第拾参話 瑠璃色のお嬢様と保険金詐欺事件(2)
瑠唯子は後ろも振り返らず、辻馬車を拾うため最寄りの馬車留まりを目指して一目散に駆けていった。さすがに日頃から郵便逓送で鍛えている足腰である。女性の那弥は元より、男性の那岐斗も和都もまったく追いつけない。瑠唯子が辻馬車を走らせ、息も絶え絶えに向かってくる三人を順に拾って合流した。
「爺はお留守番かしら?」
「はい、私たちがお嬢様を追って飛び出してしまったので」
「そう」
和都も那岐斗も那弥も、瀬蓮に釣られて、彼女を「お嬢様」と呼ぶ。もう子爵令嬢ではなく、一般市民なのだが、彼女もそれに異を唱えたことはない。
瑠唯子と那弥の会話に、和都が割って入った。
「お嬢様。一体全体、どういうことでしょうか? 我々はどこへ向かっているのでしょう?」
「私の思い過ごしであれば良いのですけれど……」
※
到着したのは、東都慈恵育友会の孤児院。そして、瑠唯子の悪い予想は当たってしまっていた。
一階の中ほどの窓から赤い炎が立ち上り、真っ黒な煙がそこかしこからあがっていた。暗い夜空に向かって、火の粉が舞う。
「火事だ!」
和都が呆然としながら叫んだ。
「まだ火の手はあがったばかりだわ! 少しでも子どもたちを救い出すのよ! ワトソンさんは、消防へ連絡を!」
「は、はい!」
二日後に迫る一斉検挙までに事故死にみせかけて一人ずつ殺し、掛けた生命保険で資金の回収をしている余裕はない。しかし、火災であれば、火災保険が降りる上、焼死ならば確実に生命保険も回収できる。その上、面倒な証拠隠滅まで同時に行えて、一石三鳥。
瑠唯子たち同様、今日の午後に情報を入手したなら、その日の晩に失火という形で火事を起こすのではないか。
残念ながら、瑠唯子の予想が当たってしまった。
「まず、二階から行きましょう!」
「はい!」
間取りにもよるが、木造二階建ての建物の場合、火の回りが早いのは一般的に二階の方だ。火災が発生すると、熱い空気や煙は上へと上昇する。そのため、木造の建物では、まず上階に火が燃え広がるのだ。特に、階段や吹き抜けなどの垂直な経路はすぐに使えなくなる。
※
瑠唯子、那岐斗と那弥のペアに分かれて、一つ一つ部屋を回って、取り残された子どもたちを探していく。
――居た! 子どもが二人。
火に囲まれた部屋に飛び込み、なぜ子どもたちが部屋の真ん中で蹲っているのか、納得した。外から部屋に飛び込んだ彼女には、どちらに逃げれば安全かが分かるが、こうして部屋の真ん中に居ると、どちらに逃げればより安全なのか、皆目分からない。
「さ。お姉さんについてきて!」
二人の手を引き、来た道へと引き返す。傍で燃える炎は無く、まだ少し距離があるというのに、熱気はしっかりと肌を舐めていく。冷え込む二月の夜にも関わらず、全身汗だくだった。
※
「お嬢様、居ました! 子どもが三人! 大丈夫。怖がらなくていいからね。お兄さんが今、助けてあげるから!」
消防に連絡を入れて、瑠唯子に合流した和都が目ざとく子どもを見つけて言った。
煙でむせび泣く子どもを両の手に抱えて和都が立ち上がる。
続いて駆け寄った瑠唯子も残りの子どもを抱えて立ち上がる。
こうして、四人による子どもたちの救出が始まった。
※
空気が乾燥していて、火の回りが早い。
手押し車に取り付けられた手動式ポンプが運びこまれ、消防団による放水が始まった。
消火は消防に任せ、火の手が大きくならないうちに、一人でも子供たちを助けだす。
孤児院の職員は、火を放ってとっくに逃げたのだろうか。取り残された子どもたち以外、大人は影も形もない。
「あなたたちも、それ以上は危険だ! あとは我々に任せなさい!」
消防士にそう声を掛けられたが、まだ中には子どもたちが取り残されている。建物の入り口で消防士に子どもたちを引き渡すと、瑠唯子と和都は、水を頭から被って、躊躇うことなく再び火の中に戻っていった。
ちょうど那岐斗と那弥が同じように子どもの手を引き、建物の入り口にやってくる。
「二階は、これで終わったと思います! まだ一階が見回りきれてません!」
那岐斗が叫ぶのを聞いて、瑠唯子と和都はすれ違いざま頷いた。
煙が目に染みる。喉が焼けるように痛い。
――これ以上、煙を吸い込まないよう気を付けませんと。
次に瑠唯子が開けた扉は職員室のようだった。
職員室は幸いまだ火の手が回っていない。にも拘わらず、頭の高さ辺りまで煙が立ち込めている。腰を落として奥を探る。そこには自分の机に突っ伏している職員たちが居た。煙や二酸化炭素中毒というわけではなさそうだった。
「これは……どういうことでしょう?」
戸惑う和都が言った。
「薬……かもしれませんね」
食事か何かに睡眠薬を盛られたのだろうか? だとすると、火を放ったのは、彼らではなく、もっと上役の職員か管理者なのだろう。そして……。
「まさか、この人たちも証拠隠滅のために……?」
「えぇ。恐らく」
人の命を何だと思っているのだろう。「東都慈恵育友会」という組織の人を人とも思わない、情け容赦のない、非道な振る舞いに瑠唯子は怒りを覚えた。
意識の無い大人を運ぶには到底手が足りない。入り口から一番近い席で突っ伏している男を瑠唯子と和都が両側から肩で支えるように運びだし、外の消防団に状況を伝える。
――駄目だわ。ぜんぜん手が足りない!
