2.
ほとんど紅茶と名前の話…。
時間が全く進んでおりません、すみません。
暖かく眩しい光がカーテン越しに窓から部屋全体に差し込み、朝を迎えていた。時間が経つにつれ朝の明るさは加速度を増して広がっていく。
アランはまだ静かな隣の部屋の前を音を立てないように通り、リビングに向かう。冷たい空気が、少しづつ暖かくなってきている。アランの服装はダークスーツのジャケットを着ていない、胸元のシャツを2つ開けた状態。殆ど仕事着である。
茶色のベースに白いオシロイバナが描かれた薄いカーテンを開けると、更に眩しい光が差し込んできて、照明などいらないほどだ。思わずアランは目を細めた。
今日から新しい生活が始まるが、これからアランはヴェネツィアの執事兼従者の仕事、更にはパティシエを目指すという夢(?)もあるのでいつもより早起きしなければならない。ヴェネツィアは「私も家事やるし」などと言っているがいくら前世の記憶があるからといって公爵令嬢が雑用や家事などできるのだろうか。手伝ってくれるという好意は嬉しいのだが。
そんなことを思いながらアランは手際よくキッチンで5月に摘まれたセカンド・フラッシュの茶葉を使い紅茶をいれていく。ロイヤル公爵家に仕えていただけあって、いれ方はプロ並みだ。
紅茶を事前にこちらの食器店で購入していた白いカップ2つに注ぎ、ダイニングテーブルにカチャリ、と置く。
すると、丁度良いタイミングでヴェネツィアが大きな伸びをしながらリビングにやってきた。花柄のレースが基調のチュニックしか身に着けていないせいで、ヴェネツィア綺麗な細く長い脚や大きな胸元などが見えてしまっている。アランはこれでも健全な青少年であるので、慌てて見ないように横を向いた。
「ふぁあ…おはよ、アラン。なんだか新鮮ね…って、なんで横向いてるの?」
ヴェネツィアはアランが何故横を向いているのか理解できず、不可解そうに眉を寄せて首を傾げていた。
本当に、気を使っているのにヴェネは…とアランは溜息をつく。
「ヴェネ、俺はあくまでも男なんですよ。なんで、その。もう少し、露出を控えていただけると、ありがたいです。」
変に緊張して、いつもより呂律が回らず片言になってしまう。ヴェネツィアはそっちの方が可笑しいと思ったのかあははと声を上げて笑い始めた。
「あははっ、ふ、ふふっ、う、うん。気をつけるね。それより、あんな片言のアラン初めて聞いた。面白いわね。」
「俺の言いたいこと本当にわかってるんですか…。」
未だにからかってくるヴェネツィアをアランは不満気に拗ねた表情で見る。それを見てヴェネツィアはまた軽く笑った。
「あ、それより紅茶が覚めてしまいます、飲みましょう。」
「うん、いただく。ありがとう。先に何か羽織ってくるから、ちょっと待っててくれる?」
紅茶は湯気をたてているが、そろそろ覚めてしまうころだ。
ヴェネツィアは急いで部屋に戻り、白の薄いシルク生地のカーディガンを羽織ってリビングにやってきた。胸元はどうにかなったが、そのカーディガンも丈が短いためまだ脚が結構露出している。わかってないじゃないかとアランは心の中で文句を言うが、言えば長引きそうな上に、またからかわれるかもしれないので黙っておくことにする。
ヴェネツィアとアランはほぼ同時のタイミングで椅子を引いて柔らかく座った。
「うん、美味しいわ。わざわざ入れてくれなくてもいいのに、ありがとう。」
ヴェネツィア紅茶の香りをしばらく堪能した後、ゆっくりとカップを口に近づけて一口飲み、いつも通り「美味しい」と口にした。
「恐縮です。わざわざというより、ヴェネが朝は温かい紅茶を飲まないと始まらないと前仰っていたから毎日入れているんですよ?」
それを聞いたアランはいつも通り、「恐縮です」と返し、毎朝紅茶をわざわざ入れている理由を若干呆れながら話した。最近の貴族は朝紅茶を飲むという習慣はあまりない。冬は暖かいコーヒー、ココア。夏は冷たいフレッシュジュースなどを飲んだりその人の好みに合わせるのが主流なのだ。
今は五月の始め。夏に入りかけ、日差しも明るく、強くなりありとあらゆる植物もみずみずしくなって初夏を感じさせている。
