第69話 記憶の崩壊前夜
七時四十二分。 時計の針が止まった刻。
誰かがいなくなって、 わたしの時間も、止まってた気がする。
でも今日、魂写機を構えたら、 針が――少しだけ、動いた気がしたんだ。
時は永遠の河の如くすべてを押し流せども真実の愛は時を超えたとえ姿は見えずとも魂の絆は不滅なり——『霧姫伝説・時の章』より
■記憶の崩壊前夜
1994年5月23日、午前3時。
チヨは無音の世界で目を覚ました。いや、もう暗闇も光も関係ない。視覚はすでに失われている。振動式の目覚まし時計が、規則正しく震えているのを存在感知で捉える。
今日で七つ目の欠片。時の欠片を手に入れれば、おそらく記憶の一部を失うだろう。でも、その前に——
昨日失った触覚。最後に感じた温もりを、もう一度心の中で反芻した。
ルカの小さな手の温かさ。健司の大きな手の確かさ。桜の木の生命力。川の水の冷たさ。
もう二度と感じることはできない。でも、その記憶は確かにここにある。
いや、本当にあるのだろうか?
今日、時の欠片を手に入れたら、これらの記憶も失われるかもしれない。
「怖い...」
初めて、本当の恐怖を感じた。
感覚を失うことは耐えられた。でも、記憶を失うということは、自分が自分でなくなるということ。
チヨは震える手で、枕元を探った。触覚はないが、存在感知で物の位置は分かる。
そこにあったのは、小さなノート。昨夜、健司に頼んで書いてもらった「記憶の断片」。
大切なことを、忘れないように。
『橋爪チヨ、22歳。写真家。』 『妹・ルカ、15歳。大切な人。』 『佐藤健司、25歳。医師。幼馴染。』 『使命:九つの欠片を集めて封印を完成させる』 『残り:時、命、心』
たったこれだけ。でも、これが今の自分を支える全て。
ノートを胸に抱いて——触感はないが、そうすることで安心できる——チヨは起き上がった。
■最後の記憶整理
階下に降りて、いつものように朝食の準備を始める。
もう味も分からない、触覚もない、温度も感じない。それでも、体が覚えている動作を繰り返す。
ルカの好きな卵焼き。作り方は覚えている。卵3個、砂糖大さじ2、醤油少々、みりん小さじ1。
でも、なぜルカがこれを好きなのか、いつから作るようになったのか、そういった「物語」の部分が曖昧になってきている。
記憶が、少しずつ溶けていく感覚。
まるで、水に濡れた写真のように、輪郭がぼやけていく。
「私は...誰だっけ?」
一瞬、自分の名前が出てこなかった。慌ててノートを確認する。
『橋爪チヨ』
そうだ、私はチヨ。でも、その名前に実感が伴わない。
台所で立ち尽くしていると、ルカが降りてきた。
『おはよう、チヨ姉ちゃん』
地面に書かれた文字を、存在感知で読み取る。
チヨ姉ちゃん。そう呼ばれることで、少し自分を取り戻せた気がした。
『おはよう』
返事を書こうとするが、正確に書けているか分からない。それでも、ルカは理解してくれる。
『今日も一緒に行くね』
『ありがとう』
朝食を食べる——振りをする——間、ルカがいろいろな話をしてくれた。地面に文字を書きながら。
学校のこと、友達のこと、将来の夢。
でも、チヨにはその内容を記憶に留めることが難しくなっていた。聞いた端から、霧のように消えていく。
ただ、ルカが大切な人だということだけは、魂に刻まれているように残っている。
■健司の告白
午前7時、健司が迎えに来た。
今日はいつもより早い。そして、その生命の熱が、今までにないほど強く、真剣に燃えている。
『チヨ、今日は大切な話がある』
地面に大きく書かれた文字。その筆跡からも、彼の決意が伝わってくる。
『もう時間がない。だから、今言わせて』
健司は膝をついた。まるで、プロポーズをするかのように。
チヨの前で、彼は言葉を紡ぎ始めた。声は聞こえないが、唇の動きと、地面に書く文字で内容が伝わってくる。
『初めて会ったのは、小学校の入学式』
健司の記憶が、熱となって流れ込んでくる。
桜の花びらが舞う校門。泣いている小さな男の子。そして、その手を引いて教室まで連れて行ってくれた、金色の瞳の女の子。
『君は言った。"大丈夫、お姉ちゃんが一緒だから"って』
その記憶は、チヨにはもうない。でも、健司の中では鮮明に生きている。
『それから、ずっと一緒だった』
彼は続ける。地面に文字を書きながら、時折顔を上げて、チヨがいるはずの空間を見つめる。
『川で魚を捕った夏』
一緒に川に入って、素手で魚を追いかけた。チヨの方が上手で、いつも悔しがっていた健司。でも、チヨが捕った魚を分けてくれる時の笑顔が、まぶしかった。
『雪合戦をした冬』
かまくらを作って、その中で二人でお汁粉を飲んだ。チヨの頬が、寒さで赤く染まっていた。可愛いと思ったけど、言えなかった。
『一緒に勉強した受験の頃』
健司が医学部を目指すと言った時、チヨは心から応援してくれた。深夜まで一緒に勉強して、時には居眠りしている健司に毛布をかけてくれた。
『医学部に合格した日』
真っ先に報告したのはチヨだった。彼女は自分のことのように喜んでくれて、「村のみんなを助ける、素敵なお医者さんになってね」と言った。
その言葉が、医師としての原点になった。
■医学生時代の真実
『医学部の6年間、本当に辛かった』
健司は続けた。彼の生命の熱に、当時の苦しさが宿っている。
『解剖実習で、初めて人体にメスを入れた時』
手が震えて、何度も手を止めた。人の命の重さを、初めて実感した瞬間。
『臨床実習で、患者さんの死に直面した時』
どんなに医学が進歩しても、救えない命がある。その無力感に、押しつぶされそうになった。
『国家試験の重圧』
膨大な知識を詰め込み、プレッシャーと戦う日々。何度も挫けそうになった。
『でも、君からの手紙が支えてくれた』
健司の手が、震えながら文字を書く。
『毎月必ず届いた。村の写真と一緒に』
春の桜、夏の祭り、秋の紅葉、冬の雪景色。季節の移ろいを伝える美しい写真と、優しい言葉。
『今日、村では田植えが始まりました』 『夏祭りの準備で、みんな忙しそうです』 『紅葉がきれいです。健司さんにも見せたい』 『雪が積もりました。風邪、ひかないでくださいね』
何気ない日常の報告。でも、その一つ一つが、都会で孤独に戦う健司の心を癒した。
『つらい時は、無理しないで』
ある手紙にはそう書かれていた。試験に落ちて、落ち込んでいた時期。どうしてチヨには分かったのだろう。
『村のみんなが、健司さんの帰りを待ってます』 『私も、待ってます』
その言葉を読むたびに、もう一度頑張ろうと思えた。
『君のために、医者になった』
健司は、チヨの見えない瞳をまっすぐ見つめる。
『君みたいに、人を助けたかった。君の側にいたかった』
都会の大病院からの誘い。最新設備、高給、輝かしいキャリア。医学部の同期たちは、みんなそちらを選んだ。
でも、健司は迷わなかった。
『村に帰る理由は、君だけだった』
その一途な想いが、熱となってチヨの心に流れ込む。




