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第77話 透明な朝の恐怖

わたしは、もう"チヨ"じゃなかった。


名前を失い、記憶を失い、 それでも、最後まであなたを思っていた。


あなたがわたしを忘れてもいい。


でも、わたしがあなたを写した記憶だけは、 どうか……この世界に、残りますように。


心とは形なき宝珠

目に見えねども確かにあり

薄れゆく姿の中にも変わらぬ想いは輝きて

永遠の愛を証すなり

——『霧姫伝説・心の章』より


■透明な朝の恐怖


1994年5月25日、午前2時。


最後の朝が来た。


意識は朧げで、自分が誰なのかもはっきりしない。でも、今日が特別な日だということは、魂が覚えていた。


体を起こそうとして、奇妙な感覚に襲われる。


手が、布団をすり抜けた。


いや、正確にはかすかに触れているが、ほとんど力が入らない。まるで、風が布を撫でるような、儚い接触。


存在感知で自分の体を確認する。


輪郭は、もうほとんど残っていない。薄い霧が人の形をしているような、曖昧な存在。


透明になりつつある。


その事実に、初めて本当の恐怖を感じた。


消えるということが、どういうことか。存在しないということが、どれほど恐ろしいことか。


鏡を探す——見えないが、存在感知で位置は分かる。


鏡の前に立つ。もちろん、自分の姿は見えない。でも、存在感知で確認すると、自分の輪郭がひどく曖昧になっているのが分かる。


腕を上げてみる。動作は感じるが、実体がほとんどない。


まるで、幽霊になったような感覚。


いや、幽霊の方がまだ実体があるかもしれない。自分は、もっと曖昧な、存在と非存在の境界にいる。


それでも、立ち上がる。


いや、浮き上がると言った方が正しいかもしれない。重力の影響も、ほとんど感じない。


階段を降りる。足は床を踏んでいない。ただ、降りるという意思だけで、体が移動していく。


途中、壁をすり抜けそうになった。


慌てて軌道を修正する。まだ完全に透明ではないが、物質との相互作用が極めて弱くなっている。


このままでは、本当に消えてしまう。


でも、それでいい。


使命を果たすためなら。


■村人たちの違和感


台所に入る。


ここで毎朝、朝食を作っていた。その記憶の断片が、かすかに残っている。


大切な人たちのために、愛情を込めて。


今朝も、作りたい。


最後の朝食を。


でも——


フライパンを持とうとして、手がすり抜ける。


卵を割ろうとして、触れることさえできない。


包丁も、まな板も、何も扱えない。


透明な体では、もう料理はできない。


悔しさと悲しさが、胸に広がる。


最後の朝くらい、愛する人たちに朝食を作りたかった。


でも、それさえ許されない。


ただ、台所に佇むことしかできない。


幽霊のように、そこにいるだけ。


しばらくして、足音が聞こえた——いや、振動を感じた。


少女——ルカ——が降りてきた。


『あれ?』


ルカが首を傾げる。


『なんだか、誰かがいるような...』


巫女の血が覚醒したルカには、かすかに存在が感じられるらしい。


ルカの金色の瞳が、わずかに光る。それは、巫女の力の現れ。まだ完全ではないが、確実に覚醒し始めている。


『チヨ姉ちゃん?』


ルカが虚空を見つめる。正確な位置ではないが、近い。


頷きたいが、それも相手に伝わるか分からない。


ルカは台所を見回し、気づいた。


『朝ごはん、作ろうとしてたの?』


また頷く——つもり。


ルカの表情が優しくなった。でも、その奥に深い悲しみも見える。


『一緒に作ろう』


そう言って、ルカはエプロンをつけ始めた。


『チヨ姉ちゃんは、そこで見ててくれればいい』


ルカは手際よく朝食の準備を始めた。


時々、虚空に向かって話しかける。


『卵焼き、甘めでいい?』


『お味噌汁の具は、豆腐とネギ?』


まるで、返事が聞こえているかのように。


いや、もしかしたら、心で通じ合っているのかもしれない。


姉妹の絆は、言葉を超えて存在する。


料理をしながら、ルカは無意識のうちに「二人分」を作っていた。


茶碗を二つ、箸を二膳、味噌汁も二杯。


そして、作り終えてから気づく。


『あ...また二人分作っちゃった』


ルカの目に涙が浮かぶ。


『なんでだろう。いつも二人分作っちゃうの』


その習慣の意味を、ルカは理解できていない。でも、体が覚えている。ずっと二人で暮らしてきたことを。


『はい、できた!』


ルカが満足そうに朝食を並べる。


三人分。


透明な自分の分も、ちゃんと用意されている。


食べられないことは、ルカも分かっているはず。


でも、家族だから。


一緒に食卓を囲むことに意味がある。


■健司の苦悩


健司が来て、三人で朝食を囲んだ。


自分は食べられないが、そこに座っている——浮いている——だけで、温かい気持ちになる。


『今日は、いい天気だね』


ルカが窓の外を見ながら言う。


確かに、存在感知でも爽やかな朝の空気が感じられる。


『満月も、きれいに見えそう』


健司の言葉に、空気が少し重くなる。


今夜、すべてが終わる。


皆、それを理解している。


でも、あえて普通の朝を演じている。


最後の日常を、大切に過ごすために。


朝食後、健司が真剣な表情で語り始めた。


『昨日、医学書を調べたんだ』


地面に文字を書きながら、健司は説明する。


『感覚を失うことについて。でも、どの本にも載っていない』


当然だ。これは医学の領域ではない。


『でも、一つ分かったことがある』


健司は続ける。


『人間の存在は、肉体だけじゃない。精神、魂、そういったものも含めて人間だ』


その通りだと思う。


『だから、たとえ肉体が希薄になっても、チヨはチヨだ』


健司の生命の熱が、強い確信に満ちている。


『必ず、方法がある。君を助ける方法が』


その一途な想いが、痛いほど伝わってくる。


でも、それは無理だと分かっている。これは、巫女の運命。変えることはできない。


朝食後、ルカが食器を片付けながら、独り言のように話し始めた。


『今日、写真撮りに行きたいな』


チクワが窓辺で鳴いた。金色の瞳が、じっとこちらを見ている。


あの猫には、まだ自分が見えているのかもしれない。いや、確実に見えている。チクワは特別な存在だから。


『村の、いろんな場所』


ルカは続ける。


『チヨ姉ちゃんと行った場所、全部』


思い出の場所巡り。


それは、お別れの儀式のようでもある。


『いいね』


健司が賛成する。


『俺も一緒に行く』


三人で——正確には二人と一つの透明な存在で——村を巡ることになった。

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