「もう無理だ。完全に火が回っている。これ以上は君たちも危険だ!」
そう、消防士の一人が声を掛けてきた。中の様子を直に見ている瑠唯子は、彼ら以上に状況を正確に把握していた。その通りだと思う。しかし。
「あと、あと一回だけ!」
「おい!」
静止を振り切り、瑠唯子が再び建物に向かう。和都も一瞬の躊躇いも見せず、付いていく。彼女が果敢に火に飛び込んでいくのを、黙って見送れるわけがない。
※
那岐斗と那弥は、十人の赤ん坊を前に戸惑っていた。抱っこ紐のようなものがあれば、一度に五人ずつ抱えて運ぶことも可能かもしれない。しかし、手頃なそんなものは見当たらない。それぞれ二人の赤ん坊を両腕に抱えたとして、残りの六人を見殺しにすることになる。
「仕方ない。二人ずつ……運ぼう」
こうして迷っている時間すら惜しい。決断しなければならない。上手くいけば三往復して全員助けられるかもしれない。とてもその余裕はなさそうではあるが。
「何か、何か無いか、探してみましょう!」
――たしか、倉庫のような部屋があった筈……。
そう言って部屋を飛び出す那弥の意図を察し、那岐斗も何か使えるものは無いかと辺りを探す。しかし、やはり、そんなものはない。
「俺はまず、二人を運ぶ。すぐに戻るからな!」
「はい!」
辺りの柱も壁も梁も天井も、すべての物が燃えていた。部屋全体が大きな炎に包まれ、燃え落ちた扉の枠から、真っ赤な舌を伸ばしてくる。上からは火をまとった木片や紙片が雨のように降り注ぐ。
那弥は、火をかいくぐるように、倉庫に辿り着いた。救出すべき子どもは居ないと飛ばしたため、中に何があるかは良く見なかった。廊下よりも一層熱い熱気に満ちた倉庫に飛び込む。目を開けているのも辛い。
薄目で見渡すと、大きな二輪に板を渡した荷押し車が壁に立てかけられて燃えている。一部炭化しつつあったが使えそうだ。これなら、残された八人の赤ん坊を一度に運ぶこともできる。那弥は、たっぷりと水を含んだ袢纏の袖でばんばんと叩いて火を消すと、渾身の力で倉庫から荷押し車を引っ張り出した。火事場の糞力とはよく言ったものだ。那弥は、自分のどこにこんな力があったのかと驚きながら、荷押し車を押して、赤ん坊の居る部屋へと戻った。
※
「さ、行きましょう」
誰にというわけでもないが、そう言うと那弥は、八人の赤ん坊を寝かせた荷押し車をそっと押し始めた。急がないと駄目だが、板から赤ん坊を落とさないようにと注意を払いつつ。しかし、足元には様々な物が散乱し、車輪がそれらに乗り上げる度に、荷押し車は大きく揺れた。
今や、建物は燃えるだけでなく、炭化した柱が自重を支えきれず、崩壊し始めていた。大きな梁が傾き、それにともない土壁が崩れ落ちてくる。土塀はめらめらと燃えたまま、那弥と荷押し車に襲いかかってきた。
「ああっ!」
那弥は、荷押し車に寝かせた赤ん坊を庇ってそれらに背中を強かに撃たれ、倒れてしまった。
※
最初に発見したのは瑠唯子だった。
「ワトソンさん! 那岐斗さん! ここよ!」
那弥を荷押し車に担ぎ上げ、そのまま三人で荷押し車を押して脱出する。
「那弥! 那弥! しっかりしろ!」
那岐斗が声をかけるが意識はない。
「早く! 二階が落ちるぞ!」
脱出する彼らに消防士が叫ぶ。同時に、大きな揺れと轟音が響き、瑠唯子たちの背を押した。
なんとか外へと連れ出してみると、ござに座らされていた子どもたちは、少しずつ最寄りの診療所へと運ばれている最中だった。空いたござに那弥をそっと寝かせる。意識も無いが、改めて確認すると、全身の火傷も酷い状態だった。特に顔の左側から左腕にかけてが酷い。ケロイド状にただれ、髪や衣服と癒着してしまっている。
