「翠ちゃん、大丈夫だった?」

 尋ねると、翠は「うん」と頷いた。


「私は大丈夫。助けてもらったから怪我もなかったし。でも、爆発や混乱で怪我した人もいるみたいから、それは心配かな」


 翠の言う通り、今回の事件では怪我人が多く出たらしい。事件に使われた爆弾には人を殺せるほどの威力はなく、ただのパフォーマンス目的だったということで、幸い死人は出なかった。けれど、だからよかった、で済まされることではなかった。



「初めは、犯人の目的が私だったし、最近続いてた魔法使いの事件とは関係なさそうだから、T市での撮影だけをやめて、その場面は代わりにセットで撮ればいいんじゃないか、って話になってたの。でも、やっぱり内容が内容だし、魔法使いを刺激しちゃったら良くないんじゃないか、って心配する声も上がってきて」


 翠は、今までの出来事を思い出すように、そっと目を伏せた。


「それで結局、映画の製作自体をどうするかは保留にして、ほとぼりが冷めるまで撮影はストップすることになったんだ」

「そっか……」


 翠が話した内容は、ニュースで報じられている内容とほとんど同じだった。



「残念だったね。せっかくの初主演映画だったのに」


 翠にとっては、今後を決める重要な機会だっただろうに。それがなくなったとなれば、翠にとっても痛手なはずだ。そう思って翠を見ると、翠は目を伏せたまま、小さく頷いた。


「……そうだね」


 弱々しい声。その声と、そしてその表情に、柚は少し違和感を覚える。


 予想に反して、翠の声は、残念がっているというよりもむしろ、ホッとしているように感じられた。表情も、大きな仕事がなくなったにしてはとても穏やかに見える。


 柚がそんな印象を抱いていることに、翠自身も気づいたのだろう。彼女は柚をちらりと見ると、ごまかすように少し笑った。


「こんなこと、本当は言うべきじゃないと思うんだけど」


 そう切り出すと、翠は静かに言った。



「よかった、って思ってるの」

「……」



 よかった、と翠は繰り返す。


「政策に関わっているたくさんの人が今すごく困ってるし、大きなお金も動いてるから本当に大ごとになってて、こんなこと言っちゃダメなのは分かってる。けど、正直安心してるの。あの役をやらなくていいんだって」


「……やりたくなかったの?」

「……うん」


 消えてしまいそうな声で、ぽつりと、翠は言う。



「やりたくなかった」

「……」



 明るくて優しくて、暗いところなんて一切なさそうなアイドル。やりたくない、なんて言葉が、普段見ている彼女から発せられるところなんて、誰も想像できないだろう。


 そんな翠の零したその言葉は、紛れもなく、彼女本人の本音だった。



 やりたくなかった理由。

 その本音を、柚に話したこと。

 森の様子。『特別プロジェクト』に呼ばれた中梛との関係。


 やっぱり、翠は。



「――ねえ、翠ちゃん」


 翠が、驚いた顔で柚を見る。


 こんなこと、柚が言ってはいけないのだろう。あんなに丁寧に翠との再会の機会を探る彼にとっては、本当に余計なお世話なのだろう。そう思うけれど、聞くなら今ここで聞くべきだ、と強く思った。


 覚悟を決めて、柚は口を開いた。



「本当に急なんだけど、翠ちゃんって、昔会った男の子とか、いたりする?」



「……昔会った、男の子?」


 驚いた顔のまま、翠は聞き返す。柚は力強く頷いた。


「小学校に入学する前後とか、そのあたりに仲良かった、みたいな子」



 心臓が高鳴る。緊張で口の中が乾いていく。


 もしかしたら、先日の事件で中梛と翠は会っているのかもしれない。それならば、柚が言う人物にすぐにピンと来るはずだ。それに、もし会っていなかったとしても、翠にとって彼は重要な人物であるに違いないから、きっと思い当たるはずだ。



 柚は、じっと翠を見つめて答えを待つ。彼女が答えるまでの時間が、とても長いもののように感じた。



「うーん」


 少し視線を上げて、翠は考えるような仕草をした。そこで、柚が感じていた時間の長さが、実際の時間の進みと変わらないことに気づく。



 あれ?

 何かが違う、という落ち着かない感覚が、次第に大きくなっていく。



「誰だろう。同じ小学校の子かな。特別仲の良かった子はいなかったと思うけど……」


 しばらく悩んだ末、翠は、本当に思い当たらない、というようにそう言った。



 おかしい。

 どうして、中梛のことが出てこないのか。

 彼と昔会っているんじゃないのか。



「ほら、何かのきっかけで離れ離れになっちゃって、今も会いたいと思ってる子とか。あの、ちょっとやんちゃな感じの、目つきが悪いけど正義感が強い男の子で」


 自然と早口になりながら、柚は彼の特徴を追加していく。ここまで言えば、忘れていたとしてもさすがに思い出すだろう。


 そう思うけれど、期待とは裏腹に、翠の表情が変わることはなかった。


「ごめんね、心当たりないかも」


 申し訳なさそうに、翠は答えた。



 ゆっくりと、全身の体温が下がっていく。今まで見てきたものが全て嘘だったかのような、気分の悪い感覚で目の前が暗くなっていく。



 おかしい。

 だって、そんな。

 覚えてない、なんて。



『あの写真、普段から持ち歩いてるの?』

『ああ。大事なもんだからな』


『翠ちゃんに、会いたいって思ってる?』

『ああ。会って話したい』



 じゃあ、中梛は。

 彼の、気持ちは。



「――柚ちゃん?」


 ハッとする。


「ごめんね。私、誰かのこと、忘れちゃってるのかな」

「……ううん」


 心臓が変な動き方をしている。ぐちゃぐちゃになった感情と思考を処理できない。放つこともできない泣き出しそうな気持ちを、全部なかったことにしたい。けれど、翠の純粋で不安そうな表情を見ていると、自然に笑顔と言葉が出てきていた。


「何でもない。勘違いだったかも。変なこと聞いてごめんね」

「……そっか」


 翠は、気にするような素振りを見せながらも、柚に合わせてそう答えた。



 そのとき、ふと翠のスマホが鳴った。画面を見て、彼女は「あ」とつぶやく。


「ごめんね。そろそろ帰らないと」


 そう言って、翠は急いでアイスティーを飲み干すと、イスから立ち上がった。


「今日はありがとう。会えてよかった」

「うん。またいつでも来てね」


 柚も立ち上がって、慌ただしく出ていく彼女の後に続く。



 玄関を出て、こちらに手を振りながら、慣れた様子で迷うことなく森へ入っていく翠。その後ろ姿を、柚はどこか現実味のないぼんやりとした頭で見送った。

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