第36話 静寂の朝
風は忘れ、土は眠る。
誰も気づかずに踏み鳴らされた祈りが、 時を経て、ようやく芽吹こうとしている。
忘れられた者よ。 わたしは、名を持たぬまま、それでも君を記録しよう。
写し世は嘘をつかない。 君が確かに"いた"ことを、覚えている。
風は見えざる道標
心の声を運びゆく香りなき世界にても
想いの風は途絶えず愛する者へと届かん
——『霧姫伝説・風の章』より
静寂の朝
1994年5月19日、午前4時。
チヨは無音の世界で目を覚ました。今日で嗅覚を失う。この世界の香りを感じる最後の日。枕元の振動式目覚まし時計が、規則正しく震えている。昨夜、健司が持ってきてくれたものだ。
起き上がって、部屋を見回す。モノクロームの世界に、朝の光が差し込んでいる。色は見えない、音も聞こえない。でも、空気の振動で朝の訪れを感じることができる。
窓を開ける。
朝の空気が頬を撫でる。そして——香りが押し寄せてきた。
朝露の匂い、土の匂い、遠くで焚かれている朝餉の支度の煙。すべてが混じり合って、「朝」という香りを作り出している。
深く息を吸い込む。
これが最後かもしれない。朝の匂い、生活の匂い、生きている匂い。
台所に向かいながら、チヨは家中の香りを記憶に刻んでいった。
廊下に染み付いた古い木の香り。母が使っていた白粉のかすかな残り香。写真館特有の現像液の匂い。
そして——
「コーヒー……」
声に出そうとして、出ないことを改めて実感する。でも、心の中で呟く。
台所には、淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。ルカが早起きして、用意してくれたらしい。
コーヒーの深い香り。豆を挽いた時の芳醇な匂い、お湯を注いだ時に立ち上る湯気と共に広がる香ばしさ。
これも、今日で最後。




