『嘘の病気で同情を買うな』と私を死に追いやった婚約者、私の墓標の前で額を叩きつけ、血の涙を流して号泣する大破滅!
1
婚姻届を出す前日、久世景人はようやく、十年遅れの婚約指輪を私の指にはめた。
銀色の輪が薬指に滑り込んだ瞬間、私は照明の下で光るダイヤをぼんやり見つめた。長く続いた待ち時間が、やっと終わったような気がした。けれど次の瞬間、彼は私の手を見下ろし、まるで似合わない品物を評するように静かな声で言った。
「正直、澪の手ってあまりきれいじゃないよな」
私は言葉を失った。
景人はそのまま私の指先を取ると、さっきはめたばかりの指輪を抜き取った。十年待ち続けた指輪は、彼の手のひらの上で冷たく光っていた。
「この指輪、瑠奈の手にあったほうが似合うと思う」
私は手を引き戻し、信じられない思いで彼を見た。
「どういう意味? 瑠奈と結婚するつもりなの?」
景人は目を伏せ、指輪の縁を指先でなぞった。まるで、たいしたことではない問いを少し考えているだけのようだった。
「そこまでじゃない。ただ、会えない時間が長くなると、どうしても瑠奈のことを考えるんだ」
その瞬間、私は自分がどうやってあのタワーマンションを出たのかさえ覚えていない。
翌日、私は一人で区役所の前に立っていた。バッグの中には婚姻届、戸籍謄本、本人確認書類のコピー、それから前日に撮った結婚報告用のツーショット写真が入っていた。冬のはじめの風は指先が痛くなるほど冷たかったが、私は何度も心の中で彼をかばっていた。
久世景人と七瀬瑠奈は、幼いころから一緒に育った幼なじみだ。
ただ、距離が近すぎるだけ。
昨日の言葉も、きっと冗談だったのだ。
私たちは十年以上も一緒にいた。今日こそ、ちゃんと形になるはずだ。
スマホの画面が光ったとき、私はほとんど反射的にLINEを開いた。けれど景人から届いた言葉は、一行ずつ、最後に残っていた期待を踏みつぶしていった。
「瑠奈が泣き崩れた」
「医者にも、今は刺激を与えないほうがいいと言われている」
「アイスランドで開かれている氷と雪の薔薇展を見たいそうだ。治療の一環だと思って、連れて行く」
「婚姻届は、少し落ち着いてから出そう」
「しばらく連絡は控えてくれ。瑠奈が見たらまた不安定になる」
「友人たちには、澪がまだ結婚したくないと言ったことにしておいてほしい」
私はバッグの中にある診断書と、延命治療を望まない同意書を見下ろした。指先から感覚が消えていく。
最後に、私は一文字だけ返した。
「わかった」
私が送信したのとほとんど同時に、七瀬瑠奈がInstagramを更新した。
写真の中で、景人は片膝をつき、高価なエクアドル産の黒薔薇を抱えていた。瑠奈は白い光の下に立ち、目元を赤くして笑っている。まるで、運命に選ばれたお姫さまのようだった。
投稿には、こう添えられていた。
「彼は言ってくれた。私こそが、彼の世界で一番大切な薔薇だって」
コメント欄には、景人の友人たちが次々といいねを押していた。
「景人、ロマンチックすぎるだろ」
「やっぱり瑠奈が一番似合ってる」
「病弱な幼なじみをここまで大切にできる男、普通に惚れる」
今日が本来、私と景人が婚姻届を出す日だったことを、誰一人として口にしなかった。
この結婚は、もう無理なのだ。
私はかすかに笑い、その投稿にもいいねを押した。それから、コメントを一つ残した。
「それなら、二人で最後まで幸せにやっていけばいい」
「薔薇は高すぎるから、いつか道端の雑草で私のことを思い出して」
のちに、久世景人は私の墓の前に跪き、二度と立ち上がらなかった。
2
東京中央病院の廊下には、消毒液のにおいが濃く漂っていた。
看護師は私の前に立ち、隠しきれない同情を目に浮かべていた。手には最新の検査結果が握られている。声はとても小さく、少し強く触れれば私が壊れてしまうとでも思っているようだった。
「森川さん、心不全の進行が予想よりずっと早いです。すぐにご家族へ連絡してください」
私は目を伏せ、透けるほど白くなった自分の手の甲を見た。
「家族はいません」
看護師は一瞬、言葉を失った。
両親は私が小学生のころ、交通事故で亡くなった。それから私は、帰る家のない子どもになった。久世景人は同じクラスの同級生で、私をかばってくれた最初の人だった。
あのころ、私を孤児だと笑う子がいた。景人はそのたびに飛び出していって、相手に殴りかかった。自分の口元が切れて血が出ていても、私の前に立ち、こう言ってくれた。
「これから澪をいじめたやつは、俺が絶対に許さない」
私たちは小学校から高校まで一緒だった。制服を着ていた時代が終わり、彼がスーツを着るようになっても、私は彼の隣にいた。高校を卒業した年に告白を受け、やがて彼の起業を手伝い、何もなかった会社が久世ホールディングスと呼ばれるまで、ずっと支えてきた。
本来なら、久世景人はこの世界で私に一番近い人のはずだった。
一週間前、私は東京中央病院で精密検査を受けた。
その日、胸の痛みがひどかった。最初は薬をもらい、ついでに簡単な検査を受けるだけのつもりだった。だが検査結果を見た榊原医師の顔は、恐ろしいほど沈んでいた。彼は父が生前もっとも信頼していた友人で、両親が亡くなったあとも、親戚のように私を見守ってくれていた。
榊原医師は私を診察室に呼び、長い沈黙のあとで、私の心臓はもう長くもたないと告げた。
「澪ちゃん、今すぐ入院しなさい」
「このことは、家族にも伝えなければならない」
そのとき、真っ先に浮かんだのは景人だった。
けれど、私が電話をかける前に、病院一階の医事課の窓口近くで七瀬瑠奈を見かけた。彼女はマスクをつけ、検査票のような紙を持っていた。その視線が、私の手にある診断書に落ちた瞬間、ほんの少しだけ揺れた。
そのときの私は、深く考えなかった。
夕方になって、景人からLINEが届いた。
「澪、病院で何をしていた?」
「瑠奈が、医事課のあたりでお前を見たと言っていた」
「まさかまた偽物の診断書でも作って、婚姻届を出せと脅すつもりじゃないだろうな」
その数行を見た瞬間、胸の痛みが不思議なくらい遠のいた。
本当に息ができなくなる原因は、病気ではなかった。
彼が一度も私に尋ねることなく、すでに私を裁いていたことだった。
私は説明しようと思った。榊原医師にすぐ入院しろと言われたこと、自分はもう長くないかもしれないこと、全部伝えようとした。けれど画面の向こうから、すぐに次のメッセージが届いた。
「澪、そういうくだらないやり方で結婚を迫るのはやめろ」
「俺も疲れている。もうお前の芝居に付き合いたくない」
その日、私は打ちかけていた文字をすべて消した。
後日、危篤を告げる書類と延命治療を望まない同意書を受け取ったときには、もう何も説明する気になれなかった。
