表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/100

第36話 静寂の朝

風は忘れ、土は眠る。


誰も気づかずに踏み鳴らされた祈りが、 時を経て、ようやく芽吹こうとしている。


忘れられた者よ。 わたしは、名を持たぬまま、それでも君を記録しよう。


写し世は嘘をつかない。 君が確かに"いた"ことを、覚えている。


風は見えざる道標

心の声を運びゆく香りなき世界にても

想いの風は途絶えず愛する者へと届かん

——『霧姫伝説・風の章』より


静寂の朝


1994年5月19日、午前4時。


チヨは無音の世界で目を覚ました。今日で嗅覚を失う。この世界の香りを感じる最後の日。枕元の振動式目覚まし時計が、規則正しく震えている。昨夜、健司が持ってきてくれたものだ。


起き上がって、部屋を見回す。モノクロームの世界に、朝の光が差し込んでいる。色は見えない、音も聞こえない。でも、空気の振動で朝の訪れを感じることができる。


窓を開ける。


朝の空気が頬を撫でる。そして——香りが押し寄せてきた。


朝露の匂い、土の匂い、遠くで焚かれている朝餉の支度の煙。すべてが混じり合って、「朝」という香りを作り出している。


深く息を吸い込む。


これが最後かもしれない。朝の匂い、生活の匂い、生きている匂い。


台所に向かいながら、チヨは家中の香りを記憶に刻んでいった。


廊下に染み付いた古い木の香り。母が使っていた白粉のかすかな残り香。写真館特有の現像液の匂い。


そして——


「コーヒー……」


声に出そうとして、出ないことを改めて実感する。でも、心の中で呟く。


台所には、淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。ルカが早起きして、用意してくれたらしい。


コーヒーの深い香り。豆を挽いた時の芳醇な匂い、お湯を注いだ時に立ち上る湯気と共に広がる香ばしさ。


これも、今日で最後。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