第67話 写し世の三層構造
氷の欠片を手に入れた瞬間、チヨは不思議な光景を「見た」。
いや、視覚ではない。魂で感じた、と言うべきか。
世界が、三層に分かれている光景。
最下層は、過去の記憶が沈殿している場所。そこには、村の歴史、人々の思い出、忘れられた出来事が、地層のように積み重なっていた。
古い時代の村の姿、開拓者たちの苦労、戦争の記憶、平和な日々。すべてが、時系列に沿って整然と並んでいる。まるで、巨大な図書館のように。
中層は、現在進行形の想いが流れる場所。今この瞬間の、人々の感情、願い、祈りが、川のように流れている。
喜び、悲しみ、怒り、愛。すべての感情が、色とりどりの光となって流れていく。それは美しくも激しい、生命の奔流。
最上層は、未来への希望が輝く場所。まだ形になっていない夢、これから生まれる命、新しい可能性が、星のように瞬いていた。
子供たちの夢、若者たちの希望、老人たちの願い。すべてが、輝く星となって未来を照らしている。
これが写し世の真の姿。現世に重なって存在する、もう一つの世界。
そして、その三層を貫いて立つ、巨大な樹のようなものが見えた。
それは、世界樹。すべての記憶と想いを繋ぐ、宇宙の中心軸。
根は過去に深く伸び、幹は現在を支え、枝は未来へと広がっている。その樹を通じて、すべての時間が繋がっている。
「美しい...」
声に出せないが、心の中で呟いた。
これが、巫女たちが守ってきたもの。この構造が崩れれば、世界そのものが崩壊する。
記憶がなくなれば、人は根を失う。希望がなくなれば、未来は閉ざされる。そして、現在の想いがなくなれば、世界は死んだも同然。
だから、封印が必要なのだ。クロミカゲの力が暴走すれば、この美しい構造がすべて無に帰してしまう。
でも、シロミカゲだけでも不完全。記憶に縛られすぎれば、人は前に進めない。
バランス。それが、最も大切なこと。
チヨは理解した。自分の役割の、真の意味を。
■存在感知の覚醒
触覚を失った代わりに、チヨは新しい知覚を獲得していた。
それは、「存在感知」とでも呼ぶべき能力。
触れなくても、そこに何があるか分かる。人がいるか、物があるか、空間がどうなっているか。すべてが、立体的に把握できる。
まるで、高性能なレーダーを持ったような感覚。
いや、それ以上だ。物質の密度、形状、さらには「本質」まで感じ取れる。
この岩は、千年前からここにある。この水は、地下深くから湧いている。この氷は、普通の氷ではない——そんなことまで分かる。
健司とルカの存在も、より鮮明に感じられる。
健司は、自分の右側に立っている。身長、体格、姿勢。すべてが「分かる」。そして、彼の命の熱だけでなく、存在そのものの「重み」も感じられる。
医師としての使命感、チヨへの愛情、不安と決意。それらすべてが、彼の存在を形作っている。
ルカは左側。小柄で華奢だが、内に秘めた強さがある。姉を失う恐怖と、それでも前を向こうとする勇気。その両方が、彼女の存在の核となっている。
これなら、見えなくても、触れなくても、ある程度自由に動ける。
チヨは一歩踏み出した。足が地面についている感触はないが、重力と空間の関係で、自分の位置が分かる。
もう一歩。そして、もう一歩。
「歩ける...」
驚きと安堵が、心に広がった。
■帰路での気づき
洞窟から出て、山道を下り始めた。
触覚がないため、足元の感触は分からない。でも、存在感知で地形を把握し、慎重に歩く。
『大丈夫?』
健司が心配そうに寄り添う。もう手を引くことはできない——触れても、チヨには感じられないから。でも、すぐ側にいてくれる。
『はい。新しい感覚に、慣れてきました』
木々の配置、道の曲がり具合、石の位置。すべてが「分かる」。
そして、生き物の存在も感知できた。
鳥たちが枝に止まっている。虫たちが葉の裏に隠れている。そして——
『待って』
チヨは立ち止まった。
近くに、大きな存在を感じる。それは——
白い狐。シロミカゲだ。
木々の間から姿を現したシロミカゲは、いつもより大きく見えた——いや、感じられた。
『よくぞここまで来た』
その思念が、直接心に届く。
『残るは三つ。時、命、心』
『はい』
チヨは頷いた。あと三つで、すべてが終わる。
『だが、ここからが本当の試練だ。覚悟はあるか』
『あります』
即答した。もう、迷いはない。
『そうか』
シロミカゲは、チヨの周りを一周した。その動きも、存在感知ではっきりと捉えられる。
『お前の魂は、予想以上に強い。もしかしたら...』
『もしかしたら?』
『いや、何でもない。道を進むがよい』
シロミカゲは、謎めいた言葉を残して去っていった。
その後ろ姿を「見送り」ながら、チヨは不思議な感覚を覚えた。
シロミカゲの存在の奥に、もう一つの存在を感じたのだ。黒い、影のような存在。まるで、光と影が一つになりかけているような...
「まさか...」
でも、それ以上は分からなかった。