彼はまた、七瀬瑠奈のために私を捨てたのだ。
十年前、大学を卒業したとき、景人は私にプロポーズした。私たちは翌日、区役所に婚姻届を出しに行く約束をした。私は淡い色のワンピースを着て、朝から夕方まで区役所の前に立っていた。
何度も電話をかけたが、一度もつながらなかった。
彼が来たときに私がいなかったら困ると思い、私はその場を離れられなかった。夏の日差しに頭がくらくらしても、ただ待ち続けた。最後は熱中症で倒れ、通りかかった人に病院へ運ばれた。
目を覚ましたあとで、ようやく景人から電話があった。
「瑠奈の具合が悪くなって、突然倒れたんだ。ずっと付き添っていて、電話に気づかなかった。澪、ごめん。次は必ず行くから」
その「次」が、十年後の今日だった。
看護師は私が黙り込んでいるのを見て、さらに焦った表情になった。
「でも、先ほど延命治療を希望しないという同意書に署名されましたよね。今後の治療方針にも確認が必要です。ご家族の方がいないままでは……」
私はペンを受け取った。手首は震えていた。それでも紙の上に書いた名前は、驚くほどはっきりしていた。
「私が署名します」
そのとき、スマホの画面が再び光った。
景人からのボイスメッセージだった。
再生すると、怒りを押し殺した彼の声が、人気のない廊下に刺さるように響いた。
「森川澪、お前はいつまでこんなことを続けるつもりだ」
「瑠奈があのコメントを見て、また泣き崩れた。今、洗面所に閉じこもって出てこない」
「瑠奈が刺激に弱いと知っているくせに、どうしてそんなふうに張り合うんだ」
私は画面に映る黒薔薇の写真を見つめた。その花はエクアドル産で、私が何度も好きだと言っていたものだった。けれど今の私の手元にあるのは、薄い診断書だけだった。
私は録音ボタンを押し、他人事のような声で返した。
「張り合ってなんかいない。ただ事実を書いただけ」
景人の返事はすぐに来た。
「事実? お前が瑠奈に嫉妬しているだけだろ。俺が瑠奈と雪を見に行って、お前との婚姻届を後回しにしたから」
「景人がそう思うなら、それでいい」
「そんな死人みたいな顔をして、誰に見せつけている。そうすれば俺が心配して戻るとでも思っているのか」
「戻ってほしいなんて思っていない」
「そうか。なら、森川澪、お前は一生俺に頼るな」
続けて、七瀬瑠奈が景人のスマホを使ってボイスメッセージを送ってきた。
彼女の声は相変わらず弱々しく、雨に濡れた花のようだった。
「澪さん、景人さんを怒らないでください。全部、私が悪いんです。こんなときに具合を悪くした私が悪いんです」
「景人さん、私を落ち着かせるためにネックレスを買ってくれました。200万円もしたんです。澪さんは、気にしませんよね?」
私は小さく笑った。
「気にしないよ」
そう言って、私は景人のLINEをブロックした。
看護師は私を病室へ戻しながら、目を赤くしていた。
「森川さん、今の状態では、長くても半月ほどだと思います」
私は曇った窓の外を見た。
「わかっています」
「退院の手続きをお願いします」
看護師は思わず声を上げた。
「何を言っているんですか。今退院したら、いつ命に関わってもおかしくありません」
私は手の甲の点滴針を抜いた。針が血管から外れた瞬間、血が白いシーツに広がった。
「病院にいても、待つだけです。やらなければならないことがあります」
「森川さん」
私は針の跡を押さえ、ふらつきながら立ち上がった。
「止めないでください」
「時間が、もうあまりありません」
スマホが再び光った。知らない番号からのメッセージだった。
「三十分以内に景人さんのブロックを解除してください。しないなら、どうなっても知りませんよ」
私はその番号へ電話をかけ、冷たい声で言った。
「どうなっても知らない? それなら本人に言わせて」
電話の向こうは一瞬静まり、その後、七瀬瑠奈の甲高い笑い声が聞こえた。
「森川澪、まだ自分が特別だと思っているんですか。景人さんは今、私のためにタラバガニをむいてくれています。スマホを見る気もないんですよ」
「ちょうどいい。もう私に関わらせないで」
瑠奈は声を低くし、悪意に満ちた口調で続けた。
「強がらないでください。今、胸が張り裂けそうなんでしょう?」
「知っていますか。景人さん、あなたといると退屈だって言っていました」
「私といるときだけ、自分が生きている気がするって」
私は彼女の得意げな声を聞きながら、ただうるさいと思った。
「もう終わった? 終わったなら切るね。急いでいるから」
瑠奈は憎々しげに吐き捨てた。
「そんなに死に急いでいるんですか」
私は迷わず通話を切り、その番号もブロックした。
「ええ」
「あなたの言う通りね」
3
退院手続きを終えると、私はタクシーで景人と三年間暮らしたタワーマンションへ戻った。
玄関には、ピンク色のうさぎのスリッパが置かれていた。景人が瑠奈のために、わざわざコンビニで選んだものだ。体が弱い彼女がうちに来るとき、硬いスリッパではかわいそうだと言っていた。
私のスリッパは、靴箱の一番下に押し込まれていた。表面には薄く埃が積もっている。
私は無表情で歩み寄り、そのピンクのスリッパをゴミ箱に蹴り込んだ。
リビングのローテーブルには、区役所へ持って行くはずだった書類が残っていた。婚姻届、戸籍謄本、本人確認書類のコピー、それから結婚報告用に撮った写真が、きれいに並べられている。
写真の中で、景人は確かに私の隣に座っていた。けれどその目は、無意識に横を向いていた。
あの日、瑠奈はカメラマンの横に立ち、わざと変な顔をして彼を笑わせていた。
私ははさみを取り、写真を二つに切った。景人の写った半分はゴミ箱へ捨て、私だけの半分をポケットにしまった。
そのとき、頭上から景人の冷えた声がした。
「森川澪、何をしている」
顔を上げると、リビングの隅にある監視カメラの赤いランプが点滅していた。
それは景人が、瑠奈をいつでも見守れるようにと設置した音声付きのカメラだった。瑠奈がたまにこの部屋で休むから、具合が悪くなればすぐわかるようにしたい。彼はそう言っていた。
私はテーブルの上を片づけ続けた。
「片づけているだけ」
スピーカー越しの景人の声には、抑えきれない怒りが混じっていた。
「瑠奈のスリッパを捨てたのか。何を考えている」
「ここは私の家でもある。要らないものを捨てて何が悪いの」
「それは俺が瑠奈のために買ったものだ。すぐに拾え」
私はゴミ箱のそばに行き、そばに置いてあったインクの瓶をゆっくり開けた。
「拾え」
景人の怒鳴り声がスピーカーから響いた。
私はそのまま、瓶の中身をピンクのスリッパに注いだ。柔らかな布地はみるみる黒く染まり、もう元の色などわからなくなった。
