第2話:病める風、遠き王都より
王子がやってきた…!
「お行きなさい、リリア」
アシル様は、屋敷の方角から響く鐘の音に静かに目を伏せ、そう促した。
「今宵の海の機嫌は少し悪い。……それと、屋敷に招かれざる『風』が入り込んだようだ。気をつけなさい」
「風……ですか?」
リリアが小首を傾げると、アシル様は彼女の額にそっと指先を滑らせた。冷たくて心地よい魔力がリリアの輪郭を包み、夜の冷え込みから身体を守るヴェールとなる。
「私が見守っています。何かあれば、すぐに水を呼びなさい」
「はい。ありがとうございます、アシル様」
深々と一礼し、リリアは名残惜しそうに引き返した。波打ち際から離れる彼女の後ろ姿を、精霊王の蒼い双眸がじっと見守っていた。
静まり返った屋敷の隠し扉から私室へと戻り、手早く寝着に着替えたリリアは、コンコンと控えめに叩かれた扉の音に息を整えた。
「リリア、起きているかい?」
扉の向こうから聞こえたのは、父・辺境伯の声だった。
深夜の訪問など、尋常ではない。リリアはショールを肩に羽織り、扉を開けた。
「お父様、このような夜更けに……何かありましたの?」
父の表情は、いつになく険しかった。国境を守る武人としての威厳の中に、どこか困惑の色が混じっている。
「急なことで驚かせてすまない。たった今、王都からの馬車が到着した。極秘裏の移動ゆえ、事前通告もなかったのだ」
「王都から……?」
「ああ。静養のため、しばらくこの地に滞在されることになった。――第2王子、アルフレッド殿下だ」
その名を聞いて、リリアは小さく息を呑んだ。
王都から遠く離れた、この荒々しい潮風が吹き荒れる辺境の地。お世辞にも「静養」に適しているとは言えないこの場所に、なぜ王子が。
「殿下は……少々、お体に差し障りがあってな。王都の喧騒を離れる必要があるのだ。リリア、お前も辺境伯家の令嬢として、失礼のないようにお迎えしてほしい。……だが、けっして深入りはするな」
父の言葉には、娘の身を案じる重みがあった。
翌朝。
灰色の雲が薄く広がる空の下、リリアは応接室でその高貴なゲストと対面した。
「……はじめまして、リリア・ローウェル嬢。急な訪問を、許してほしい」
ソファに腰掛け、細い指先で温かい茶を包み込むように持っている少年。それが第2王子、アルフレッドだった。
白銀の髪に、陶器のように白い肌。リリアより少し年上に見えるが、その身体は驚くほど細く、痛々しいほどに儚げだった。
だが、リリアが何よりも息を呑んだのは、彼の容姿の美しさではなかった。
(……この、嵐のような魔力は……っ)
リリアの目には、はっきりと「見えて」いた。
アルフレッドの身体を包む、激しく狂ったように渦巻く灰色の魔力。それは鋭い「風」の形をしており、彼の体内から外へ出ようと、逃げ場を求めて暴れ狂っている。
まるで、見えない刃が彼の内側から肉体を絶え間なく切り刻んでいるかのようだった。
彼が時折、苦しそうに胸を抑え、小さく咳き込む理由がそれだった。
「どうした? 私の顔に、何かついているかい」
アルフレッドが、どこか自嘲気味な笑みを浮かべて問いかける。その瞳は深く、冷え切った色をしていた。自らの余命を悟っているかのような、すべてを諦めた孤独な色。
リリアはそっと胸に手を当てた。
彼が纏うその荒れ狂う風の魔力は、今にも彼を壊してしまいそうだ。
けれど、その風の奥底から、助けを求めるような悲痛なささやきが、リリアの耳に届いた気がした。
「いいえ、殿下」
リリアは一歩、アルフレッドへと歩み寄った。
その瞬間、彼女の足元から、ふわりと澄んだ水の魔力が立ち上る。アシル様に授けられた、優しく澄んだ「愛し子」の魔力だ。
静かな波が、荒れた砂浜を優しく撫でるように。
リリアが近づくと、アルフレッドの周囲で荒れ狂っていた風が、ほんの一瞬だけ、凪いだ。
「ようこそ、最果ての海へ。どうぞこの地で、心ゆくまでお身体をお休めくださいませ」
アルフレッドは、驚いたように目を見開いた。
いつも自分を苛んでいた、身体の奥のひりつくような痛みが、この少女が近づいた瞬間だけ、すっと和らいだのだ。
二人の視線が、静かに交差した。
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