第九話:時間がたてば
私は食事を淡々と終え、身支度を整える。
あまり、アルス殿下を待たせるのはよくない気がする。
王太子という立場にありながら、食事の邪魔をしてしまったと気を遣い、わざわざ出直してくれたのだ。
そもそも、食事の後の予定を聞いたのも、ついさっきのことだしなぁ……。
うん、私は悪くない。
とはいえ。
例によって、シンシアさんは殿下に対して、そこまで気を遣っている様子もない。
そもそも、殿下を自分の私室に呼んでいる時点で、先生と生徒だった頃の関係は、今も完全には抜けていないのだろう。
今では、王太子と神官長という明確な立場の違いがあるはずだ。
それでも、昨晩の二人のやり取りを思い返せば、互いに必要以上に遠慮するような間柄ではないことがうかがえた。
そんなことを考えながら、私はシンシアさんに声をかけた。
「シンシアさん、お待たせしました。そろそろ、アルス殿下をお呼びした方がいいでしょうか?」
「そうですね。では、お呼びしましょう」
シンシアさんはそう答えると、扉の前に控えていた侍女に目配せをした。
侍女は小さく一礼し、音もなく部屋を出ていった。
⸻
しばらくすると、先ほど出ていった侍女が戻ってきた。
「アルス殿下がお見えになりました」
「お通しして」
シンシアさんは少しだけ居住まいを正し、微笑みながら答えた。
「失礼する、シンシア」
先ほどとは違い、今度は扉の向こうからきちんと声がかかった。
「どうぞ」
シンシアさんが答えると、扉が開いた。
アルス殿下は、私に目配せをしてくれた。
「お待たせしました、ホタル様。先ほどは失礼しました」
「いえ、こちらこそ。わざわざ出直していただいて、ありがとうございます」
互いに軽く頭を下げる。
……うん、かっこいい。
こうして見ると、やっぱり王太子殿下なんだよなぁ。
身長も、さっきのちんちくりんとは違って高いし、彫りの深い顔立ちに、金色の綺麗な髪。どこを取っても高貴な雰囲気が漂っている。
先ほどの鋭い視線が嘘のように、今の表情には穏やかさがあった。
「……?」
あまりに長い時間見つめていたせいか、殿下の表情が少し曇った。
……しまった。見すぎた。
「早速ですが、本日のお話を始めてもよろしいでしょうか?」
「失礼しました! はい、お願いします」
我に返った私が答えると、アルス殿下は優しくうなずいた。
「ありがとうございます。それでは、まずホタル様の今後について、お話ししましょう」
その言葉に、自然と背筋が伸びた。
早速だが、核心の話だ。
『今後』。
現状、私がこの国にとって有益な存在なのかどうか、判断されているところなのだろう。
正直、この世界の文化水準は、十四世紀頃のヨーロッパに近いように思える。
召喚の祭壇があったセレスタイン教会は、見事なステンドグラスをはじめとするゴシック様式の建築だった。
いくつかの書籍も拝見させてもらったが、すべて手書きか木版印刷だった。
少なくとも、私が見た限りでは、活版印刷が広く普及する段階には至っていないようだ。
私だって、歴史に詳しいわけではない。
ただ、目にしたものから推測する限り、現代日本とは技術体系そのものが大きく異なっている。
そんな世界に、現代日本から来た私が何をもたらせるのか。
……いや、そもそも。
そんな私に、この国の人たちは何を求めているのだろう。
確かに、農業を中心に勉強してきた人生だった。
けれど、この世界の植生も、土壌も、気候も分からない。
これまで培ってきた知識が、そのまま通用するとは限らないのだ。
期待に応えられる自信はない。
「ホタル様」
アルス殿下の声に、私は深く沈んでいた思考から引き戻された。
「はい」
「まずは、ご心配されていることもあるでしょうから、そちらからお話ししましょう」
殿下は一度、言葉を区切った。
「我々は、ホタル様を召喚したからといって、何かを強制するつもりは毛頭ありません」
……あれ?
身構えていたものとは違った。
ブラック企業の社員並みに過酷な労働を求められると思っていたのだけれど。
言葉だけかもしれない。
それでも、なぜか私は、この人なら信頼できる気がしていた。
「もちろん、英雄召喚には王国としての目的があります。しかし、それを理由にホタル様の意思を無視してよいとは、私は考えていません」
「それは……」
思わず、言葉に詰まった。
異世界召喚といえば、世界を救うだの、魔王を倒すだの、何かしらの使命を押しつけられるものだと思っていた。
いや、別にそんな展開を望んでいたわけではないけれど。
「ただし、アレのように、この国の意思は一枚岩ではありません」
……アレ、じゃなくて、ルートヴィヒ殿下か。
さっきのやり取りを思い出し、思わず納得してしまった。
あの様子を見る限り、王族だからといって、全員が同じ考えを持っているわけではなさそうだ。
アルス殿下は、まっすぐに私を見つめた。
「ホタル様は、元の世界へ帰りたいとお考えですか?」
その問いに、迷いはなかった。
「はい。帰れるのなら、帰りたいです」
「……承知しました」
殿下は静かにうなずいた。
「では、その可能性について、現時点で分かっていることをお話しします。それまでのわずかな時間、我々に猶予をいただきたいのです」
その表情は、先ほどまでの穏やかなものとは少し違っていた。
切実さを帯びた眼差しに、思わず息を呑む。
……帰る方法が、簡単には見つからないということなのだろうか。