「森川澪、お前!」
私はカメラを見上げた。目には一滴の涙も浮かんでいなかった。
「まだ欲しい?」
向こうで何かが床に叩きつけられる音がした。おそらく景人が何かを投げたのだろう。
「お前は本当に話が通じない。家の中をめちゃくちゃにしないと気が済まないのか」
「めちゃくちゃにしたのは私じゃない」
「あなたたちよ」
私は寝室へ行き、スーツケースを引き出した。
景人の声には、かすかな焦りが混じった。
「何をするつもりだ。一歩でも出てみろ」
私はクローゼットを開け、最低限の着替えだけを選んだ。景人が買ってくれた高価なドレスや宝石には、指一本触れなかった。
「景人、別れましょう。この部屋は、あなたと瑠奈で好きに使えばいい」
「別れる? 誰が許した。今日俺が区役所へ行かなかったからか」
「そうよ。それだけで十分」
「調子に乗るな。瑠奈は具合が悪かった。俺は雪を見に連れて行っただけで、浮気をしたわけじゃない」
スーツケースのファスナーを閉める音が、静かな寝室にひどく鋭く響いた。
「婚姻届を出す前日に、婚約者を置いてほかの女と雪を見に行く」
「それが、あなたの誠実さなのね」
「いい加減にしろ。瑠奈は病人なんだ」
私は静かに告げた。
「私も病人よ」
景人は冷たく笑った。
「その偽物の診断書で、俺を動かせると思うな」
彼の声は氷のようだった。
「瑠奈はとっくに教えてくれた。お前が病院の医事課のあたりをうろついていたってな」
「森川澪、俺に婚姻届を出させるために、そんなものまで偽造するのか」
スーツケースの取っ手を握る手に、わずかに力が入った。
「だから、あなたは私に一度も聞こうと思わなかったの?」
カメラの向こうが、一瞬だけ静かになった。
すぐに、景人が鼻で笑う音が聞こえた。
「聞く? どうすればもっと本物らしく見えるのか、教えてほしいのか」
「前の健康診断の結果を見たことがある。お前は少し貧血気味なだけで、大きな病気なんてなかった」
「これ以上くだらない芝居で俺を試すな」
私はスーツケースを引き、玄関へ向かった。
「好きに思えばいい」
景人の声は完全に冷え切った。
「森川澪、警告しておく。今日この家を出たら、あとで跪いて泣いても、俺は二度とお前を見ない」
私は足を止め、棚の上にあった小さな金槌を手に取った。普段はナッツを割るために置いていたものだ。椅子に上り、赤く光るカメラへ向けた。
「何をする。金槌を下ろせ」
私はカメラを見上げ、少しだけ笑った。
「景人、どうかお幸せに」
「二人そろって、アイスランドで凍えてしまえばいい」
言い終えると同時に、私はカメラを叩き割った。
スーツケースを引いてマンションを出ると、冬の風が頬を切るように吹きつけた。
翌朝、私はタクシーで久世ホールディングスの本社へ向かった。
片づけなければならないものが、まだ残っていた。
受付の女性は私を見ると、少し目を泳がせた。
「森川様、久世社長は本日外出中で……」
私は周囲の視線を気にせず、まっすぐエレベーターへ向かった。
「景人には会いません」
「法務部に用があります」
三年間、私は景人の婚約者であるだけではなかった。久世ホールディングスの立ち上げ時から、技術責任者として関わってきた。会社がここまで大きくなった背景には、私が持つ創業時の株式十%も大きく関係している。
あの株は、景人から恵んでもらったものではない。
私が一行ずつコードを書き、徹夜の会議を重ね、資金調達の資料を何度も作り直して得たものだ。
法務部長の執務室のドアを開けると、そこには佐伯浩平と、景人の友人たちが座っていた。
佐伯はデスクに足を乗せ、ペンを指先で回していた。私を見ると、だるそうに笑った。
「おや、未来の久世夫人じゃないか。とうとう会社まで押しかけて結婚を迫りに来たのか」
私は書類を机に置いた。
「株式譲渡の書類に署名しに来ました」
佐伯は一瞬固まり、その後、声を上げて笑った。
「聞いたか。彼女、本気らしいぞ」
「株を盾に景人を脅すつもりか」
別の一人も続けた。
「森川澪、古い手を使うなよ。景人がその程度の株にこだわると思っているのか」
私は彼らの嘲笑に答えず、佐伯だけを見た。
「法務部長を呼んでください。すぐに手続きをします」
佐伯は立ち上がり、見下ろすように私を見た。
「部長は今日休みだ。用件なら俺が聞く」
「では、明日また来ます」
私は書類を戻し、背を向けた。
「景人に伝えてください。この十%の株は、すべて公益団体へ寄付します」
背後で佐伯が怒鳴った。
「お前、そんなことができると思っているのか!」
私は振り返らず、そのまま会社を出た。
「できるかどうか、見ていればいい」
通りへ出た直後、激しいめまいが襲った。
私は街灯にすがり、大きく息を吸った。鼻の奥から温かいものが流れ、手で拭うと、掌は血で真っ赤になっていた。
内臓を握りつぶされ、引き裂かれるような痛みが胸から四肢へ広がった。私は腰を折り、街灯をつかんだまま、冷たい汗で背中を濡らした。
4
一台の黒いマイバッハが、突然路肩に止まった。
窓が下がり、景人の険しい顔が見えた。彼はアイスランドから予定より早く戻ってきたらしい。
景人は車を降りると、大股で私の前に来て、襟元をつかんだ。
「森川澪、ずいぶん大胆なことをしてくれたな」
無理やり顔を上げさせられた私を見て、彼は一瞬だけ固まった。私の顔は血で汚れていたからだ。
「お前……今度は何の芝居だ。偽物の血まで用意して、同情を引くつもりか」
彼の目にわずかな動揺が走った。けれどそれはすぐに怒りに塗りつぶされた。
私はかすれた声で言った。
「離して」
景人は歯を食いしばった。
「離せ? 家を壊し、株まで寄付すると脅しておいて、よく言えるな。損害賠償を請求しないだけ感謝しろ」
そのとき、助手席のドアが開いた。
七瀬瑠奈が分厚いダウンコートをまとって降りてきた。彼女は景人の腕に親しげに絡みついた。顔色は青白く、目元は赤く、誰よりも被害者のように見えた。
「澪さん、どうして景人さんをそんなに追い詰めるんですか」
「あの株だって、景人さんの大切なものなのに」
「今ならまだ間に合います。ちゃんと謝ってください」
私は二人の姿を見て、ただおかしかった。
「景人、予定より早く帰ってきたのは、私を責めるため?」
「ほかに何がある。お前の死人みたいな顔を見に来たとでも思ったか」
私は彼の手を押しのけた。だが弱り切った体は支えを失い、そのまま地面に倒れた。膝がアスファルトにぶつかり、鈍い音がした。
「なら、もう見たでしょう」
「帰って」
景人は眉をひそめ、苛立った声を出した。
「死んだふりをするな。立て」
