第二十章:羊の皮と、冷酷な盤面
極上のステーキを堪能した後の食堂には、脂の香りを打ち消すような、深く芳醇な珈琲の香りが漂っていた。
死の影がちらつく閉鎖空間において、この一杯の時間は皮肉にも、彼らに人間らしい安らぎを与えていた。
しかし、その静寂を切り裂いたのは、やはり清水翼の卑屈な好奇心だった。
「なあ、鶫と彼岸さんはさあ、誰に投票するか決めた? 投票って言っても、実質『誰が死ぬべきか』って話だけどな」
翼はカップの縁を指でなぞりながら、獲物をいたぶるような下卑た笑みを浮かべて二人を覗き込んだ。
「……教えない」
鶫はカップを置き、翼の視線を真っ向から跳ね返すように短く告げた。
その隣で、彼岸はいつものように菩薩のような笑みを湛え、静かに珈琲を啜っている。
「けっ、勿体ぶりやがって。いいか、もし俺に投票しやがったら、どうなるか分かってんだろうな?」
翼は声を低め、隠しきれない凶暴性を剥き出しにして鶫を脅した。
「わからないよ。それにそんなこと、今ここで答える必要はないもの」
鶫の言葉は、かつての怯えた少女のものとは思えないほど毅然としていた。
「ああ? お前、ここに来てから随分と態度がデカくなったじゃねえか。いつも学校でボコられて、泣きべそかいてるくせによお!」
翼は周りの連中に同意を求めるようにゲラゲラと下品な笑い声を上げた。
「そのような事をされておりましたか。暴力とは、感心しませんねえ」
彼岸が、まるで道端の花を眺めるような穏やかな眼差しで翼を諭した。
「あ? ひょろいチビのおっさんが格好つけてんじゃねえよ。いい年して正義のナイト気取りか?でもさ、正義の味方気取ったところで、この中の男連中で一番小柄で弱そうじゃねえか。プロフィール通りだと164㎝だっけか、あんた。俺なら秒で殴り倒せそうだぜ」
翼は鼻を鳴らし、彼岸の細い体躯を嘲笑った。
「……返り討ちにされるよ、きっと」
鶫はボソッと、しかし確かな拒絶を込めて呟いた。
「はあ!? 何言ってんだお前、頭沸いてんのか?」
翼の怒りのこもった嘲笑に同調するように、智弘も鼻で笑いながら参戦した。
「確かに、彼岸さんって弱そうだよな。俺はインドア派で運動なんてからっきしだけど、それでも彼岸さんになら勝てそうな気がするよ」
「僕も同意見だ。彼岸さんみたいな『虚無』な人間になら、腕っぷしでも簡単に勝てそうだ」
笠原慎介までもが、自分の優位性を誇示するように肩をすくめて笑った。
「皆さん、失礼じゃありませんか……!」
鶫が堪らず抗議の声を上げたが、当の彼岸は全く気分を害した様子もなく、楽しそうに目を細めた。
「ははは、実際、私は弱々しいとよく言われてきましたからねえ。皆さんの仰る通りかもしれません」
(……この人達、彼岸さんの事を何も分かってない)
鶫は心の中で、彼らが彼岸と言う人物を軽視する態度に呆れていた。
作務衣の下に隠された、あの岩のように硬く引き締まった肉体。
40代後半という年齢を一切感じさせない、空気を切り裂くようなボクシングの動き。
更に、彼岸はボクシング以外に、古来より伝わる『古の武術』も体得していて、その動きもトレーニングルームで教わっていた鶫。
もし彼らが、あのトレーニングルームでの彼岸を知れば、今吐いた言葉を即座に飲み込んで震え上がるに違いない。
羊の皮を被った狼——いや、底の知れない深淵を覗き込んでいることに、この愚かな男達は気づいていないのだ。
その時、食堂のモニターが「パッ」と鮮烈な光を放ち、閻魔の面を被ったあの女が再び姿を現した。
「ごきげんよう。食後の珈琲を楽しんでいるようで何よりです。良質な珈琲豆を用意した甲斐があるというものです」
冷徹な、しかしどこか悦びに満ちた声がスピーカーから響く。
和やかな夕食の余韻は一瞬で吹き飛び、食堂には刺すような緊張感が戻ってきた。
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