第1話「雪に閉ざされた辺境の地へ」
登場人物紹介
◆ルカ・エルウィス
没落したエルウィス伯爵家の三男。性別はオメガ。
家族の借金を肩代わりしてもらう条件で、北の辺境へと嫁いできた。
おとなしく控えめな性格だが、芯は強く、植物に関する豊富な知識を持つ。
動物や魔獣に好かれやすい不思議な性質があり、領地で出会った巨大な聖獣をあっさりと手懐けてしまう。
温かい料理を作ることと、土をいじることが好き。
◆レオン・ヴォルグ
北の辺境を治めるヴォルグ辺境伯。性別はアルファ。
無口で表情に乏しく、周囲からは冷酷な人物だと恐れられている。
過去の経験から人間不信気味だったが、領民への責任感は非常に強い。
契約結婚としてルカを迎えたものの、彼のひたむきな姿に少しずつ心を開き、不器用ながらも優しさを見せるようになる。
甘いものが密かに好き。
◆シロ
北の辺境に住む伝説の聖獣。真っ白で巨大な狼のような姿をしている。
本来は人間に懐かないが、ルカから漂う穏やかな気配に惹かれて彼に付きまとうようになる。
もふもふとした分厚い毛皮を持ち、ルカの良き相談相手であり、頼もしい護衛でもある。
窓ガラスを覆う分厚い霜が、外の景色を白く濁らせている。
木製の車輪が凍てついた轍を乗り越えるたび、古い馬車の車体が大きく軋んだ。
座席に縫い付けられたように身を縮めるルカは、自身の口から吐き出される息の白さをただ見つめていた。
厚手の外套を何枚も重ね着しているというのに、北の地の冷気は容赦なく布地の隙間から忍び込んでくる。
手袋に包まれた指先はとっくの昔にかじかんでおり、自分の身体ではないような鈍い感覚だけが残っていた。
エルウィス伯爵家の三男として生まれたルカが、この最果ての地へ向かうことになった理由はただ一つだ。
実家が抱え込んだ莫大な借金を清算するための、身売りと同義の契約結婚である。
相手は北の国境を守護するヴォルグ辺境伯、レオン。
無口で冷酷無比なアルファだと、王都の社交界では誰もが恐れをなして語る人物だった。
没落した家を救うためとはいえ、オメガであるルカが一人で嫁ぐにはあまりにも過酷な環境だ。
けれど、ルカに拒否権など最初から用意されてはいなかった。
馬車がゆっくりと速度を落とし、やがて重々しい音を立てて停止する。
到着を知らせる御者の声が、冷たい風の音に混じってくぐもって聞こえた。
硬く閉ざされた馬車の扉が外から開かれると、氷のように冷たい空気が一気に車内へと流れ込んでくる。
ルカは小さく息を呑み、震える足に力を込めて立ち上がった。
『泣いてはいけない』
自分に言い聞かせるように心の中でつぶやく。
馬車を降りたルカの靴底で、踏みしめた雪が硬く砕ける音が響き渡った。
顔を上げると、黒い石を積み上げて造られた巨大な城砦が、鉛色の空を切り裂くようにそびえ立っている。
装飾の一切を削ぎ落としたようなその無骨な外観は、北の厳しい自然と外敵を拒絶する意思そのものだった。
出迎えた使用人たちの案内で、ルカは薄暗い石造りの回廊を歩き始める。
壁に掛けられた燭台の炎が、吹き抜ける隙間風に揺れて細長い影を床に落としていた。
石の床から這い上がってくる冷気が、靴底を通して足の裏から体温を奪っていく。
長い沈黙の中を歩き続け、やがて重厚な両開きの木の扉の前にたどり着いた。
使用人が恭しく頭を下げ、ゆっくりと扉を押し開ける。
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、ルカの心臓が早鐘のように鳴り始めた。
広い執務室の中央にある大きなマホガニーの机の向こうに、一人の男が立っている。
彼がヴォルグ辺境伯、レオンだった。
王都で見慣れた貴族たちとは根本的に異なる、大木のように分厚くたくましい体躯をしている。
漆黒の髪は無造作に切り揃えられ、鋭い眼光を放つ深い灰色の瞳がルカを射抜いた。
アルファ特有の威圧感が、冷たい空気とともに肌を刺す。
冬の針葉樹の森を思わせる、静かで鋭い気配が部屋全体を満たしていた。
ルカは思わず一歩後ずさりそうになるのを必死に堪え、両手を胸の前で固く握りしめた。
レオンは表情を一切変えることなく、無言のままルカを観察している。
その視線はルカの華奢な肩から、血の気を失った青白い唇、そして小刻みに震えている指先へとゆっくりと移動した。
何か恐ろしい言葉を投げかけられるのではないかと、ルカは目を伏せて身構える。
しかし、レオンの口から紡がれたのは、予想とは全く異なる低い声だった。
「部屋の暖炉に、もっと薪をくべろ」
その言葉はルカに向けられたものではなく、控えていた使用人に向けられた指示だった。
ルカは驚いて顔を上げる。
「南から来たばかりの体には、この城は冷えすぎる」
レオンの言葉は事務的で淡々としていたが、そこには確かな気遣いの色が混じっていた。
視線を交わすことなく再び書類に目を落としたレオンの横顔を、ルカは呆然と見つめる。
冷酷だと噂されていた男の、唐突で不器用な配慮。
握りしめていたルカの手から、ほんの少しだけ余計な力が抜けていった。