瑠奈が近づいてきた。彼女のヒールが、私の落とした病状説明書をちょうど踏みつけた。彼女はそれを見下ろし、口元に薄い笑みを浮かべた。
「景人さん、澪さん、本当に具合が悪そうですよ」
「病院へ連れて行ってあげますか?」
彼女は腰をかがめ、危篤を告げる書類を拾い上げ、わざとひらひらと揺らした。
「澪さん、これ、ずいぶん本物っぽくできていますね。病院の印まである」
景人は冷笑し、紙を蹴り飛ばした。
「俺と結婚するためなら、こいつはどんな手でも使う」
私は冷たい地面に倒れたまま、胸の奥で痛みが波のように膨らむのを感じていた。もう話す力もなく、唇を噛みしめることしかできなかった。血の味が口いっぱいに広がる。
景人はしゃがみ込み、私の顎を強引につかんで顔を上げさせた。
「森川澪、これが最後だ」
「株式譲渡の書類に署名して、マンションへ戻って反省しろ」
「そうしなければ、東京にいられないようにしてやる」
私は、かつて十年以上も頼りにしていたその顔を見つめた。今はただ、吐き気がした。
次の瞬間、私は血の混じった唾を彼のスーツに吐いた。
景人の瞳孔が大きく揺れた。だが彼はすぐに私を振り払った。私は再び地面に叩きつけられ、後頭部が縁石にぶつかり、視界が暗く揺れた。
景人はハンカチでスーツについた血を拭いながら、怒鳴った。
「本当にどうかしている」
「彼女を車に乗せろ」
「郊外の古い別荘に連れて行け。俺の許可があるまで、誰も出すな」
数人のボディーガードがすぐに近づき、私を地面から引きずり起こした。私は後ろに停まっていたワゴン車へ押し込まれた。
郊外の古い別荘は、景人が不要なものを置いておくための場所だった。長く陽が入らず、冷たく湿っていて、空気にはかびた木のにおいが染みついていた。
私は埃だらけの床に投げ出された。ボディーガードが扉を閉め、鍵をかける音がした。
私は部屋の隅で体を丸め、震え続けた。呼吸をするたびに胸が裂けるように痛み、胸の中で何かが少しずつ壊れていく気がした。
どれほど時間が過ぎたのか、扉の鍵が回る音がした。
七瀬瑠奈が透明な薬ケースを持って入ってきた。スマホのライトで私の顔を照らす。強い光に目が痛んだが、もう避ける力もなかった。
「澪さん、お元気でしたか」
私の声は、かすれてほとんど出なかった。
「何をしに来たの」
瑠奈は私の前にしゃがみ、その透明な薬ケースをゆっくり揺らした。
「澪さん、これ、覚えていますよね」
私は瞳孔が縮むのを感じた。
それは榊原医師が私に出した心臓の薬だった。退院するとき、彼は胸の痛みや呼吸困難が出たら、必ずすぐ服用するようにと何度も言っていた。
私は彼女を見据えた。
「私の薬に、何をしたの」
瑠奈は笑った。
「触りましたよ」
「でも安心してください。変な薬なんて入れていません。そんなことをしたら、すぐにばれてしまいますから。私、そこまで馬鹿じゃありません」
彼女はケースを開け、中の白い錠剤をいくつか掌に出した。まるでどうでもいい話をしているような軽い声だった。
「ただ、ビタミン剤に替えただけです」
私の指が強く握りしめられ、呼吸が一瞬止まった。
「あなた、私が本当に病気だと知っていたのね」
瑠奈の笑みが、少しずつ消えた。
「最初は知りませんでした」
「あの日、病院であなたを見たときは、本当にまた偽物の診断書で景人さんを脅すつもりなんだと思っていました」
「でもそのあと、薬袋の名前を見てわかったんです。あなた、もしかしたら本当にもう長くないんだって」
彼女は再び笑った。けれどその目には、少しの温度もなかった。
「だから何ですか」
「どうせ景人さんはあなたを信じません」
「あなたがここで死んでも、あの人は、あなたが芝居をやりすぎて勝手に壊れたと思うだけです」
瑠奈は身をかがめ、私の耳元で囁いた。その声は、毒蛇が舌を出すように軽かった。
「森川澪、かわいそうなふりが得意なんでしょう」
「その薬なしで、いつまで演じられるか見せてください」
私は荒い息を吐いた。胸が痛くて、ほとんど上下しない。
「景人に知られるのが怖くないの」
瑠奈は私の頬をつかんだ。その目に、隠しようのない悪意が浮かんでいた。
「どうして知られるんですか」
「あの人は私の言うことなら何でも信じます」
「あなたがここで死んだら、私は言います。澪さんは婚約破棄のショックで自殺したんだって」
私は彼女を見つめ、ふっと笑った。
「かわいそうな人」
瑠奈の指が強く食い込んだ。
「何がおかしいんですか」
「どれだけ必死になっても、あなたが拾えるのは、私がいらなくなったものだけだから」
瑠奈は私の頬を叩いた。続けて立ち上がり、腹を強く蹴った。
「死にかけているくせに、まだそんな口を利くの」
激痛が全身を貫いた。私は体を折り、大量の黒い血を吐いた。血は瑠奈の白いダウンコートに飛び散り、彼女は悲鳴を上げて後退した。
「いやっ、私の服が!」
そのとき、扉が開いた。
景人が私のバッグを持って入ってきた。彼の視線は、瑠奈が隠し損ねた透明な薬ケースに落ち、眉が深く寄った。
「瑠奈? 何をしている」
瑠奈はすぐに怯えた顔を作り、景人の胸へ飛び込んだ。
「景人さん、彼女が……血を吐いて、怖くて……」
景人は床の黒い血を見たあと、私の前に来て、つま先で肩を軽く蹴った。
「森川澪、もうやめろ」
「その血の袋、どこで買ったんだ。ずいぶんよくできているな」
私は重いまぶたを開けた。視界はすでにぼやけていた。最後の力で、口元だけを動かした。
「景人……」
「あなたは、本当に哀れね」
その言葉を最後に、私は意識を失った。
暗闇に落ちる直前、景人の声がひどく取り乱して響くのが聞こえた。
「澪!」
「目を開けろ!」
「救急車を呼べ、早く!」
5
心電図モニターの音が、規則正しく耳に届いていた。
ゆっくり目を開けると、まぶしい無影灯に思わずまぶたを閉じた。もう一度開けたとき、私は東京中央病院の集中治療室に横たわっていた。
ガラスの向こうで、景人が落ち着きなく歩き回っていた。スーツの上着を腕にかけ、ネクタイは乱れ、悪夢から逃げ出してきた人のようにひどく取り乱している。
私が目を覚ましたのを見ると、彼はガラスにすがりついた。目は赤く、唇は震えていた。
主治医の榊原医師が、私のベッドのそばへ来た。
榊原医師は、父が生前もっとも親しくしていた友人だった。両親が亡くなったあと、手続きの多くを助けてくれ、長いあいだ私を見守ってくれていた。けれど私は迷惑をかけたくなくて、今回の病状悪化も最後まで隠していた。
彼はガラスの外にいる景人を見てから、私へ視線を戻した。その目には疲労と、抑え込んだ怒りがあった。
「澪ちゃん、自分がどれほど危なかったかわかっているのか」
私は弱い声で答えた。
「わかっています」