「那弥! 那弥! しっかりしろ!」
「那弥さん! しっかり!」
「那弥さん! お願い。返事をなさって!」
那岐斗も和都も、そして瑠唯子も。ただ、声をかけることしかできない。
――助からないかもしれない……。
瑠唯子は、心をよぎるその不安に押しつぶされそうだった。子どもたちの未来を決して諦めない、そう心に誓ったばかりだと言うのに。全員を救いだすことはできなかった。まだあの火の中に取り残されている子どもたちがきっといる。職員室にも証拠隠滅のために犠牲を強制された職員たちがいる。それなのに、もう、どうすることもできない。これ以上は助けられない。
「あの時、僕が残っていれば……」
那岐斗が自分を責めていた。しかし。
――彼女をここへ連れてきてしまったのは私。那弥さんの命を奪おうとしているのは私よ。
那弥の命を奪うこと。それは、彼女の娘である和加子から、母親と共に暮らす未来を奪うということでもあった。
――私、ぜんぜん救えてない……。
どんなに銃の知識があろうとも。どんなに銃の命中精度が高かろうとも。そんなものでは、何も救えない。彼女は、またしても無力感に打ちのめされるのだった。
その時、聞き覚えのある声がやさしく降ってきた。
「お嬢様、私が代わりましょう」
「瀬蓮、どうして?」
「備里くんを呼びにやって、留守番を代わって貰いました」
そう言って、仰向けに寝かされた那弥の傍に座ると、首の下に脱いだケイプを丸めて置いて、頭を少し後ろへ傾けた。そうしておいて、彼女の両腕をしっかりと掴み、彼女の頭の上へと持ち上げる。次に、その両腕を那弥の胸の上に折り畳むように下ろし、その腕ごと、軽く胸部を圧迫する。この動作を一分間に十五から二十回、一定のリズムで繰り返した。
「那岐斗さん、代わって貰えますか?」
「は、はい!」
瀬蓮と場所を交代した那岐斗が、同じ動作を引きついだ。仰向けにござの上で水泳をするような不思議な動作。これにどんな意味があるのか、瑠唯子にはわからない。
「爺、これは?」
「シルベスター法という救命措置だそうです。頭の上へ腕をあげることで胸が広がり、肺に空気が入ります。腕を降ろして、今度は肺から空気が排出されるのです」
「まぁ、人工的に呼吸をさせるのですね?」
「はい」
三秒から四秒で腕を上下に動かす。これは大の大人であっても、疲れる動作だった。夜通しの救出で疲労の堪った那岐斗には、なかなかに辛い作業だった。自然、息もあがり、全身に浴びた煤が黒い汗となって滴り落ちる。そして、なにより、どんなに繰り返しても、那弥の意識は戻らない。
「諦めるな! 自然に呼吸を再開するまで続ける!」
「は、はい!」
いつにない、瀬蓮の厳しい叱咤に、ともすれば諦めてしまいそうになる心を鼓舞して、那岐斗はこの動作を続けた。
かひゅー!
那弥が大きく、息を吸い込む音。
げほっ、げほっ!
続いて、咳込みながらも、息を吐く音。那弥が意識を取り戻した。
「那弥! 那弥!」
「那弥さん!」
「良かった……」
感極まった瑠唯子が、和都に抱きついた。無力感に耐え、抑えていた感情が一気に爆発する。
「え……」
戸惑う和都だったが、むせび泣き、震える瑠唯子を全身に感じ、ただ、黙って彼女を受け止めた。
東の空が赤く染まり、長い夜の終わりを告げていた。明け方になり、ようやく火災は鎮火に向かい始めていた。




