第78話 村の集団的喪失感
最初に向かったのは、古い井戸だった。
『ここで、よく水を汲んだね』
ルカが井戸を覗き込む。
水面には、二人の姿が映っている。自分の姿は、もう映らない。
でも、ルカは微笑んだ。
『ほら、チヨ姉ちゃんもちゃんと映ってる』
嘘だと分かる。でも、その優しさが嬉しい。
井戸の周りで、村人たちと出会った。
「おはよう、ルカちゃん、佐藤先生」
田中さんが挨拶する。でも、その表情にはかすかな違和感が漂っている。
「なんだか、最近おかしいんだよなあ」
田中さんは首を傾げる。
「誰かを忘れてるような気がして」
健司が尋ねる。
「誰かって?」
「分からないんだ。でも、大切な人だった気がする」
田中さんの言葉に、他の村人たちも頷く。
「私もそんな気がする」
「挨拶する相手が、一人足りないような」
「写真撮ってもらったような気がするんだけど、誰に撮ってもらったか思い出せない」
村人たちの集団的な違和感。
それは、消えゆく者の痕跡。
名前も顔も思い出せないが、誰かがいたという感覚だけが残っている。
次は、川原。
『夏は、ここで泳いだ』
健司が懐かしそうに言う。
『チヨが一番泳ぎが上手かった』
チヨ。それが自分の名前。
少しずつ、アイデンティティの輪郭が戻ってくる。
といっても、記憶が戻るわけではない。
ただ、自分が誰に愛されていたか、それが分かるだけ。
川原で遊ぶ子供たちがいた。
その中の一人が、突然立ち止まった。
「ねえ、誰かいる?」
五歳くらいの男の子が、チヨのいる方向を見つめる。
「誰もいないよ」
友達が答える。
「でも、誰かいる気がする。優しい人」
子供の純粋な感覚は、大人より鋭い。
存在が希薄になっても、その本質は感じ取れるのかもしれない。
■市場での出来事
市場にも寄った。
いつもの賑わい。でも、どこか違う。
『おや、佐藤先生にルカちゃん』
八百屋の山田さんが声をかける。
『今日は二人でお買い物?』
その言葉に、ルカが首を振る。
『三人です』
『三人?』
山田さんは不思議そうに辺りを見回す。
もちろん、透明な自分は見えない。
でも、山田さんはしばらく考えてから言った。
『そうか...三人か。なんだか、そんな気もする』
分かっていないが、否定もしない。
無意識のどこかで、もう一人の存在を感じているのかもしれない。
市場を歩いていると、あちこちで同じような光景を目にした。
「最近、お客さんが減ったような」
「いや、数は変わらないんだけど、誰かが来なくなったような」
「写真、撮ってもらいたいんだけど、誰に頼めばいいんだっけ」
皆、何かを失った感覚を共有している。
でも、それが何なのか、誰なのか、思い出せない。
花屋の前で、鈴木さんが困った顔をしていた。
「おかしいなあ」
「どうしたんですか?」
健司が尋ねる。
「いや、今朝、白い花を多めに仕入れたんだ。誰かのために準備したような気がして」
「誰かって?」
「それが分からないんだ。でも、とても大切な人に渡すはずだった気がする」
鈴木さんは白い花を見つめながら、首を傾げ続けた。
その花は、きっと自分のためだったのだろう。
でも、もう受け取ることはできない。
■写真館での最後の時間
写真館に戻る道すがら、ルカはたくさん写真を撮った。
『ここは、チヨ姉ちゃんがよく撮ってた場所』
『この角度が好きだったよね』
まるで、自分の代わりに撮っているかのように。
いや、実際そうなのかもしれない。
姉の意思を継いで、妹が写真を撮る。
それは、美しい継承だった。
ルカの撮り方を見ていると、確かに自分の影響を感じる。
構図の取り方、光の捉え方、人物への近づき方。
すべてに、かつての自分の痕跡がある。
記憶は失われても、技術は受け継がれている。
愛は、形を変えて続いていく。
写真館に着くと、不思議な感覚に包まれた。
ここは、自分の場所。
長い間、ここで暮らし、ここで写真を撮り、ここで愛する人たちと過ごした。
その記憶は失われても、場所が覚えている。
壁が、床が、天井が、すべてが自分を覚えている。
『ちょっと待って』
ルカが二階に駆け上がった。
しばらくして、大きな箱を抱えて降りてきた。
『これ、見て』
箱の中には、たくさんの写真が入っていた。
『チヨ姉ちゃんが撮った写真。全部残してある』
一枚一枚を取り出して、見せてくれる。
もちろん、自分には見えない。でも、ルカと健司の反応から、どんな写真かは想像できる。
『これ、去年の桜』
『これは、夏祭りの時』
『あ、これ健司先生の写真ばっかり』
健司が驚いたような熱を発する。
『本当?』
『うん。めっちゃたくさんある』
ルカが写真を並べていく。
『診療所で働いてる健司先生』
『往診に行く健司先生』
『笑ってる健司先生』
『考え事してる健司先生』
自分は、そんなに健司の写真を撮っていたのか。
きっと、とても愛していたのだろう。
ファインダー越しに、いつも彼を見つめていた。
その想いが、写真という形で残っている。
■最後の家族写真
『もう一枚、写真を撮ろう』
ルカが突然提案した。
『最後に、三人で』
最後。
その言葉が、胸に突き刺さる。
でも、ルカは明るく続けた。
『影写りの粉を使えば、きっと写る』
そう言って、ルカは古い布袋を取り出した。
母が残した特別な粉。写し世の存在も写真に写すことができるという、不思議な粉。
『でも、残り少ないよ』
健司が心配する。
『いいの。今日使わなくて、いつ使うの』
ルカの決意は固かった。
三人で写真館の前に立つ。
夕日を背景に、三人で並ぶ。
健司とルカの間に、透明な自分が立つ。
もう自分の姿は写らないだろう。
でも、そこにいる。
確かに、家族と一緒にいる。
ルカが魂写機をセットする。
セルフタイマーを使って、急いで位置につく。
『はい、チーズ!』
声は聞こえないが、ルカの口の動きで分かる。
カシャリ。
シャッターが切られる音——の振動。
その瞬間、不思議なことが起きた。
影写りの粉が、風もないのに舞い上がった。
金色の粒子が、自分の周りで踊るように輝く。
まるで、存在を形作ろうとするかのように。
『撮れた!』
ルカが嬉しそうに飛び跳ねる。
写真を確認する二人。
『ほら、ここ!』
ルカが写真の一部を指差す。
『光が写ってる。金色の、人の形をした光』
健司も覗き込む。
『本当だ...チヨの形をしている』
それが自分なのか。
光となって、かろうじて写真に写る存在。
でも、確かにそこにいる。
健司とルカの間に、家族として存在している。
『良かった...』
ルカの目に涙が浮かぶ。
『これで、チヨ姉ちゃんも一緒の写真が残せた』
最後の家族写真。
それは、存在と非存在の境界を超えた、愛の証明。