榊原医師は深く息を吐いた。目には隠しきれない痛みが浮かんでいた。
「臓器が信じられない速さで衰えている。医師になって三十年以上になるが、ここまで急激な悪化は見たことがない」
「今は補助循環装置と人工呼吸器で命をつないでいる状態だ」
「何か、やり残したことはあるか」
私は天井を見つめた。
「ありません」
「あの人を帰してください」
「見たくありません」
榊原医師はうなずき、病室を出た。
ガラス越しに、彼が診断書と病状説明書を景人の胸へ叩きつけるのが見えた。防音ガラス越しでも、怒りに震える声がかすかに届いた。
「久世景人、これで満足か」
景人は書類を握りしめた。指先は力が入りすぎて白くなっていた。
「榊原先生、そんなはずがありません。昨日まで普通に動いていたんです。家の中を壊すくらいの力もあった」
「あなたたちが、俺を騙しているんじゃないんですか」
榊原医師は景人の襟をつかんだ。
「騙す?」
「東京中央病院の機械が、お前を騙すための小道具だとでも思っているのか」
「自分の目で数値を見ろ。心不全、腎不全、肝機能の低下。彼女はもう自力で呼吸することすらできない」
「お前があんな古い別荘に閉じ込め、救急搬送を遅らせなければ、ここまで悪化しなかったかもしれないんだぞ」
「彼女は一週間前、すでにここで検査を受けていた」
榊原医師は再び診断書を彼の胸に押しつけた。声は怒りで震えていた。
「私は本人に入院を勧め、家族へ知らせるように言った」
「だが、彼女は私に言った。家族はいない、と」
「なぜだかわかるか」
景人はその場で固まった。顔から少しずつ血の気が引いていく。
榊原医師は彼を見据え、一語ずつ突き刺すように言った。
「彼女が助けを求めようとしたとき、お前はすでに七瀬瑠奈の言葉を信じ、彼女が診断書を偽造していると決めつけていたからだ」
「調べもせず、尋ねもせず、彼女の最後のSOSを、結婚を迫るための芝居だと切り捨てたんだよ」
景人は動けなかった。
彼の視線は、書類に記された「多臓器不全末期」の文字に縫いつけられていた。顔色が、ゆっくりと失われていく。
「違う……」
「そんなはずは……」
次の瞬間、彼は膝から崩れ落ち、集中治療室の扉を叩き始めた。
「澪……澪!」
「中に入れてくれ。彼女に会わせてくれ!」
「頼む、入れてくれ!」
榊原医師は彼を強く引き剥がした。
「今入って、彼女をさらに苦しめる以外に何ができる」
そのとき、七瀬瑠奈が高いヒールの音を響かせて駆け寄ってきた。彼女は景人に手を伸ばしたが、彼に乱暴に振り払われた。
「景人さん、どうして床に跪いているの」
景人は獣のような声を上げ、赤くなった目で彼女を睨んだ。
「消えろ」
瑠奈の目に涙が浮かんだ。
「景人さん……あの人、また病気のふりをしているんでしょう? それなのに私に怒るんですか」
景人は床から立ち上がり、私の血がついた書類を彼女の顔へ叩きつけた。
「病気のふり?」
「これのどこがふりだ」
「澪は死にかけている。わかるか」
「彼女は、もうすぐ死ぬんだ!」
紙の端が瑠奈の頬を切り、細い血が流れた。彼女は床に落ちた書類を見て、ようやく顔色を変えた。
「そんな……だって、彼女は……」
何かを言いかけ、彼女は最後の一言を呑み込んだ。
私は病床に横たわり、ガラスの外の茶番を見ていた。ただ、滑稽だった。
看護師が点滴を交換しに来た。動作はとても丁寧だった。彼女はしばらくためらったあと、小さな声で言った。
「森川さん、久世さんは外で二時間も跪いています。額も切れてしまって……本当にお会いになりませんか」
私は目を閉じた。
「会いません」
「彼に伝えてください。まだ帰らないなら、この管を抜いて死ぬ、と」
看護師はため息をつき、病室を出ていった。
しばらくして、廊下から景人の押し殺した泣き声が聞こえた。
「澪、帰る……帰るから」
「だから、馬鹿なことはしないでくれ」
「頼む、生きていてくれ……」
彼の足音が遠ざかり、集中治療室はようやく静かになった。
病室のドアが、わずかに開いた。
七瀬瑠奈の顔が隙間からのぞいた。どうやって外の看護師の目を避けたのか、彼女はこっそり病室へ入ってきた。
「森川澪、ここに隠れていれば勝ったつもりですか」
「早く死んでください」
「あなたが死ねば、景人さんは私だけのものになります」
私は弱い声で言った。
「あなたが私の薬をすり替えた証拠がある」
瑠奈の顔が一瞬で白くなった。
「証拠って、何ですか」
「古い別荘で、あなたが自分の口で言ったでしょう。私の心臓の薬をビタミン剤に替えたって」
瑠奈は低く唸るような声を出し、本能的に半歩下がった。
「嘘です。あの別荘に監視カメラなんてありません」
私は少しだけ首を傾け、彼女の目を見た。
「カメラはない」
「でも、録音機はある」
「景人があなたの声を聞いたら、どうすると思う?」
瑠奈は叫んだ。
「嘘よ! あなたのバッグは景人さんが持っていったじゃない!」
私は彼女を嘲るように見た。
「そうね。彼が持っていった」
「だから、私が一言言えば、彼はいつでも聞ける」
「七瀬瑠奈、あなたの浅い芝居なんて、とっくに見えていたのよ」
瑠奈は病床へ突進し、私の酸素チューブへ手を伸ばした。
「この……!」
「あんたなんか、死ねばいいのよ!」
「あなたさえ死ねば、もう誰も私を脅せない!」
病室のドアが蹴破られるように開いた。
景人が飛び込み、瑠奈の髪をつかんで壁へ叩きつけた。彼女は悲鳴を上げ、額を角にぶつけ、血が頬を流れ落ちた。
景人は完全に理性を失い、瑠奈の首を締め上げた。
「何をしている」
「彼女に触ったのか」
瑠奈の足が床から浮いた。彼女は両手で景人の腕を叩き、顔を紫色にしてもがいた。
「景人さん……離して……」
景人の声は、壊れたように低くかすれていた。手の力はさらに強くなっていく。
「今、何をしようとした」
「チューブを抜くつもりだったのか」
「澪を殺そうとしたな」
瑠奈は涙を流しながら、かろうじて言葉を絞り出した。
「違う……彼女が……私を脅して……」
私は冷めた目でその光景を見ていた。心拍数は少しも乱れなかった。
しばらくして、私は弱く口を開いた。
「景人」
「放して。今ここで彼女を殺したら、あなたまで引きずり込まれるだけよ」
景人の動きが止まった。
次の瞬間、彼は瑠奈を放した。彼女は床に崩れ、大きく息を吸い込んだ。
景人は私のベッドへ駆け寄った。両手を震わせ、触れようとして、触れられないまま宙で止まった。
「澪、大丈夫か」
「どこか苦しいところはないか」
「すぐに医者を呼ぶ」
私は顔を背け、彼の手を避けた。
「触らないで」
「あなたの匂いが、もう無理なの」
景人の手は宙で固まった。顔から血の気がすべて消えた。
