第16話『目覚し』
おじいさん。
おじいさんおじいさん。
僕の大切なおじいさん。
僕を作ってくれて、僕を大切にしてくれて、僕を思ってくれていた僕のおじいさん。
僕がコオロギの言うことを聞かなかったばっかりに。僕はサーカスの親方に捕まったり、狐と猫に騙されてしまった。
だから、なのかな。おじいさんがいなくなってしまったのは。
人の言うことを聞かない僕が、人になることができなかったから。
だからおじいさんはどこかへ行ってしまったの?
おじいさんおじいさん。
おじいさんは、どこへ行ってしまったの?
おじいさんおじいさん。ボクの大切なおじいさん。
ボクをおいていかないで。
*
「くっ……、は、ぁ……」
「先輩」
膝をつき崩れる杏子の体を、黒衣が咄嗟に支える。
見れば杏子が手に持つ刀はボロボロで、既に刀の体すらなしてはなく。杏子自身も大きな怪我こそないものの、体のあちこちに擦り傷やら打撲やらで血が滲んでいる。
「…………」
だが黒衣は杏子の手を取ったりはせず、そのままゆっくりと、地面へと腰を降ろさせる。
杏子も心配だが、今は先にやることがある。
「先輩はそこで見ていてください」
そう言って見つめる先にあるのは、赤く揺れる獣の瞳。
隣ではサラサラと、七柱の檻が砂状に崩れている。
元々がたった一撃の負荷しか耐えられぬ代物だ。ダメージがなくとも、わずか数分の維持しか敵わぬのも道理だったのだろう。
その結果、囚われていた影の獣は解き放たれてしまう。
だが不可解なのは、まだそこに獣がいること。
さきほどまで逃げの一手を打っていたはずの獣はなぜか逃げようとせず、ただこちらを数メートル先から見つめているのみ。
まるで、誰かを待っているかのように。
「ユウタ、……なんだよな?」
「grr……」
答えはない。予想はしていたが、昼間とは違い過ぎるユウタの姿形に、少なからず戸惑いを感じてしまう。
だが、そうも言ってはいられない。
「アリス」
「何だ?」
「任せたぞ」
「……おう!」
その短い会話だけを残して、二人は歩み出す。
互いの、敵へと。
「ユウタ……」
ポツリと、黒衣は影の獣——ユウタの前へと歩み寄る。
人間相手に警戒していないのか、それとも何か別の理由があるのか。ユウタは黒衣を前にしても、逃げも襲いもしない。
ただじっと、黒衣の一挙手一投足を見つめている。
「ユウタ。俺はお前に伝えることがあってここに来た」
それが黒衣の目的。ユウタを止めるよりも何よりも、まずはそのことを、伝えに——。
「大事なことなんだ。なぁ、聞こえてるんだろ? そんなになっても。お前はまだ、ユウタなんだよな?」
「g……、……」
その時、影が揺らぐ。
「お兄……、ちゃん……」
「っ……ユウ——
だが、それも一瞬。
黒衣が声を上げようとした刹那、影は再び、ユウタの体を閉じ込めるように激しく絡みつく。
遥か背後に立つ、白ウサギの拳に呼応するようにして——。
「まだ、逃がさない」
「っ……白ウサギ……!」
黒衣の声に、今度は反応を示さない。
それはユウタも同様で。
「G……GRRR……!!」
さきほどよりも鋭く纏わせた影の底から、赤い瞳を光らせる。
口元からは牙を尖らせ涎を垂らす。
一瞬垣間見えたユウタの声は影に覆われ、その姿は獣そのもの。
「……やるしか、ねぇってか」
元より、そのつもり。
「いいぜ、ユウタ。まずはその鬱陶しい影、全部剥ぎ取って日陰の足しにでもしてやるよ!」
まず動いたのは、ユウタ。
地面を蹴っての高速移動。獣に形づく影は使用者の身体能力を劇的に跳ね上がらせる。その速度は既に、獣の域に非ず。獣を超えたナニカ。
時計の針が動くよりも先に、弧に軌跡を描く影は黒衣の左側頭部を捉える——。
だが——、
「止まれ——『壊れ掛けの銀時計』」
