第十八章:静寂の拳と、魂の鼓動
1時間半程、無機質な内職部屋でシール貼りの作業に没頭した二人は、ようやく道具を置いて立ち上がった。
指先に残る粘着質の微かな違和感を洗い流すと、一旦それぞれの個室へと戻り、支給されていた黒のトレーニングウェアに着替える。
再び無機質な廊下を抜けてトレーニングルームへと向かう足取りは、心なしか軽やかであった。
鶫がスタジオスペースの重厚な扉を開けると、そこには既に別人のような空気を纏った彼岸の姿があった。
鏡張りの壁に向かい、彼は静かに、しかし凄まじい速度で拳を突き出していた。
シュッ、シュッ。
鋭く空気を切り裂く音が、静まり返った室内で小気味よく反響する。
無駄のない足捌きと、しなやかにうねる広背筋が生み出す拳の軌道は、まるで精密に調整された機械のように正確で、それでいて舞踏のような美しさを湛えていた。
鶫はその場に釘付けになり、瞬きすることさえ忘れて、その洗練された動きに魅入ってしまった。
一通りの動きを終え、彼岸が静かに息を整えたところで、鶫は堪らず声をかけた。
「……あの、彼岸さん、ボクサーだったんですか?」
問いかけられた彼岸は、いつもの柔和な笑顔を浮かべて、軽く首を振った。
「昔、高校時代と大学時代の途中までアマチュアで嗜んでおりましてね。大学1年生の頃に怪我を機会に選手を引退した後、大学時代はトレーナーのような事をさせて貰いました。就職活動に入ってからは本格的な活動はやめましたがね、鍛錬だけは続けております。体が覚えているものですからねえ」
その謙虚な答えを聞き、鶫の胸の奥で、何かが熱く震え始めた。
いじめられ、奪われ、透明な存在として扱われてきた彼女にとって、その鍛え上げられた拳は、自分を守るための唯一の「力」の象徴に見えたのだ。
「……あの、喧嘩には使いませんから、教えて貰えませんか?プロフィールを読まれたからご存じと思いますが、私はいじめられっ子で……体と心の鍛錬の為にも、教えて欲しいんです」
伏せ目がちに、しかし切実な願いを込めて鶫が頭を下げると、彼岸は一切の迷いなく頷いた。
「畏まりました。では、まずは構えからやってみましょうか」
彼岸の指導は驚くほど丁寧で、そして的確だった。
運動に関しては左利きの鶫は、左構えであるサウスポースタイルで、顎を引き、脇を締め、重心を低く保つ。
彼岸の手によって修正されるたびに、鶫の視界は一点に定まり、内側に眠っていた「芯」が一本の筋となって通り始める。
「鶫さんは私と同じサウスポーですね。構えが安定しており、とてもいいですよ。では、次は右を真っ直ぐ。ジャブを打ってみましょう」
シュッ。
空気を突く感覚。
それまで「標的」とされていて縮こまっていた彼女の拳が、初めて意志を持って空間を支配する。
続いて教わった左のストレート。
腰の回転を乗せた「ワンツー」が繰り出されるたび、鶫の心に溜まっていた澱が、一振りごとに弾け飛んでいくようだった。
「筋がいいですね、鶫さんは。覚えがとても早い。あなたはセンスがありますよ」
彼岸からの思いがけない言葉に、鶫は目を見開いた。
これまでの人生で、誰かに褒められることなど一度もなかった。
親戚からは厄介者と呼ばれ、学校では石ころのように扱われてきた自分に、こんな「輝き」があったなんて。
嬉しくて、誇らしくて、鶫は時間の経過も忘れて無心に拳を振るい続けた。
気がつけば、室内の時計は夕食の時間を告げていた。
額に玉のような汗を浮かべ、荒い息をつく鶫に対し、彼岸は満足げに目を細めた。
「今日はここまでにしましょうか。よく頑張りましたね」
彼岸は笑顔で清潔なタオルを差し出した。
鶫はそれを両手で受け取り、胸の鼓動を落ち着かせながら力強く頷いた。
「はい、有難う御座います!」
「死者選定」という悍ましい現実は、今この瞬間だけは、彼女の意識の果てへと追いやられていた。
奪われるばかりだった少女の拳に、初めて確かな充実感が宿った。
---