彼は私のベッド脇に跪き、白いシーツに涙を落とした。
「澪、俺が悪かった……本当に悪かった」
「お前を信じなかった」
「あんな別荘に閉じ込めた」
「殴っても、罵ってもいい。お前がよくなるなら、何でもする」
私は目を閉じた。彼を見ることすら、もう面倒だった。
「その女を連れて」
「私の前から消えて」
景人は転がるように立ち上がり、瑠奈を引きずって出ていこうとした。
「わかった。俺が出ていく」
「すぐ連れていく」
瑠奈は悲鳴を上げ、ドア枠にしがみついた。
「景人さん、そんなことしないで!」
「私、うつ病なんですよ!」
景人は彼女の腹を蹴り、病室の外へ転がした。
「うつ病?」
「まだそれで俺を騙せると思っているのか」
「お前は澪の薬をすり替えた。心臓の薬をビタミン剤にした。まだ俺が知らないと思っていたのか」
瑠奈の叫び声が止まった。
彼女は恐怖に満ちた顔で景人を見た。
「どうして……知って……」
景人は叫んだ。まるで魂を抜かれたようだった。録音機の中の声が、今も耳元で繰り返されているかのように。
「どうせ景人さんはあなたを信じません」
「あなたがここで死んでも、あの人は、あなたが芝居をやりすぎて勝手に壊れたと思うだけです」
景人の顔は紙のように白かった。
彼はようやく理解した。七瀬瑠奈がそれをできたのは、彼女が特別に賢かったからではない。
彼女が、彼の偏りを知り尽くしていたからだ。
彼女はわかっていた。自分が先に言えば、景人は必ず森川澪を信じない、と。
瑠奈は床を這うようにして、彼の足にしがみつこうとした。
「違うんです、景人さん。聞いてください……」
景人は彼女を蹴り払うと、廊下にいるボディーガードへ怒鳴った。
「警察に引き渡せ」
「殺人未遂で告訴する。被害届も出す」
「一生、外へ出られないようにしてやる」
瑠奈は完全に崩れ落ちた。
彼女は廊下で泣き叫び、床を転げ回ったが、最後はボディーガードに引きずられていった。
廊下はようやく静かになった。
景人は再び病室の入口に立った。中へは入れず、ガラス越しに私を見ている。目には、卑屈なほどの祈りが浮かんでいた。
「澪、お前を傷つけた人間は処理した」
「もう一度だけ……俺に機会をくれないか」
私は目を開け、ガラス越しに彼を見た。
「景人、あなたの後悔は遅すぎた」
「遅すぎて、もう私には必要ない」
「私たちは、もう終わっている」
6
景人は、私が安心して療養できるようにと、榊原医師の反対を押し切り、在宅医療チームを入れる形で私をマンションへ戻した。
かつて二人で暮らしていた部屋の主寝室は、簡易の無菌室のように変えられた。医療機器が並べられ、ドアの外には二十四時間体制の医療スタッフが待機していた。
私はベッドに横たわり、部屋いっぱいに積まれた黒薔薇を眺めた。ただ、滑稽だった。
景人は新しく空輸させた黒薔薇を抱えて、ベッドのそばへ来た。目には媚びるような色があった。たった数日で彼はひどく痩せ、目は落ちくぼみ、顎には青い髭が浮かんでいた。
「澪、前にエクアドル産の黒薔薇が好きだと言っていただろう」
「毎日、一番新しいものを取り寄せるようにした」
「香りをかいでみてくれないか」
私はまぶたさえ上げず、冷たく言った。
「持っていって」
景人の声が震えた。
「澪……」
「持っていってと言ったの」
「安っぽい匂いで、吐き気がする」
私は一本の薔薇を折り、ベッド脇のゴミ箱へ落とした。
景人の背中が、少しずつ崩れていく。彼は高価な絨毯の上に跪き、落ちた花びらを一枚ずつ拾った。薔薇の棘が指に刺さっても、気づいていないようだった。
「わかった」
「嫌なら、すぐに全部捨てる」
彼は黒薔薇を慌ててゴミ袋へ詰め込んだ。その動きは不器用で、叱られた子どものようだった。
「澪が少しでも楽になるなら」
「何でもする」
私は冷めた目で彼を見た。
「私が死んでほしいと言ったら、死ぬの?」
景人の手が止まった。
彼は顔を上げ、まばたきもせずに私を見た。
「俺が死ねば、お前は俺を許して、生きてくれるのか」
私は迷わず、その幻想を打ち砕いた。
「無理」
「あなたが死んだら、少し静かになるだけよ」
景人は泣きながら、惨めに笑った。
「澪、お前は本当に残酷だな……」
彼は立ち上がり、部屋を出ていった。
しばらくして、マンションの下から騒ぎ声が聞こえた。
「離して!」
「森川澪に会わせなさい!」
「あなたたちに私を止める権利なんてないでしょう!」
七瀬瑠奈の声だった。
警察へ引き渡されたはずの彼女が、どういうわけか戻ってきていた。
私はベッド脇のモニターをつけた。画面の中で、瑠奈は髪を乱し、ぼろぼろの服でマンションの入口に座り込んでいた。何人かの警備員が、彼女を中に入れまいと押しとどめている。
瑠奈は泣き叫んでいた。
「景人さん、中にいるんでしょう」
「出てきてください」
「私、妊娠しているんです!」
「あなたの子どもがいるんです!」
マンションの空気が、一瞬で凍りついた。
景人は入口へ向かい、瑠奈の襟をつかんだ。
「何をでたらめを言っている」
瑠奈はしわだらけのエコー写真を取り出し、彼の手に押しつけた。
「でたらめじゃありません!」
「忘れたんですか。先月の私の誕生日の夜、二人でお酒を飲んで……」
「私たちの子どもなんです」
「これは、私たちの子どもなんです!」
「あの死にかけの女のために、自分の子どもまで捨てるつもりですか」
景人はエコー写真を見つめ、顔色を失った。
彼は主寝室の窓のほうを振り返った。ガラス越しでも、彼の目に浮かんだ恐怖が見えた。
主寝室のドアが乱暴に開いた。
景人は部屋へ駆け込み、そのまま私のベッドの前に跪いて、私の手をつかんだ。
「澪、聞いてくれ」
「誤解だ」
「俺はあの夜のことを何も覚えていない」
「酔っていて……俺は、お前だと思っていた。本当に、お前だと思っていたんだ」
私は手を引き抜き、ベッド脇の消毒シートを取った。彼に触れられた指を一本ずつ拭いた。
「離して」
「私がまだ、そんなことを気にしていると思う?」
私は彼を見た。
「彼女が妊娠したのなら、よかったじゃない」
「あなたたち三人で、あなたが欲しかった家族を作ればいい」
景人は勢いよく立ち上がった。声はほとんど制御できていなかった。
「違う!」
「そんな家族はいらない!」
「俺が欲しいのは、お前だけだ!」
「今すぐ彼女に堕ろさせる。誰にも俺たちを邪魔させない」
彼は外へ飛び出そうとした。
私は呼び止めた。
「待って」
景人はその場で固まり、振り返ることもできなかった。
「景人、あなたは、彼女さえ片づければ私が許すと思っているの?」
彼の肩が小さく震えた。
私はその背中を見つめ、一語ずつ告げた。
「教えてあげる」
