第94話 集団的喪失感
金色の雨は、夜明け前にようやく止んだ。
村は静寂に包まれていたが、それは普段の静けさとは違っていた。何かが欠けた後の、虚ろな静寂。
朝になって、村人たちは奇妙な現象に気づき始めた。
八百屋の田中さんは、野菜を並べながら首を傾げていた。
「おかしいな...いつもより売り上げが少ない気がする」
「常連さんが来なくなったとか?」
妻の問いに、田中さんは考え込んだ。
「そうかもしれん...でも、誰が来なくなったのか思い出せん」
同じような違和感は、村のあちこちで共有されていた。
パン屋では、いつも作る個数より少なく感じる。
「誰かの分を、作り忘れてるような...」
郵便局では、配達先が一軒減ったような気がする。
「でも、どこの家だったか...」
学校では、教室の席が一つ多いような気がする。
「誰か、転校したのかしら...」
皆、同じような喪失感を抱えていた。でも、それが何なのか、誰も説明できない。
■新たな朝
夜が明けて、5月26日の朝。
ルカは自分のベッドで目を覚ました。枕が涙で濡れている。悲しい夢を見たような気がするが、内容は思い出せない。
ただ、白い着物の誰かが、遠くへ行ってしまう夢だったような――
「おかしいな...」
起き上がって、部屋を見回す。いつもの部屋。でも、何かが足りない。
ベッドサイドには、昨夜見つけた懐中時計が置かれていた。七時四十二分で止まったまま、でも確かな存在感を放っている。
階下に降りて、無意識に朝食の準備を始める。そして気づく。
「あれ?なんで二人分...」
茶碗が二つ、箸も二膳。まるで誰かと一緒に暮らしているかのように。
「私、一人暮らしだよね...?」
両親が亡くなってから、ずっと一人のはず。でも、この習慣はどこから来たのだろう。
朝食を作りながら、ルカは卵焼きに砂糖を多めに入れた。
「甘い方が...好き?」
誰が?自分は特に甘党じゃないのに。
でも、手は勝手に動いて、いつもより砂糖を多く入れてしまう。まるで、誰かのために作っているかのように。
食事を終えて、ルカは写真館を見回した。たくさんの写真が飾られているが、どれも自分一人か、村の風景ばかり。
でも、ふと気づく。写真の構図が、どれも少し偏っている。まるで、もう一人いるべき場所を空けているかのように。
「誰かと...撮りたかったな」
ぽつりとつぶやく。誰と撮りたかったのかは、分からないけれど。
窓の外を見ると、朝日が昇っていた。金色の光が村を照らし、昨夜の不思議な雨のことを思い出させる。
あの雨は、何だったのだろう。誰の涙だったのだろう。
そして、自分は何を忘れてしまったのだろう。
「思い出せない...」
でも、胸の奥に確かに残っているものがある。
大切な誰かへの想い。名前も顔も思い出せないけれど、愛していたことだけは確かな、その想い。
学校へ行く準備をしながら、ルカは懐中時計を見つめた。
「七時四十二分...」
この時間に、何か大切なことがあった気がする。でも、思い出せない。
ただ、時計を持っていると、少し安心する。誰かに守られているような、そんな気がして。
「行ってきます」
誰もいない家に向かって挨拶をして、ルカは学校へ向かった。
玄関を出る時、振り返る。写真館の二階の窓に、一瞬白い影が見えた気がした。
でも、もう一度見ると、そこには何もない。
ただ、朝の光が窓ガラスに反射しているだけ。
「気のせい...かな」
でも、なぜか温かい気持ちになった。
見守られている。そんな感覚が、確かにあった。
途中、健司に会った。
「おはよう、ルカちゃん」
「おはようございます」
「昨日の...あの光の雨、不思議だったね」
「はい。でも、なんだか悲しかったです」
「俺もだ」
二人は並んで歩きながら、同じ喪失感を共有していた。
大切な何かを失った。でも、それが何なのか、永遠に思い出せない。
ただ、胸の奥に残る温かさだけが、失われた誰かの存在を静かに証明していた。
「ねえ、健司さん」
「ん?」
「私たち、誰かを探してる気がしませんか?」
健司は少し考えてから、静かに答えた。
「うん。探してる。でも、誰なのか分からない」
「見つかるかな」
「分からない。でも...」
健司は空を見上げた。
「どこかで、見守ってくれてる気がする」
その言葉に、ルカも頷いた。
見えなくても、聞こえなくても、触れなくても。
愛は、確かにそこにある。
金色の雨は止んだが、その記憶は村人たちの心に、かすかな光として残り続けた。
誰かを愛し、愛された記憶。
名前も顔も消えても、その想いだけは永遠に。
そして、どこか遠くで――
白い着物の女性が、優しく微笑んでいた。
愛する人たちが前を向いて歩き始めたことに、安堵しながら。
それでいい。それで、十分。
忘れられても、愛は消えない。
形を変えて、永遠に続いていく。




