第拾肆話 瑠璃色のお嬢様と保険金詐欺事件(3)
薄暗い森の中を竪琴を手にした男が女の手を引き歩いていく。彩度を落とした森は黒々と陰鬱ではあるが、奥からは光が差し込み、全体としては明るい雰囲気を醸し出している。ただ、その明るい光の中に半ばシルエットのように立つ五人の人影は、肩を寄せ合い、感情を欠いた眼差しで男女を見送っている。その様子が、この後、男女に訪れる不幸を暗示しているようで、観る者を不安にさせる。
瑠唯子は、立派な額装に収まったその絵を見つめていた。
「お嬢様、この絵がどうかされましたか?」
と、和都が瑠唯子に声をかけた。
「カミーユ・コローの『冥界からエウリュディケを導くオルフェウス』ですわ。本物は、たしかヒューストン美術館に収蔵されている筈ですの。ですから、これは恐らく複製画ですわね。お店に飾られている絵画の中で明らかにレプリカと思われる唯一の作品……」
竪琴を手に先を歩く男が竪琴の名手オルフェウス。そして、男に手を引かれ、後ろを歩く女が森のニンフ、エウリュディケである。蛇に噛まれて命を落とした妻、エウリュディケを冥界に迎えに行き、冥王ハーデスの面前で自慢の竪琴と歌を披露する。それが気に入られ、無事エウリュディケを連れて帰ることを許された、その場面である。
「えぇ、知ってます、知ってます。『地上に出るまで決して振り返るな。振り返ったらエウリュディケは永遠に失われる』と言われていたのに、地上まであと少しってところでオルフェウスが振り返ってしまい、エウリュディケが冥界に連れ戻されてしまうお話ですよね。ギリシヤ神話でしたっけ? この場面は、暗い森の中にあって明るい雰囲気も感じられますから、恐らく冥界で意気揚々と帰途に着いたばかりってところですかね」
「あら、ワトソンさん、勉強熱心ですわね」
「えぇ。実はあれから、可陽茶館に飾られている絵や書画については、色々と調べたんですよ」
あれから、というのは、瑠唯子に初めてあった日に「教養を身に付けろ」と言われたことを指していた。
和都は得意げに話を続けた。
「面白い偶然ですよね。日本の神話にも似たお話があるじゃないですか。イザナギ、イザナミの……」
そこまで言いかけて、瑠唯子がなぜこの絵を眺めていたかに思い当たり、口をつぐんだ。
伊佐兄妹の名前との類似性には和都も気が付いていた。伊佐那岐斗と、伊佐那弥。イザナミは、火に焼かれて死に、イザナギはそんな彼女を黄泉の国から連れ戻そうとするが、地上に戻る前に振り向いてしまって連れ戻すことが出来なかった。
「あの方たちのご両親は、どうして兄妹に夫婦の神の名を付けたりなさったのかしら」
――これでは、まるで名前に導かれているというか、縛られているようですわ。
「どうだか、それはご本人に聞いてみないと分かりませんが。仲睦まじい兄妹で居て欲しいとか、そういうことなんじゃないですかね?」
「そうかも、しれませんわね」
那弥は、まだ入院したままだ。今は意識もあり、落ち着いているが、火傷は酷く、いつショック状態に陥ってもおかしくないと言われていて、予断を許さない。よしんば順調に快復できたとしても、退院まで少なくとも六か月はかかると言われている。そして、彼女が左半身に負った火傷の痕は、一生消えることはないと医者から言われていた。今は、那岐斗が付き添っている。
「とんでもない夜でしたわね」
「そうですね……」