「たとえ今、あなたが私の目の前で死んでも、私はあなたを見ない」
「あなたが、どうしようもなく気持ち悪いから」
警備員がドアを開け、緊張した表情で言った。
「久世社長、七瀬様が外で手首を切ると騒いでいます」
「子どもを認めないなら、死ぬと言っています」
景人は背を向けたまま、肩を激しく震わせていた。
少しして、彼は振り返った。目は血走っていた。
「なら、死なせろ」
「刃物を渡せ」
「自分で死ねないなら、俺が手伝ってやる」
警備員は顔色を変え、急いで出ていった。
景人は再び私のベッドの前に跪いた。両手で私の膝を抱えるようにして、顔を布団に埋めて泣いた。
「澪、見ただろう」
「俺は彼女も、あの子どももいらない」
「お前に生きていてほしいだけなんだ」
「俺が悪かった……本当に悪かった」
「そんな目で見ないでくれ」
「俺を罵ってくれ。殴ってくれ」
彼は私の手をつかみ、自分の頬を叩かせようとした。
私は冷たく彼を見た。
「気は済んだ?」
私の声には、何の揺れもなかった。
「済んだなら出ていって」
「眠りたいの」
景人の動きが止まった。
彼は顔を上げ、絶望した目で私を見た。
「澪、お前は本当に……もう何も感じないのか」
私は目を閉じ、彼を見なかった。
「感じない」
そのとき、外で悲鳴と、何かが倒れる音がした。
廊下が騒然となった。
「人を殺す気だ!」
「止めろ、彼女は刃物を持っている!」
主寝室のドアが叩きつけられるように開いた。
七瀬瑠奈が血まみれで飛び込んできた。手には果物ナイフを握っている。顔は狂ったように歪んでいた。
「森川澪、死んでください!」
「全部あなたのせいです!」
「あなたがいなければ、景人さんが私たちの子どもを捨てるはずがない!」
彼女は叫びながら私に突進した。刃先は、まっすぐ私の胸を狙っていた。
私は近づいてくる刃を見つめた。避けることはせず、むしろ目を閉じた。
肉が裂ける音が、耳元で聞こえた。
けれど、予想していた痛みは来なかった。
目を開けると、シーツの上に鮮血が飛び散り、赤い染みが広がっていた。
景人が私の前に立ち、素手でナイフの刃を握りしめていた。血が指の隙間から落ち、一滴ずつ床に砕けた。
瑠奈は恐怖で腰を抜かし、その場に座り込んだ。ナイフの柄が手から滑り落ちた。
「景人……お兄ちゃん……」
彼女は支離滅裂に言い訳をしながら、必死に後ろへ下がった。
「わざとじゃないんです……」
「少し脅かそうとしただけで……」
景人の喉から、獣のような怒号が漏れた。
彼は刃を抜き取り、瑠奈を蹴り飛ばした。瑠奈は壁に激しくぶつかり、そのまま気を失った。
「消えろ!」
景人は掌の傷にもかまわず、息も絶え絶えの私を抱き寄せた。体中が震えていた。
「澪、澪、大丈夫か」
今の騒ぎが、私の心臓に残っていた最後の糸を断ち切った。
私は上体を起こし、大量の黒い血を吐いた。
景人は廊下へ向かって叫んだ。
「医者を呼べ!」
「早く医者を!」
彼は私の口元の血を拭おうとした。けれど自分の手の血を、私の頬に塗り広げてしまった。
「澪、怖がるな」
「すぐ医者が来る」
「死なせない」
「絶対に死なせない」
私は冷たい汗に濡れた腕を上げ、彼の顔を見た。
「景人……」
彼はすぐに耳を寄せた。
「ここにいる。俺はここにいる」
「澪、言ってくれ。聞くから」
私は最後の力で、彼の手を押しのけた。
「触らないで」
「汚い」
景人は半跪きのまま固まった。両手は宙に浮いている。指先からはまだ血が滴り落ちていた。彼は自分の血まみれの手を見て、それから私を見た。
その目から、最後の光が消えた。
「汚い……」
彼はよろめきながら洗面所へ走った。
「そうだ……俺は汚い」
「触らない」
「怒らないでくれ。すぐに洗うから……」
中から水の音がした。
続けて、ブラシで皮膚をこすり続ける音が響いた。押し殺した嗚咽が、途中で変な声に変わっていく。
榊原医師が医療スタッフを連れて飛び込んできた。血だまりと、倒れている七瀬瑠奈を見て、彼の顔は青ざめた。
「七瀬さんを外へ出して。警察を呼んでください」
「すぐに処置の準備を」
医療機器が再び私の体につながれていった。
私は天井の無影灯を見つめ、体が少しずつ軽くなるのを感じていた。
「榊原先生……」
「もう、いいです」
榊原医師の目は赤かった。それでも手は止まらなかった。
「馬鹿なことを言うな」
「息がある限り、私は助ける」
私は目を閉じた。命が、指の隙間から水のように抜けていく。
「無理です」
「私の時間は、もう終わりました」
洗面所のドアが開いた。
景人が走り出てきた。彼の両手は、ブラシで皮膚を削り取ったように血まみれで、もとの形がわからないほどひどく傷ついていた。
「洗った……」
「澪、洗ったから……」
「だから、追い出さないでくれ……」
彼はベッドへ駆け寄り、私の手を取ろうとして、途中で止まった。
私を汚すのが怖かったのだ。
私は彼を見た。
「景人」
「今のあなた、本当にかわいそう」
景人は床に跪き、狂ったように自分の頬を叩き始めた。どの平手も本気で、すぐに頬が赤く腫れ上がった。
「かわいそうなのは俺だ」
「俺は最低の人間だ」
「あの女のために、お前を置き去りにした」
「お前を信じなかった」
「お前を閉じ込めた」
「澪、頼む。償わせてくれ」
「お前の代わりに死ねと言うなら、すぐに死ぬ」
私はかすかに笑った。
「償う?」
「景人、すべての傷が、ごめんの一言と数滴の涙で消えると思っているの?」
「あなたが婚姻届の日に来なかったとき、私は死を待っていた」
「あなたが彼女と雪を見ていたとき、私は延命治療の同意書に署名していた」
私が一言話すたびに、景人の顔はさらに白くなった。
最後には、彼は呼吸することさえ苦しそうだった。
「私が死にかけている今になって、あなたは償いたいと言うのね」
私は彼を見た。
「景人、もうあなたを憎んですらいない」
「憎む価値も、なくなったから」
景人は崩れるように叫んだ。
「やめろ!」
「俺を憎め。憎んでくれ!」
「殴っても罵ってもいい。お前は俺を憎んでいなければ駄目だ」
「憎まないということは、俺を完全に捨てたということだろう」
私は目を閉じた。
「そうよ」
「もう、あなたはいらない」
「景人、もし来世があるのなら」
「どうか、あなたのいない場所へ行かせて」
景人は大量の血を吐き、後ろへ倒れた。
ボディーガードが叫びながら駆け寄った。
「久世社長!」
私は耳元で長く伸びる電子音を聞きながら、自分の魂が体から抜けていくのを感じた。
次の瞬間、私は魂のような姿で宙に浮かび、下で混乱する部屋を見下ろしていた。
景人は床に倒れたまま、ベッドの上に残された私の体を見つめていた。
彼は喉が裂けるような声で叫んだ。そこには後悔と絶望だけがあった。