胸元で揺れる銀時計の針は、動くよりも先に止められる。
そして次に時を刻むときには、黒衣の体はそこにはない。
ユウタの左後方へと、回り込む。
「g——」
だが、仮にもユウタも【妖精】だ。それが時間停止による回避であろうと、たった零コンマ一秒のうちに動いただけのこと。
ならば自分もそれについていけばいいだけの話だ。
ユウタは黒衣の脳天がそこにないことに気付いた瞬間に、再び地面を蹴り黒衣を強襲する。
幸い移動距離は大したことはない。たった一秒の間に動ける人間が動ける距離などたかが知れている。身体強化された【妖精】の脚力ならば、そんな距離はないも同然だ。
次も狙いは左側頭部。ただ、今度の一撃は脚ではなく、腕。それも影によって鉤爪を付与された獣の腕。脚よりも威力は劣るものの、命中精度ならば脚の比ではない。元より人間の頭蓋を砕くことなど、強化されていなくとも容易いこと。そっと撫でるだけで、脳髄と肉片を辺りに撒き散らすだろう。
だが——、
「速いな」
「ッ!!」
次もそこに肉の感触はなく、伸ばした腕は夜空を刻むばかり。
「何で俺が避けられたのか、わかるか?」
そして声は、後方から。
「速さじゃお前には到底敵わない。獣の反射速度に、人間が勝てる道理なんてハナっからねぇからな」
そしてそれが、致命的なミス。
「だったら『予測』すればいい。お前がどこに来て、どこを狙ってくるのか」
二度の回避に驚いたことにより、わずか一瞬——零コンマ一秒の隙が生まれる。
「幸い、その時間はたっぷりとあるからな。一秒って時間が、たっぷりと——」
その隙が、致命的な隙となる。時間停止による、決定的な隙に——。
「さぁ歯ぁ食いしばれ! 元ん影も、消えちまわねぇようになぁ!!」
「止まれ——『壊れ掛けの銀時計』」
この魔法は、基本的には連続使用はできない。
——止まれ。まずは左腕の影を晴らす。
一度使用すれば、再使用に遅延時間が発生する。
——止まれ。次は右腕。
だがそれは、基本的には、という話にすぎない。
——止まれ。続いて腹。
無理をすれば、その制約はないものとされる。
——止まれ。続いて右足。
その無理とは、身体の磨耗。
——止まれ。続いて左足。
身体の内にある筋繊維はもちろんのこと、血管や神経細胞、魔力を行使する魔力神経に到るまで、身体のありとあらゆる部位が削られていく。
筋繊維ならば数日もすれば回復もするだろうし、血管もわずかならば問題はなかろう。だが神経細胞や魔力神経は、回復はしても完治までに数年の期間を要する上、治りきる保証もない。その上必要以上の酷使は命の危機に直結する。
そしてさらに酷使すれば、その被害は脳細胞へと侵食する。
それが黒衣の【魔法】における対価。
強大すぎる【魔法】を用いた者が支払うべき、対等な対価だ。
無論遅延時間を挟んでの使用ならば、その代償は極々わずか。
生活に支障もなければ、他者と変わらぬ人生を歩めるだろう。
だが、もしそうでないのなら——
——身体が悲鳴をあげる。もう止まれと、止めるなと叫び続ける。一発拳を打ち込むごとに筋繊維が音を立てて千切れる。時間を止めるごとに血管が弾け飛ぶ。体を動かせば神経系が削れ、同時に見えない何かが体の中でのたうち回る。
——だが止めるわけにはいかない。止めないわけにいかない。これが俺にとって唯一の、コイツらと対等に殴り合える方法だから。
——止まれ。最後に頭を。
——だがまだ足りない。それでも足りない。まだ影はこの子を蝕み続けている。
——まだ。まだ。まだ。まだ。まだ。まだ。まだ。まだ。まだ。まだ。まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだ、……いいや、もっとだ——!!
