第95話 ルカの喪失感
忘れられた者たちよ。 君たちは、名をなくしても、声をなくしても、 この世界に"祈り"として残った。
記録は、記憶の種。 いつか芽吹く。君の愛を誰かが知らなくても、 君の愛は、確かに残る。
それを写したあの子が、君の"祈りの先"を生きていく。
忘却の彼方に真実は
眠る写真に残る光の欠片
血の絆は記憶を超えて
いつか必ず導かれん
夢を写す者が現れるまで
――『霧姫伝説・再会の予言』より
1994年6月25日、梅雨の朝。
封印が完成してから一ヶ月が経った。夕霧村は白い霧に優しく包まれ、かつての平和を取り戻していた。紫の霧は完全に消え、村人たちの顔にも活気が戻っている。田植えの季節を迎え、水を張った田んぼが朝日を反射して輝いていた。
梅雨特有の湿った空気が、村全体を包んでいる。紫陽花が雨に濡れて重たげに頭を垂れ、カタツムリがゆっくりと葉の上を這っていく。雨上がりの朝は、世界が洗われたように清々しい。
しかし、ハシヅメ写真館の主となった15歳のルカは、心の奥にぽっかりと開いた穴を抱えていた。それが何なのか、説明することはできないが。
■ルカの喪失感
朝5時、ルカは習慣のように早起きした。梅雨の湿った空気が、開け放った窓から流れ込んでくる。雨の匂い、土の匂い、そして――
「また...」
台所に立つと、無意識に二人分の朝食を作ってしまう。味噌汁を二つ、茶碗を二つ、箸も二膳。そして気づいて、一人分を片付ける。この一ヶ月、毎朝同じことの繰り返しだった。
「おかしいよね...私、ずっと一人暮らしなのに」
両親が亡くなってから、ずっと一人で暮らしてきたはず。なのに、なぜこんな習慣が?
今朝の味噌汁は、豆腐とネギ。無意識のうちに、豆腐を少し多めに入れてしまう。まるで、誰かが「豆腐多めが好き」だったような――でも、誰が?
朝食を作りながら、ルカは卵焼きに砂糖を多めに入れた。自分でも不思議だった。特に甘いものが好きなわけでもないのに、なぜか「こうしなければ」という衝動に駆られる。
フライパンの中で、卵がじゅうじゅうと音を立てる。その音を聞きながら、ルカは思った。
「誰かが...好きだったのかな」
でも、誰が?思い出そうとすると、頭に霧がかかったようになる。まるで、記憶の奥に厚い壁があって、それ以上進めないような感覚。
卵焼きを巻きながら、ふと手が止まる。この手つき、誰かに教わったような気がする。優しい手が、自分の手に重なって――
「気のせい...だよね」
でも、その感覚はとてもリアルだった。
食事を一人で済ませ、ルカは写真館を見回した。壁にはたくさんの写真が飾られているが、どれを見ても何か物足りない。構図が偏っているような、誰かがいるべき場所が空いているような。
特に気になるのは、去年の秋祭りの写真。自分が浴衣を着て、金魚すくいをしている写真。でも、なぜか体が横を向いている。まるで、隣の誰かと話しながら撮ったような――
「変だな...」
写真の端に、わずかに白い影が写っている。光の加減?いや、違う。よく見ると、着物の袖のような形をしている。
■二階の謎
二階の自分の部屋に戻ると、机の引き出しに大切にしまってある銀の懐中時計を取り出した。七時四十二分で止まったまま、でも不思議と温かい。
今朝も、時計を手に取ると安心する。まるで、お守りのように。
「これ、誰からもらったんだろう」
記憶にない。でも、とても大切なものだということだけは分かる。胸ポケットに入れると、少し安心する。まるで、誰かに守られているような気がして。
制服に着替えながら、ルカは鏡を見つめた。最近、瞳に時々金色の光が宿ることに気づいていた。朝日の加減かと思っていたが、どうも違うらしい。
今朝も、鏡の中の自分を見つめていると、瞳の奥に金色の輝きが見えた。一瞬だけ、でも確かに。
「私の目...前からこんなだったっけ?」
そして、もう一つ気になることがあった。隣の部屋。
両親の部屋は別にある。なのに、なぜかもう一つ部屋がある。物置として使っているはずだが、なぜか入るのをためらってしまう。
今朝は、勇気を出して扉を開けてみた。
部屋は、思ったより片付いていた。いや、片付いているというより、誰かが最近まで使っていたような――
ベッドのシーツは綺麗に整えられ、机の上には写真が一枚置かれていた。でも、その写真は真っ白。何も写っていない。
いや、違う。よく見ると、かすかに人の形が見える。白い着物、長い黒髪、優しげな佇まい。でも、顔は見えない。まるで、光で塗りつぶされたように。
「誰...?」
胸が苦しくなる。知っているはずなのに、思い出せない。大切な人だったはずなのに、名前も顔も浮かばない。
机の引き出しを開けると、日記帳があった。でも、ページを開いても文字が滲んで読めない。ただ、最後のページにだけ、かろうじて読める文字があった。
『ルカ、愛してる』
その一行を見た瞬間、涙が溢れた。
なぜ泣いているのか分からない。でも、この言葉がとても大切なものだということは分かる。
■写真に写る白い影
学校へ行く前、ルカは習慣となった写真の確認を始めた。この一ヶ月、毎日続けている作業。なぜそうするのか自分でも分からないが、しなければならない気がして。
魂写機を手に取る。なぜか、このカメラだけは使い方を完璧に覚えている。まるで、誰かに手取り足取り教わったかのように。
「これも...」
手に取った写真は、先月の写真。村の朝を撮ったものだ。霧に包まれた石畳、朝日を受ける古い家並み。でも、よく見ると――
道の真ん中に、白い影が立っている。
人の形をしているが、顔は見えない。ただ、そこに確かに誰かがいる。白い着物を着た、女性らしき人影。
次の写真も、その次も。どの写真にも、必ず白い影が写っている。時には自分の隣に、時には少し離れた場所に。でも、いつも自分を見守るような位置に。
「誰なの...?」
試しに、今朝撮った写真を現像してみる。部屋の中を適当に撮った一枚。
現像液から浮かび上がった写真を見て、ルカは息を呑んだ。
自分のすぐ後ろに、白い影が立っている。まるで、肩に手を置いているかのような姿勢で。そして、その影は以前の写真よりも、少しはっきりしている。
顔はまだ見えない。でも、優しい雰囲気は伝わってくる。守ってくれているような、見守ってくれているような――
「いるの...?ここに、誰かいるの?」
返事はない。でも、部屋の空気がかすかに揺れた気がした。優しく、温かく。
風?いや、窓は閉まっている。エアコンもつけていない。なのに、確かに空気が動いた。
まるで、誰かが頷いたかのように。