「澪――!」
「澪!」
私は一度だけ見下ろし、それから私のために開いた光の扉へ向かった。
嘘と欺瞞に満ちたこの世界に。
さようなら。
7
一年後の夕暮れ、郊外の古い別荘は荒れた草に覆われていた。
景人は雑草だらけの空き部屋に座り込んでいた。頬はこけ、表情は抜け落ち、かつて体に合っていた高級スーツは、今ではぶかぶかに見えた。
佐伯浩平が酒を二本持って入ってきた。
彼は景人の姿を見てため息をつき、酒をテーブルに置いた。
「景人、一年だぞ」
「もう、いい加減にしろ」
「七瀬瑠奈のことなら、報いは受けている。精神科の閉鎖病棟に入ってから、完全に壊れたそうだ。毎日お前の名前を叫んで、泣いたり笑ったりしている。昔のあのか弱いふりなんて、もうどこにもないらしい」
景人は何の反応も示さなかった。
ただ、床に残る赤黒い染みを見つめていた。
それは、かつて私が吐いた血の跡だった。景人は特殊な薬剤でその跡を保存していた。まるで永久に癒えない傷のように、この古い別荘に焼きついている。
佐伯は耐えきれず、視線をそらした。
「ここに毎日いても、森川澪は戻ってこない」
景人がようやく口を開いた。
その声は、紙やすりで削られたようにかすれていた。
「帰れ」
佐伯は長いあいだ黙っていたが、最後にはため息をついて出ていった。
部屋は再び静かになった。
景人が床に座ったまま指を動かすと、ゆるんだ床板に触れた。何かに気づいたように彼はそこを見つめ、やがて力任せに床板を引き剥がした。
爪がめくれ、血が指先から流れた。それでも彼は痛みなど感じていないようだった。
床下には、小さな隠し場所があった。
中には、赤錆びた古い鉄の箱が置かれていた。
景人は震える両手でそれを持ち上げ、埃を拭い、蓋を開けた。
中に宝石はなかった。価値のあるものも、何一つ入っていなかった。あるのは、角が丸まり、表紙の色あせた古いノートだけだった。
それは、私が婚姻届を出す一週間前に書いた日記だった。
景人の視線が、最初のページに落ちた。
そこには、私の字があった。
【今日はウェディングドレスを試着した。景人は、私が着るとお姫さまみたいだと言ってくれた。でも、私を見るよりスマホを見る回数のほうが多かった】
景人の手が激しく震えた。
彼は次のページをめくった。
【先生に、心臓が悪いと言われた。榊原先生はすぐ入院しなさいと言い、家族にも伝えなさいと言った】
【景人に言おうと思った。でも、瑠奈のほうが先に彼へ話していた】
【彼女は、私が病院で診断書を偽造していたと言ったらしい。きっと偽物の病気で、婚姻届を出させるつもりだと】
【景人は私に尋ねなかった。調べもしなかった。ただ、くだらないやり方で結婚を迫るなと言った】
【痛くて立っているのもつらかったとき、彼の中の私は、また芝居をしている女でしかなかった】
【私が手で彫った木彫りの人形は、彼にとって机の上に放っておけるものだった。でも、瑠奈がくれた安物のライターは、いつも身につけていた。全部、わかっていた】
景人の呼吸が乱れた。
涙が紙に落ち、古く黄ばんだ文字をにじませた。
彼はさらにページをめくった。
最後のページまで。
そこには、乱れた字で数行が残されていた。書いたとき、私にはもうほとんど力が残っていなかったのだろう。
【恋しさは、終わりのない風みたいだ】
【今、あなたを思っているのは私。私を思ってくれていたのは、昔のあなた】
【久世景人、私の心臓はどんどん遅くなっている。昔は、あなたの腕の中で死ぬのだと思っていた。でも今は、あなたの絨毯を汚したくない】
【景人、私はもう待たない】
その数行が、景人を完全に壊した。
彼は錆びた鉄の箱を抱きしめ、床の上で小さく丸まった。自分の手で何もかも壊したことに、ようやく気づいた子どものように泣いた。
「澪……」
「ごめん……」
彼は泣きすぎて胃を痙攣させ、大量の血を吐いた。血は古いノートに飛び、最後のページをまだらに染めた。
夜が深くなった。
景人は裸足のまま、錆びた鉄の箱を抱え、一歩ずつ古い別荘を出た。
彼は私の墓へ行った。
墓石の写真の中で、私は穏やかに笑っていた。ずっと昔の写真だった。あのころの私はまだ、景人が私に家をくれると信じていた。
景人は墓の前で、まっすぐ膝をついた。
「澪」
「お前のものを、見つけてきた」
「俺も、ここにいる」
彼は冷たい墓石に頬を寄せ、低くつぶやいた。
激しい風雨がやって来た。三日三晩、雨と風は彼を打ち続けたが、彼は一歩も動かなかった。
四日目の朝、最初の陽が墓石を照らした。
久世景人の心臓は止まっていた。彼は墓のそばに倒れ、息をしていなかった。
死の瞬間まで、彼は錆びた鉄の箱を抱いていた。
その後、誰も手入れをしない墓の前に、無数の雑草が生えた。風に揺れ、伸び、枯れ、また生えてくる。それはまるで、遅すぎた誰かの代わりに、届かない謝罪を守り続けているようだった。
人気のない墓地を、風が通り抜けた。
その音に混じって、最後の小さな声が聞こえた気がした。
「澪」
「遅くなって、ごめん……」
あとがき
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
また、感想欄でたくさんのご意見やご指摘をいただき、心より感謝しております。今回の作品には、設定や展開、人物の行動理由、現実的な制度の描写など、多くの不足や矛盾があったと思います。
もともとは、日本の読者の方により読みやすく受け取っていただけるよう、日本人名や日本の背景に置き換えて物語を書いていました。しかし、その過程で、日本の文化や人間関係、生活感、医療制度などへの理解が十分ではなく、かえって違和感を生んでしまった部分がありました。
皆さまからいただいたご意見を拝読し、地名、制度、医療描写、家族関係、感情表現などについて、もっと慎重に確認してから書く必要があると強く感じました。
また、作品によっては無理に日本風へ置き換えるのではなく、中国小説らしい文化や雰囲気を残したまま、日本語で読んでいただく形のほうが自然なのかもしれない、と考えるきっかけにもなりました。
今後は、日本を舞台にする場合は日本の制度や生活感をより丁寧に調べ、違和感のない描写を心がけていきたいと思います。一方で、中国的な文化背景を活かすべき作品については、その魅力を残したまま伝えられる形も考えていきたいです。
たくさんのご指摘、温かい感想、そして最後まで読んでくださったことに、改めて感謝いたします。
今後の作品では、今回いただいたご意見を大切にしながら、より自然で、より納得していただける物語を書けるよう努力していきます。
本当にありがとうございました。




