第4章「雨がやむ日」 第20話 晴れた日
朝
雨は降っていなかった。
莉莉はカーテンを開ける。
空は灰色だった。
昨日と同じ。
莉莉は少しだけ外を見た。
それから部屋を出た。
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「ほんとに持ってかないの?」
玄関で、あやかが訊いた。
「うん」
莉莉は靴を履く。
傘立てには、昨日使わなかった傘がある。
今日は取らなかった。
「降ったら?」
「降らないって」
「昨日はあんなに心配してたのに」
「今日は大丈夫」
「何その自信」
「予報」
「急に信じるじゃん」
莉莉は立ち上がった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気をつけてね」
りりかの声が奥から聞こえた。
ドアを開ける。
冷たい空気が入ってきた。
雨はない。
莉莉は、傘を持たずに家を出た。
~~~
円山の街は、昨日とあまり変わらなかった。
道路はまだ濡れている。
建物の壁にも水気が残っている。
排水路には水が流れている。
空は灰色。
ただ、雨がない。
それだけだった。
莉莉は駅へ向かった。
昨日ほど、空を見ている人はいなかった。
傘を持っていない人も増えていた。
莉莉も今日は持っていない。
少しだけ身軽な感じがした。
歩く
いつもの道
いつもの建物
いつもの水
駅が近づいてきた。
その頃だった。
莉莉は少し目を細めた。
「ん?」
明るい。
足を止めるほどではなかった。
でも、さっきまでより明るい気がする。
空を見る。
灰色だった。
ただ、雲の一部が少し白くなっている。
莉莉はそのまま歩いた。
数歩。
また少し明るくなる。
建物の壁が、いつもより白く見えた。
道路も。
濡れた地面の一部が光っている。
莉莉は目を細めた。
「何……」
駅前へ出た。
そこで、足が止まった。
水が光っていた。
昔の街が沈んでいる水域。
水面いっぱいに、細かな光が散っている。
風で水が動く。
光も動く。
消える。
別のところに現れる。
また消える。
また光る。
莉莉は黙って見た。
きらきらしていた。
水って、こんなふうに光るんだ。
目の前の水は動いていた。
光も一緒に動いている。
古い建物の上の方が、水面から出ている。
その壁にも光が当たっていた。
昨日まで見ていたものと同じはずだった。
水も
建物も
街も
なのに
「……すご」
小さく声が出た。
莉莉は動かなかった。
水面を見る。
眩しくなって、少し目を細める。
そのとき
足元に何かがあった。
黒い。
莉莉は下を見る。
自分の影だった。
輪郭がある。
脚
鞄
髪
莉莉が手を上げる。
影も手を上げた。
「……」
もう一度やった。
後ろを歩いていた人が莉莉を避けて通った。
莉莉は気づかなかった。
手を見る。
明るい。
掌を返す。
肌に光が当たっている。
冷たい朝なのに。
そこだけ少し暖かい。
莉莉は手を光の方へ向けた。
暖かい。
風は冷たい。
でも、手は暖かい。
不思議だった。
莉莉はゆっくり顔を上げた。
雲が動いていた。
灰色の間に、大きな切れ目ができている。
その向こう。
青かった。
莉莉は見上げた。
青い
飛行機の窓からなら、見たことがある。
でも、違った。
ずっと上まで青い。
建物の上も
駅の上も
水の上も
自分の上も
全部、その下にあった。
白い雲が、青いところをゆっくり動いている。
莉莉は立ったまま見ていた。
眩しくなって、一度目を細める。
それでも、また見る。
水を見る。
光っている。
地面を見る。
自分の影がある。
手を見る。
明るい。
また空を見る。
青い。
莉莉は何も言わなかった。
ただ、立ったまま見ていた。
端末が震えた。
莉莉は反射的に見る。
時間が表示されている。
「……やば」
もう一度、空を見る。
それから走った。
~~~
教室のドアを開けたとき、授業はもう始まっていた。
何人かが莉莉を見る。
先生も見る。
「美濃」
「すみません」
莉莉は少し息を切らしていた。
先生が時計を見る。
それから莉莉を見る。
「珍しいね」
「はい」
「座って」
「はい」
莉莉は席へ向かった。
美羽がものすごく見ている。
紬も見ている。
莉莉は鞄を置いた。
美羽が小さな声で言った。
「遅刻した」
莉莉は前を見る。
「した」
「莉莉が」
「うるさい」
「何してたの」
莉莉は少しだけ窓を見る。
青い空が見えた。
「空見てた」
美羽が黙った。
紬も窓を見る。
少しして、美羽が言った。
「それはしょうがない」
莉莉は美羽を見る。
「でしょ」
「今日はね」
先生がこちらを見た。
三人とも前を向いた。
~~~
休み時間。
窓の近くに人が集まっていた。
いつもより教室が明るい。
照明はついている。
でも、それとは違う。
窓から入ってくる光が、机や床に落ちている。
美羽が自分の机に手を置いた。
「あったかい」
「朝もそうだった」
莉莉が言う。
「外、もっとすごいよ」
紬が窓の外を見る。
「空、ほんとに青いね」
「うん」
莉莉も見る。
美羽が振り返った。
「莉莉、こういうの初めて?」
「うん」
「飛行機は?」
「それはある」
「じゃあ初めてじゃないじゃん」
「全然違う」
莉莉はすぐに言った。
自分でも少し驚いた。