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ——『百分の壱』ーーーー!!!!」
はたから見ればそれは一発の拳。しかしそれは須臾の時に百の拳を留めた、壱にして百の拳。
前回の戦いで灰色狼を仕留めた、黒衣の必殺技とでも呼ぶべき技。
だが今度のそれは、相手を消し飛ばしはしない。
狙いはあくまで、黒い影。
黒衣の狙い通り、ユウタにまとわりつく黒い影はまるで夜闇にでも溶けるかのように霧散していく。
*
「ユウタの正体?」
十分ほど遡った、住宅街。黒衣がアリスを助けに入る、少し前のこと。
「ユウタはなんか、有名な【妖精】なのか?」
話題に上がったのは、ユウタの【妖精】としての、正体。
「ええ。たぶん、だけどね」
「ゆうた……?」
だが黒衣に、『ユウタ』などという名前の童話、そのキャラクターに覚えはない。
「言いたいことはわかるわ。でもユウタは、あの子の本当の名前じゃない」
「そうか……!」
そう。ユウタは二週間ほど前にあの老夫婦に拾われている。身元も記憶も不確かなユウタを。
「おそらく、ユウタってのはあの夫婦に付けられた名前。あの子の本当の名前——【妖精】としての名前は別にあるはず」
「別に……。でも、じゃあ……」
童話はこの世界には数多く存在する。それこそ無数に。その中の特定の登場人物を手掛かりもなしに言い当てるなど不可能に近い。
「いいえ。手掛かりならあるわ。あたしが【魔法】を見てる」
「【魔法】……ですか?」
「ええ。【魔法】ってのは、特別な理由でもない限り、その使用者の人生、特に願望に関わりの深い物なの」
「確かに……」
黒衣が過去を取り戻したいと願い、時間に関する【魔法】を手にしたように。
「それは【妖精】にも言えること。例えば、桃の【魔法】が鬼や魔を断ち斬る刀だったように」
「つまり、【妖精】の扱う【魔法】は、その【妖精】の正体を特定する手掛かりになり得る、と」
「そ。そしてあの子の【魔法】は、少なくとも二つあるわ。一つは影を纏って自身を強化する【魔法】。影は曖昧さの暗示。そして強化は、その見た目から獣化。【獣種】に変容する【魔法】ってこと」
「【獣種】になる【魔法】……。物語の中で動物になったってこと……?」
「ええ。でも、動物の姿になる登場人物なんてのは数多くいるわ。イソップ寓話のミダス王なんかがそうね」
イソップ寓話の一つとして知られる『王様の耳はロバの耳』か。
そういえばあの影が象っていたのは、耳がうさぎのように長い蹄を持った動物だ。それはミダス王が耳を変えられたとされるロバの特徴そのものだ。
「つまりユウタの正体はミダス王……?」
「いいえ。それは早計よ、黒衣くん。それじゃああの子が子供の姿なことが納得できないわ」
「じゃあ……」
「……あたしは、最初にあの子が【妖精】であることに誰も気付かなかったことを疑問だったの」
「先輩?」
「でもそれはたぶん気付かなかったんじゃなくて、気付けなかったんだと思う」
「気付けなかった?」
「ええ。あの子の【魔法】の効果によってね」
「それはつまり、あの影の……?」
「いいえ。あの影はあくまでその【魔法】の副次効果。あの子の【魔法】はおそらく、『人になる』【魔法】」
「人に、なる……?」
それはつまり、人ではないということだ。【妖精】だからなのか、それとも本当にそれ以外だからなのか。
「でもおそらくその【魔法】は完全に人になることはできないのだと思う。だから【妖精】の片鱗を見てしまったアリスは、あの子を信じることができなかった」
「あっ……」
そうか、だから……。
「そう。そして物語でロバになり、人になるという願いを持った【妖精】は、あたしが知る中では一人しか思い当たらない」
杏子の言葉に、黒衣にも心当たりが一つ思い浮かぶ。
人になることに憧れ、人となるため善行を積むことを言い渡され、好奇心によって多くの悪人に騙された人形。
「その名は……」
*
「っ…………、目ぇ覚ましたかよ、ユウタ。いいや、【妖精】ピノッキオーーーーーーーー!!」
「っ————————……」
*
探しても探しても、おじいさんはどこにもいなかった。
おじいさんおじいさん。ボクの大好きなおじいさん。
家にも町にも、学校にも波止場にもサーカスにも遊園地にも、おじいさんはどこにも見当たらない。
おじいさんおじいさん。ボクの大好きなおじいさん。おじいさんは、どこ……。
気が付いたら、知らないところにボクはいた。
見たことのない暗い場所。夜なのにお星さまもお月さまも見えない。これじゃあきれいな妖精さんにも会うことができない。
おじいさんおじいさん。ボクはどこにいるの?
「おやおやおやおや。これはこれはとてもとても可哀想なぼく。きみの探しているものはあちらにあるよ」
知らないおじさんがぼくに教えてくれた。変なお面をつけたおじさんだったけど、おじいさんがいる場所を教えてくれたのならいい人だと思う。
おじいさんおじいさん。ぼくの大切なおじいさん。もう何も覚えていないけど、おじいさんがそこにいるのなら安心だ。
いつの間にか、ボクはまた知らないところに来ていた。空のお星さまもお月さまも知らない形だけど、お星さまがあるなら大丈夫だよね。
おじいさんおじいさん。ボクの大切なおじいさん。ボクの大切なおじいさんは……、
「おや、こんな時間に子供が一人でうろついて……。もしかして迷子かね?」
「おじい、さん……?」
おじいさんおじいさん。ボクの大切なおじいさん。
どこにも、行かないで……。
*
「目ぇ覚めたかよ、ユウタ……」
その軽い体は抱きとめられて、黒衣の知る幼き顔は目を開く。
「クロ、エ……」
昼間に教えた、自分の名を呟いて。
次回、さっそくの再戦です