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蒼海の愛し子と、風を纏う騎士  作者: coco


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第1話:さざめく境界

リリアの物語りがはじまります。

大陸の最果て、切り立った断崖が続く辺境伯領。

そこは、隣国との緊迫した国境であると同時に、世界で最も気性の荒い海に面した土地だった。

「リリア、今日も海を見ていたのかい」

あたたかな声に振り返ると、父である辺境伯が穏やかな、しかしどこか険しい目を向けていた。

辺境伯令嬢であるリリアは、幼い頃からこの部屋の窓辺が定位置だった。

はるか眼下に広がる、どこまでも深い蒼。白く砕ける波飛沫。幼い頃から、海はいつもリリアのそばにあった。しかし同時に、それは「決して近づいてはならない禁忌」でもあった。

海の向こうには、いつ牙を剥くか分からない隣国がある。政治的にも軍事的にも、辺境伯家の令嬢が一人で近づいていい場所ではない。

「申し訳ありません、お父様。ただ、今日の海は少し……寂しそうに見えたものですから」

リリアはドレスの裾を上品に整え、淑やかな笑みを浮かべた。

嘘ではない。リリアには、普通の人には見えないものが「見えて」いた。

波打ち際でパシャパシャと跳ねる、半透明の小さな魚のような影。潮風に乗って楽しげに歌う、泡の子供たち。――水に宿る「精霊」たちの姿が。

夜、屋敷が深い眠りに包まれる頃。

リリアは令嬢としての仮面を脱ぎ捨て、夜着の上に薄い外套を羽織って部屋を抜け出した。

見張りの目を盗み、険しい岩肌の隠し通路を降りていく。令嬢らしからぬおてんばな行動だが、海がリリアを呼ぶ声に、どうしても抗えなかった。

辿り着いたのは、険しい断崖の合間に隠された、誰も知らない秘密の入り江。

月光が水面を照らし、まるで銀の絨毯を敷いたように輝いている。

「アシル様」

リリアが波打ち際に立ち、そっと その名を呼んだ。

すると、ざあ、と波が大きくうねり、水面が生き物のように盛り上がった。集まった水はまたたく間に光を帯び、人の形を象っていく。

現れたのは、世界の水を司る絶対的な存在――水の精霊王、アシルだった。

透き通るような銀の髪に、底知れぬ深海を思わせる蒼い瞳。人間を超越した圧倒的な美しさを纏った彼は、リリアの姿を認めると、ふっと声音を和らげた。

「また夜更かしですか、リリア。人間の体は脆いのですから、夜風に当たって体調を崩さぬようにと言っているでしょう」

「ふふ、大丈夫です。アシル様に逢いたくて、少し欲張ってしまいました」

リリアが微笑むと、足元にいた水の精霊たちが嬉しそうに飛び跳ね、彼女の足元を濡らさないように波を避けていく。

アシルはリリアにとって、幼い頃から自分を見守り、世界の美しさを教えてくれた唯一無二の存在だ。言葉遣いには精霊王への深い敬意を込めつつも、その眼差しには、年の離れた優しい兄を慕うような絶対的な信頼があった。

アシルはそっと手を伸ばし、リリアの濡れた髪に触れた。触れられた場所から、じんわりと心地よい魔力の暖かさが染み渡っていく。

「貴女は私の『愛し子』だ。この海のすべての水が貴女を守る。……だが、ここから先は隣国との境界だ。人間たちの愚かな争いに、貴女が巻き込まれることだけは許さない」

その声は静かだが、逆らう者を一瞬で圧殺するような冷徹な響きを孕んでいた。

「分かっています。私はアシル様と、この海がいればそれだけで……」

リリアがそう言いかけた、その時だった。

はるか遠く、辺境伯の屋敷の方から、普段の夜にはあり得ない、微かな鐘の音が響いてきた。

それは、王都からの重大な使者の来訪を告げる合図だった。

アシルはすっと目を細め、屋敷の方角へ視線を向ける。その瞳に、ほんの少しの不快感が混じったのを、リリアは見逃さなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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