5
三学期はあっという間に過ぎていく。
おれ達は相変わらず温室で二人の時間を楽しんだ。
日が暮れるのはまだ早かったが、リンが持っていたアロマキャンドルのおかげで、冬の色気の無い温室が華やかになる。
「これローズマリーだって。やっぱり本物の方が、やわらかい匂いだなあ」
「昔はローズマリーってバラの種類だって思っていた」
「まあ、そう思うよね。S&Gの『スカボロフェア』の歌詞にParsley,sage,rosemary and thyme,ってあるだろ?あれで覚えたんだ。古歌好きの姉貴がよく歌っていたんでね」
リンはおれの知らない色んなことを知っている。おれはいつも教えられてばかりだ。
リンはすべてに対して豊かだ。おれはリンに何がしかの感性を与えられているのだろうか。
絵を描くことしか取り得の無いおれに…
リンは薄暗い中で、デッサンをする俺のスケッチブックを取り上げて、それを眺める。
「相変わらず、色彩豊かな絵だなあ〜鉛筆描きなのに色が見える。俺のやった色鉛筆は出番無しだな」
「違うよ。あれは大事なもので…減らすの勿体ないんだよ」
「バカ、減ったら今度は俺が買ってやるよ。ミナの為ならバイトをしてでも貢いでやるから」
「そんなの…しなくていいよ」
冗談でもおれの為にと言う…そういうリンが堪らなく好きだ。
両親とは違う。追い詰める愛情ではない。
おれを上昇させてくれる愛だ。
二月に入ってもおれ達の関係は崩れない。
言い方を変えれば、キス以上の発展はない。
前にも後ろにも進まない今の関係が良い訳が無い。
おれが悪いんだ。
リンは何度かおれをそういう行為に誘ったりしている。
おれが嫌がる素振りを見せると、リンは無理強いしない。
それはそれで、それ以上おれを求めていないんじゃないかと、別な不安を感じたりする。
勝手な言い草だ。自分でも呆れる。
冬の寒さの中でも温室は暖房を入れなくても暖かくて、のんびり硝子越しの外の景色をスケッチしていると、リンがやって来る。
おれはリンの両手に抱えているものに視線をやった。
片方はいつものカバンだが、もう片方はやけにでかい手提げの袋だ。
「なんか、美術の工作?」
「いや、今日はバレンタインだろ?チョコケーキ作ってきた」
「え?」
バレンタイン?…そんなのすっかり忘れていた…そういや根元先輩がプレゼントどうのこうのって言ってた気が…
「ミナの為に作ったの。初めてだから手間取ったけど、匂いは美味そうだから、大丈夫だろう」
「…ええっ!お、おれのため?リンが作った…の?…うそ…」
「…そんなに驚くなよ。変なもん入ってないから」
「そうじゃなくて…おまえ、ケーキなんて作れるの?」
「ママさんがお菓子作りが得意でさ。レシピ置いていったの。簡単に作れるからやってみろって。で、まあ、いい機会だから…え?チョコケーキ嫌いだっだ?」
おれは顔を横にぶんぶん振った。
自分がケーキを作るなんて、思ったこともない…から、リンが作れるのがすごいって単純に驚いた事と、おれのために作ってくれたなんて…感動しないわけがなかろう。
「箱は適当に、お菓子の空き箱に入れてきたんだけど…崩れていないといいんだけど」
と、リンはおれは目の前に箱を置き、そっと蓋を開けた。
チョコレートの甘い匂いが温室に広がった。
「良かった。崩れていないや」
「…リン、すごい…美味しそうだよ」
「食べてみてよ」
「え?」
「いや、味見してないから、ミナ食べてよ」
「…もったいないよ。それにナイフかフォーク…」
「…そんなのないよ」
「…」
「手で食べればいいじゃん」
「いやだよ」
「なんで」
「折角綺麗なケーキを手で崩したくない」
「…あ、そう。じゃあ、持って帰って食えば」
「…そうする」
俺は蓋をして、崩れないようにケーキを平らな机に置いた。
リンはこわばった顔でそれを見てる。
「ああ、ゴメン。おれ、リンにチョコ用意していない」
「え?…ああ、いいよ。正直チョコはもういい」と、リンは袋の中を俺に見せた。
数え切れないほどのリボンのついた包みがあった。
「それ、今日貰ったの?全部うちの学生?」
だったら、この学校はまともじゃない。
「いや、朝、学校に来る途中で、女学生5,6人からも頂いた。全く見ず知らずの人なので驚いたけど。靴箱開けりゃ落ちてくるし部活に行きゃ、先輩方から嫌味なのかどうだか知らないが、迷惑なほどくれるしさあ…手作りケーキも食ったよ。正直もう俺、プレゼントいらんわ」
「…ですか」
聞いてて気持ちがいいわけが無い。これが嫉妬ってやつなのか…
恋人が出来ると色々とうらめしいな。
まあ、リンは中身は置いといて見かけはめちゃくちゃいいから、これくらいは仕方ないことだと割り切り、大きい気持ちでいないと身が持たないぞ…
「でもミナからはもらいたかったかな」
リンからの催促は最もな話だが…
「悪い。来年は忘れないから。その代わりホワイトデーには奮発す…あっ!!」と、小さく叫んで気が付いた。
ホワイトデー即ち3月14日は俺の誕生日だった。
たぶんリンは知らない。
その証拠に呆けた顔をしたまま、突っ込まない。
いい事を思いついた。
おれは決めた。
その日、おれのすべてをリンにあげることに。