第68話 新たなコミュニケーション
山を下りた後、三人は新しいコミュニケーション方法を模索した。
手話は見えない。筆談は、書けているか分からない。触れても、感じない。
健司が新しい方法を思いついた。
地面に大きく文字を書いて、チヨの手を取って——触れてはいないが——なぞらせる。
『分かる?』
かろうじて、文字の形が理解できた。空間の変化として、文字を認識できる。
チヨは頷いた。これが、今の自分にできる唯一の確実な返答方法。
でも、自分から何かを伝えることは難しい。
それでも、三人は諦めなかった。
身振り手振り、地面に書く文字、そして何より、心の繋がり。それらを駆使して、意思疎通を図っていく。
『お腹、すいた?』
ルカが尋ねる。
チヨは首を横に振った。もう、空腹も感じない。体温感覚と共に、そういった身体感覚も失われたようだ。
でも、二人と一緒にいることは、変わらず幸せだった。
触れられなくても、温度を感じなくても、二人の存在は確かに感じられる。
それだけで、十分だった。
■夕暮れの発見
写真館に戻る頃には、夕方になっていた。
チヨは魂写機を取り出し、無意識にシャッターを切った。何を撮っているのか、自分でも分からない。でも、撮らずにはいられなかった。
『何を撮ったの?』
ルカが不思議そうに尋ねる。
チヨにも分からない。ただ、何か大切なものを撮った気がする。
家に入ると、不思議な感覚があった。
写真館全体が、温かい記憶に包まれている——温度は感じないが、そういう「質」を持った空間だと分かる。家族の思い出が、家そのものに染み付いて、優しい空間を作り出している。
ここなら、安心だ。
たとえ見えなくても、触れなくても、この家は自分を受け入れてくれる。
夕食の時間、チヨは食べることを諦めた。
口に運ぶことはできても、噛んでいる感覚がない。飲み込んだかどうかも分からない。危険だと判断して、ただ二人の側に座っていることにした。
『一緒にいてくれるだけで、嬉しい』
ルカがそう伝えてくれた。
健司も頷いている——その動きが、存在感知で分かる。
三人で過ごす時間。それは、形を変えても続いていく。
■満月まで、あと三日
その夜、チヨは一人で考えた。
触覚を失って、世界との物理的な接点がほぼ断たれた。見えない、聞こえない、触れない、味わえない、嗅げない。
普通なら、絶望的な状況だ。
でも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、新しい世界が開けたような感覚。物理的な感覚を超えた、もっと本質的な部分で世界と繋がっている。
人の心の熱、想いの風、記憶の大地、命の光。
これらは、五感では捉えられない、もっと深い部分の真実。
もしかしたら、失うことで得られる世界もあるのかもしれない。
でも——
やはり寂しさはある。
もう二度と、ルカを抱きしめられない。健司の手を握れない。
その事実は、やはり心に重くのしかかる。
『でも、最後まで頑張る』
心の中で、強く誓った。
あと三つ。時、命、心。
そして、封印を完成させる。
それが、私の選んだ道。
窓の外では——感じられないが——きっと月が昇っているだろう。
満月まで、あと三日。
時間との勝負は、続いている。
日記を書くことはもうできない。でも、健司に頼んで、簡単な記録を残してもらった。
『六つ目の欠片入手。触覚と体温感覚喪失。存在感知能力獲得。写し世の構造を垣間見る。残り三つ』
短い記録。でも、それで十分だ。
大切なことは、すべて心に刻まれている。
そして、一つの希望も。
写し世の構造を見た時、チヨは気づいたことがあった。
境界は、絶対的なものではない。時に揺らぎ、時に薄くなる。
もしかしたら——
いや、今は考えまい。
まずは、使命を果たすこと。
その先のことは、その時に。
チヨは静かに目を閉じた。
明日は、時の欠片。
おそらく、記憶の一部を失うだろう。
でも、恐れはない。
大切な人たちがいる限り、前に進める。
それが、今の自分の全てだった。