那弥の意識が戻った瞬間、安堵から和都に抱きついた瑠唯子だったが、それからが大変だった。いち早く火事による証拠隠滅の可能性に思い至り、現場に駆け付けたからこそ、大勢の命を救うことが出来た。にも拘わらず、救えなかった命のことを思い、瑠唯子は自分を責め、和都の肩で泣くのだった。和都は、そんなお嬢様をなだめるための説得に、比喩や誇張ではなく、死力を尽くさねばならなかった。和都が初めて見る、瑠唯子の脆い一面だった。人の死に敏感なのは、彼女の父の死に関係があるのかもしれない。
しかし、一夜明け、今の彼女は完全に立ち直っているようにみえる。
――やっぱり、この人は強い人なんだなぁ。
そんな事を思い返しながら、和都は自分の中に今まで感じたことのない感情を見出し、戸惑っていた。急に、彼女を腕の中に抱いた時の感触が蘇る。汗ばむうなじ。煤まみれの肌を黒い汗が流れたところだけ、白い肌が露わになって、輝く縞模様を描きだす。それは日常生活の中では見ることのできない特別なもので、傍で尽力した者だけが目にすることのできる特権でもあった。その希少さが、特殊性と相まって、なんだか淫靡なもののように感じられた。肩にしなだれかかる彼女を重さ、存在感。息遣い。鼻をくすぐる髪の臭い。タールのツンと鼻を突く臭いの奥に感じる、彼女の本来の香り。意外と筋肉質な腕や背筋。それを覆う柔らかい肌の感触。服の上からも感じられるその硬さと柔らかさ。胸板に押し付けられた柔らかな双丘の……双丘の……
「ワトソンさん、どうされまして? お顔が赤いですが、お熱でも?」
「い、いえ! だいじょうぶでふ!」
これ以上はいけない。
「すみません! 孤児院の火災を記事にまとめないといけないので、僕は本社に戻ります!」
一段飛ばしに階段を降りながら、挨拶もそこそこにワトソンは駆けていく。
「ごきげんよう……あんな事があったばかりですのに。記者さんも大変ですわね」
※
体を拭いて汚れを落とし、着替え終えたところへ、東京警視庁の刑事部長、戸場瀬厳悟が店にやってきた。
階段の踊り場で戸場瀬を出迎え、いつもの客室へと通す。
「いやぁ、お嬢さんも昨晩は大奮闘だったようだね」
――すべて、計算づくでいらっしゃるのに。
「独り言」だなどと言いながら、一斉捜査の情報をリークし、瑠唯子たちを手の平の上で操って、警察の捜査が有利に進むよう段取りをしたのは戸場瀬だ。火事まで予見したかは分からないが、彼女たちが動くことによる化学反応を期待していたのは確かだろう。食えない男だ。
いつものように、瑠唯子があかんべぇを返しているところへ、瀬蓮が珈琲を淹れて部屋に入ってきた。昨夜は一睡もしていない。今は珈琲のカフエインが有難かった。
「明日予定していた『東都慈恵育友会』への一斉捜査は急遽繰り上げ、本日行われることになった」
「でしょうね。戸場瀬様は、こんなところで油を売っていて大丈夫ですの?」
「儂は、その段取りをするのが仕事であって、陣頭指揮は任せておるからな」
「なるほど」
戸場瀬が分厚いファイルを鞄から取り出して広げた。以前、和都に見せて貰ったのと同じ、「東都慈恵育友会」の顧客名簿の青焼き複写だった。朱色のペンで沢山の書き込みがしてある。
「お嬢様の活躍で救出できた子どもたちは、三十五名。職員三名。亡くなったのは、職員が五名。今のところ、名簿と照らして行方不明とされている子どもが七名。ただし、この七名については、恐らく、昨晩、あの施設には居なかったと思われる。既に死亡したか、出所して生活しているものと思われるが、まだ裏取り中だ」
「と言いますと、つまり?」
驚きの余り声の出ない瑠唯子に代わって、瀬蓮が問いただす。
「あぁ、恐らくだが、子どもたちは全員救いだせているよ」
戸場瀬のその答えに瑠唯子の瞳孔が大きく開く。
「あああああっ! あああああっ!」
――あぁ、あぁ……。お父様!