美羽が莉莉を見る。
「そんな違う?」
「違う」
「何が?」
莉莉は窓の外を見る。
「全部」
美羽も外を見る。
「分かんない」
「私も」
紬が言った。
莉莉は二人を見る。
「何それ」
「私たちもちゃんと晴れてるの知らないし」
紬が言う。
美羽が頷く。
莉莉はもう一度、外を見る。
三人でしばらく窓の近くにいた。
~~~
昼休み。
外へ出る生徒が多かった。
莉莉たちも外へ出た。
屋根の下ではなく、その外へ。
光が上から落ちている。
朝より少し暖かかった。
美羽が顔を上げる。
「眩し」
「ずっと見ない方がいいよ」
紬が言った。
「分かってる」
「朝、ずっと見てた」
莉莉が言う。
「だから遅刻したの?」
「空だけじゃない」
「何見てたの」
「水」
「水?」
「光ってた」
美羽が少し先の水面を見る。
「ああ」
「その反応何」
「だって光るでしょ」
莉莉が美羽を見る。
「知ってた?」
「映像とかで」
「私も知ってたけど」
「じゃあ同じじゃん」
「違う」
またすぐに答えた。
紬が笑う。
「今日そればっかりだね」
「だって違うから」
三人で歩く。
地面には、それぞれの影がある。
莉莉は自分の影を見る。
隣に美羽。
その隣に紬。
三つの影が並んで動いている。
莉莉が少し前へ出る。
影も前へ出る。
美羽が気づいた。
「何してんの」
「別に」
「影で遊んでる?」
「遊んでない」
「遊んでるじゃん」
「確認してるだけ」
「何を」
「影」
「そのままじゃん」
紬が笑った。
莉莉も笑った。
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午後になっても、雲は戻らなかった。
青いところは、朝より広くなっていた。
ニュースでは、各地で青空が広がっていた。
まだ何も断定できない。
それでも、画面に映る人たちは笑っていた。
街でも、学校でも、空を撮っている人がいた。
屋根のない場所に人が増えていた。
莉莉も何度も空を見た。
何度見ても青かった。
~~~
放課後
美羽と紬と別れて、莉莉は家へ向かった。
朝と同じ道を通る。
駅前まで来ると、また水面を見た。
まだ光っている。
朝とは光る場所が少し違う。
風で揺れるたび、細かな光が動く。
莉莉は立ち止まった。
今度は時間を確認した。
まだ大丈夫。
少しだけ見る。
水には、青い空も映っていた。
莉莉はしばらく見ていた。
朝ほど長くはなかった。
でも、やっぱりきれいだった。
それから家へ帰った。
~~~
「ただいま」
玄関を開ける。
「おかえり」
あやかの声がした。
莉莉は靴を脱いでリビングへ行く。
りりかもいた。
「今日、すごかった」
莉莉が言った。
あやかとりりかが同時に莉莉を見る。
「何が?」
あやかが訊く。
莉莉は少し考えた。
「全部」
「全部?」
「空とか」
「うん」
「地面とか」
「うん」
「水とか」
りりかが少し笑った。
「水?」
「光ってた」
「ああ」
莉莉はりりかを見る。
「ああ、って何」
「何って?」
「知ってた?」
「知ってるよ」
莉莉はあやかを見る。
「お母さんも?」
「知ってるよ」
「ずるい」
あやかが笑った。
「何がずるいの」
「二人とも知ってたじゃん」
「りーりーも今日知ったでしょ」
「そうだけど」
「きれいだった?」
莉莉は少し黙った。
朝の水面を思い出す。
動く光
地面の影
手の暖かさ
青い空
「うん」
それから付け足した。
「すごかった」
りりかが窓の外を見る。
「まだ晴れてるよ」
莉莉も見る。
「うん」
あやかが立ち上がった。
「ベランダ出る?」
莉莉はすぐに立った。
~~~
三人でベランダへ出た。
空気は冷たかった。
でも、雨はない。
円山の街が見える。
建物
道路
木々
遠くの水
いつも見ている景色だった。
でも、明るかった。
建物の壁にも
木々にも
地面にも
光が当たっている。
三人の足元にも影があった。
莉莉は自分の影を見る。
その隣に、あやか。
その隣に、りりか。
「影」
莉莉が言った。
「あるね」
あやかが答える。
「朝、ずっと見てた」
「影を?」
「水も」
「遅刻しなかった?」
莉莉は黙った。
あやかが莉莉を見る。
「したの?」
「……ちょっと」
「りーりーが?」
りりかが笑った。
「しょうがないじゃん」
莉莉が言う。
「初めてだったんだから」
あやかも笑った。
「それはしょうがないね」
「でしょ」
莉莉は手すりの向こうを見る。
遠くの水面にも、光が散っていた。
「ねえ」
「何?」
あやかが訊く。
「昔は、いつもこんなだったの?」
りりかが答える。
「いつもじゃないよ」
「晴れの日は?」
「こんな日もあったよ」
莉莉は空を見る。
青かった。
「ふうん」
少しして、莉莉が言った。
「いいね」
あやかも空を見る。
「うん」
りりかも見ていた。
三人でしばらくベランダにいた。
誰も急いで中へ戻ろうとはしなかった。
莉莉は水面を見る。
光が揺れている。
朝から何度も見た。
それでも、まだ見ていたかった。
それから、もう一度空を見上げた。
青かった。
ちゃんと。
まだ、青かった。
第4章「雨がやむ日」は20話までになります。
莉莉がずっと知っていた青い空
でも「知っている」ことと、自分の目で見て、その下に立つことは、少し違うのだと思います。