そんな時に温かい紅茶を飲むのはもうヴェネツィアとアランぐらいだろう。少し変わっているが、二人は何も文句は言わず、年中温かい紅茶を朝に飲んでいる。
アランが言ったように、ヴェネツィアが12歳ごろのときに「朝は温かい紅茶を飲まないと始まらないわ」と言った。アランはそれをずっと覚えていて、律儀にその日から温かい紅茶を朝に出すようになったというわけだが。
ヴェネツィアは覚えていないようで、カップを持ったまま真剣な表情で首を傾げ、必死に思い出そうとしている。
「うーん、思い出せないわね。まあいいわ、美味しいし。これからも続けてね。」
「わかってますよ。」
結局思い出せなかったヴェネツィアは、諦めて残った紅茶を飲み始める。その姿を見て、アランはさすがヴェネと苦笑しながら返事を返した。
+ + +
ヴェネツィア公爵令嬢は、この国、アジュール王国でも知らない人はいないぐらい有名である。公爵家という大貴族の娘。大きく、つり目がちな綺麗な二重と腰まで伸びたアランと同じ艶やかな銀髪が特徴の国でも指折りの美人。身長はアランよりは低いが女性としては高い方で、胸は大きく、脚は長くといった完璧なスタイルをしている。それに加え、女性だなんてもったいないと言われるほど優秀で文武両道。有名にならない理由がないのだ。
まあ、実物を見た者は貴族などしかいない為顔が知られているわけではなく存在が広く知られているのだけなのだが、そんなヴェネツィアがアンジェの街に住み始めたとなると、混乱が起きるだけでなくそもそもパティシエ修行をすることができない。
何が言いたいのかというと、ヴェネツィアが(元)公爵令嬢だとバレてはいけないということだ。
幸い、勘当については貴族間の秘密らしく、平民に広く知られていない。
「そこで、ヴェネには名前を変えてもらいます。ヴェネツィアという名前は珍しいですからね。銀髪で美人ならすぐバレます。なので、ユリアという名前にしてください。」
「ユ、ユリア!?嫌だ!私はあんなビッチじゃないわ!」
アランの提案を聞いたヴェネツィアは、椅子を倒す勢いで立ち上がり、剣幕な表情で声をあげた。机を叩いたせいで、飲み終わった紅茶の食器がカチャカチャと音を立てて揺れる。
ユリア、つまりあのクソビッ…ヒロインである。よりによって、あの転生ヒロインの名前はやめて欲しい。
「仕方ないじゃないですか、思いつかなかったんです。で、平民の服は既に買ってあります。ヴェ…ユリアの場合は髪はまとめるか切ってください。一応帽子も用意してます。」
アランはしれっとした表情で答え、話を勝手に進めていく。ユリアというのは勿論遊び心というやつである。
ヴェネツィアは頬をぴくぴくさせながら力強く椅子に座った。これは言ったところで聞いてもらえないだろう。絶対この仮は返すから、と心の中で報復を誓ってから、2回ほど軽い咳をして気を取り直す。
「…ま、まあいいわ。で、今から何をするの?」
「大家さん…というより管理人さんと、隣人さんに引越しの挨拶。小さな街ですので午前中で俺が街の案内をします。それから、お待ちかね、ヴォワ・ドゥ・ガトーに行きますよ!」
「おおー!」
ヴェネツィアは目を輝かせ、パチパチとアランに向かって拍手をし、歓声を上げた。やっとヴォワ・ドゥ・ガトーに行くことができるのだ。ここで修行させてもらえる店を探すことになっている。手当たり次第お願いするのではなく、一番美味しいと気に入った店に頼み込んで、無理矢理でも入れてもらいたい。18年間も待ったのだから、このぐらい我が儘になってもいいだろう。…多分。
喜ぶヴェネツィアを見てアランはまんざらでもない顔をした。
「というわけで、とりあえず着替えましょう。服は部屋のクローゼットに何着か掛けてあるので好きなのを選んでください。」
「はーい!」
気分が上がったヴェネツィアは、子供のようにはしゃぎながら部屋へと走って向かっていく。
そんな姿を見て、アランは上機嫌に目を細めた。
(やっと街に出れる!18年間の夢が!近づいてきた!)
次回に新キャラを登場させる予定です。