神仏への感謝の代わりに、亡き父に向かって感謝する瑠唯子だった。安堵とともに、また泣きそうになるが、戸場瀬の前で泣きたくはない。どうせ、からかわれるのが落ちだ。目頭をそっと抑え、感情が溢れそうになるのをぐっと堪え、静かに席を立つと窓際へと移動し、空を見上げる。
「ううううう……ううううう……」
緊張を強いられた一晩を過ごした反動で、嗚咽と涙が止まらない。
戸場瀬もさすがにそんな瑠唯子をからかったりはしない。涙にも気付かぬ素振りで話を進めた。
「ただ、妙なことに。この顧客名簿に照らしても該当しない子どもが五名もいるんだ。これについて、なにか心当たりはないかね?」
そう言って、戸場瀬は手書きのメモをひらひらと振った。なるほど。今日の訪問の本当の目的はそれか。そうは思うものの、今は窓際から動けない。
「失礼」
瀬蓮が戸場瀬からメモを受け取り、そっと窓際の瑠唯子の元までそれを持ってきた。瑠唯子はぐいと涙を横一文字にぬぐうと、メモの中に目的の名前を探した。その中に、神田に住むあの老夫婦の孫の名前は……
――あった! ありましたわ!
瑠唯子は、ほっと胸をなでおろしながら、メモの一行を指し示して、瀬蓮に頷いた。これ以上、喋るのは無理だった。拭っても拭っても涙が零れる。ただ息をするのも苦しいほどに、頬も顎も喉も震えていた。
そんなお嬢様の様子を受けて、代わりに瀬蓮が答えた。
「メモの五名全員がそうかはわかりませんが。この四番目のお子さん。お嬢様が捜索依頼を受けて捜索されていた方のお名前だそうです。法外な保険金を掛けさせられていた方のお孫さんで、そして顧客名簿にないことから、恐らく……」
「保険金詐欺……か」
「左様でございます」
――爺、ありがとう。
これで、警察も保険金詐欺の線で、きちんと「東都慈恵育友会」を追い詰められるだろう。あの老夫婦の孫も、無事生きていた。捜査における重要参考人でもあり、もうしばらくは警察預かりだろうが、間違いなくあの老夫婦の元に返してあげられる。
――良かった。本当に良かったですわ。
「ところで。君たちが救い出した職員の一人が、なんと、物騒なことに、銃なんて忍ばせていてね」
戸場瀬はまるで値踏みでもするように、瑠唯子の顔色を伺いながら言った。
「FNブローニングM1900。大事な証拠品なので、さすがに現物は持ってこれなかったが、グリップに妙な彫り物があったんだ」
そう言って、その図柄を写した別のメモ紙を瑠唯子に見せた。それは、蛇が自分の尻尾を加えている図だった。
――あの横濱の倉庫の狼が持ってたのと同じ……
横濱の倉庫で、あの男からM1900を拝借した事は、秘密だった。知られるわけにはいかない。はっきりと否定したいが、今は言葉が出ない。
しかたなく、首を横に振って、知らないと意思表示をする。
「そうか、見覚えはないか」
今度は首を縦に。
「わかった。じゃ、まだ色々ごたついてるので、帰るよ。ご馳走様。そうだ、引き取り手の無い子どもの扱いについて、また相談にのってくれないか?」
「はい。お嬢様共々、善処させていただきます」
戸場瀬が広げた帳簿やメモを鞄にしまって立ち上がる。
「そうだ。言い忘れてた」
まだ何かあると言うのだろうか。一睡もしていない瑠唯子も瀬蓮も、集中力が切れかけていた。これまで不用意な発言は懸命にも避けていたが、不意を突かれるとボロが出てしまうかもしれない。
「まだ何か?」
緊張を気取られぬよう、気を付けながら瀬蓮が言った。
「いや、いや。火災から懸命に、人命救助を行ってくれて、ありがとう。感謝する」
そう言って、戸場瀬は襟を正して、背筋を伸ばすと、ぐいと腰をしっかりと折って深々と礼を言った。
※
戸場瀬が去った後、室内に瀬蓮しか居ないのを良いことに、わんわんと子どものように泣いた。そうして、ひとしきり泣いて落ち着いた後で、そっと瀬蓮が言った。
「お嬢様、あの子どもたちをどうされるおつもりですか?」
那弥が入院し、那岐斗が付き添っているため、書画閲覧室を使った託児室では、出勤した女給たちが交代で子どもたちの世話をしていた。しかし、そのせいで茶館のフロワーは手薄になることが予想される。それが那弥が退院するまで六か月続くのだ。人を増やさずに乗り切るのは無理があった。
そして、瀬蓮が言っているのは、もっと将来に渡る話でもあった。「あの子どもたちをどうする?」とは、「あの子どもたちの未来をどうする?」の意味だった。それに、現在保護している子どもたちだけでなく、そこにまだ引き取り手のいない昨晩の子どもたちが加わることになる。
「そうね。爺、私、次のお休みにでも、市内の孤児院にお邪魔してみようかと思っていますの」
「そこへお預けになるのですか?」
「いいえ。そんな無責任なことはいたしませんわ」
「では?」
「私、あの子たちの全てを背負ってみせます。そのためにも、孤児院を立ち上げるために必要なことを学びに行って參ります」
「なるほど。そういうことでしたら。もう一度、ご母堂様も頼られてはいかがでございましょうか」
心身を患う以前、瑠唯子の母は孤児院の経営をしていた。
「そうね。お母さまも仕事熱心な方でしたから。私のことは分からなくても、案外、孤児院のことでしたら、会話ができるかもしれませんわね」
そう言って、瑠唯子は小さく笑った。
ぎぃ。
その音にすばやく反応して瀬蓮が言った。
「すみません。本日は午後からの開店を予定してございまして……」
しかし、その制止にも関わらず、店の扉が開いた。
「私です。マスター」
店の入り口に立っていたのは那岐斗だった。
「那岐斗さん!」
「那弥さんの看病はどうされたのですか?」
「いやぁ。病室から那弥に追い出されました。私たちが二人とも居ないと茶館が困ってしまうだろうって。和加子だけでなく、茶館の子どもたちは皆、私たちの子どもでもあるんだから、と」
「そうでしたか。どうぞ、そんなところに立っていないで、どうぞ中へ入ってください」
まだまだ問題は山積している。仕掛り中の事件の調査もある。例の弔慰金強盗殺人事件の裏には、まだなにか組織的犯罪の影が潜んでいるし、瀬蓮が追及を嫌がる重巡戰艦「筑波」の爆発事故も追いかけてみたい。「東都慈恵育友会」の一部、恐らくは幹部と思われる者たちが持っていた銃のグリップに刻まれた蛇の紋章。そして、茶館で預かることになった子どもたち。
しかし、多少、非日常なものが混ざっているとはいえ、日々問題を抱え、その問題を一つずつ乗り越えて生きていくこと自体は、当たり前の日常だと言えなくもない。
「東都慈恵育友会」の事件については、一区切りが付いた。不随する問題や、新たな謎、くすぶり続ける火種などは、また明日向き合えば良い。
「那弥さんの様子を教えてくださらない? 落ち着いたら、これから始まる『可陽茶館の一番長い日』も手伝ってくださいな。午後からお店を開けるつもりですが、今日はきっと大変だと思いますよ」
「わかりました」
「さて。私も、午後からは出勤ですので、支度しませんと」
「え? 一睡もされてないですよね? 今日はさすがにお休みされては?」
「それは、爺も那岐斗さんも同じですわ。それに、私、休んでなんていられませんの。一刻も早く、あの老夫婦に、吉報をお届けしませんと!」
そう言って、自室へ向かって颯爽と階段を上っていった。微かに口角をあげて笑みを湛え、階下で見上げる皆にたおやかに手を振る仕草は、まさに子爵令嬢全としたお嬢様の雰囲気だった。
第壱章 瑠璃色の冒険 おわり




