第八話 クズの魔法使い
「どうやら魔法使い様にはお見通しだったようですね」
「……みたいだな」
アッシュが部屋を後にしたのち、遊佐千早は大きなため息をついて天井を見上げた。
人類史上初であろう本物の魔法使いとの邂逅。それは遊佐千早から驚愕以外の言葉を奪った。
遊佐は、壁に預けていた背を離し、先ほどまでアッシュが座っていたベッドへと視線を落とす。そこには、体温の代わりに、先ほどまでの「耳鳴りがするような静寂」の余韻だけが残っていた。
「一時間か……。あの短時間で、僕らの世界の常識がどれだけ塗り替えられたと思う?」
「測定不能、といったところでしょうか。電磁波の異常などという科学の物差しでは、到底測りきれない存在です」
早乙女が手元のタブレットに視線を落としながら淡々と応じる。その声は平坦だが、指先が微かに震えているのを遊佐は見逃さなかった。
(万が一に備えて周囲に配置した戦力も難なく看破したんだ。緑が取り乱すのも無理はない)
アッシュが語った異世界の理。
魔力という未知のエネルギーを消費し、世界の法則を書き換える現象。
そして何より、深手を負った状態ですら、「不用意に近づけば死を招く」と直感させるあの圧倒的な威圧感。
それは監視と協力体制の確立。そして万が一、魔法使いが制御不能に陥った際の「処分」といった、あらゆる事態を制御下に置いていると自負していた遊佐でさえ、アッシュの底知れなさには戦慄を禁じ得なかった。
「彼が言った『今の十倍の戦力』っていうのも、おそらく謙遜か、僕らへの最低限の配慮だろうね。実際には、どれだけ並べたところで、魔法一つで無に帰されるかもしれない」
遊佐は自身の喉元を軽くさすった。
アッシュが去り際に残した言葉。それは協力者としての助言であると同時に、「次はないぞ」という明確な境界線の提示でもあった。
「まるで首筋に刃を当てられたまま、握手を交わした気分だよ。いったい、見逃されたのはどっちだったのやら」
「そうですね。もしかすると私たちは、自分たちが考えている以上に危うい世界の淵に、足を投げ出しているのかもしれません」
その言葉に、早乙女は手元のタブレットから顔を上げた。
「ですが、握らざるを得ない手であったことも事実です。彼という存在以外に、この先の『異常』に対抗する術を、私たちは持っていませんから」
「……分かってるよ。だからこそ、こんな分の悪い賭けに乗ったんだ」
遊佐は苦笑を浮かべ、窓の外、平和を謳歌する街の明かりを見つめる。
あの灯りのすぐそばに、これほど得体の知れない怪物を解き放ってしまったのだ。
自分たちが必死に守ろうとしている平穏など、アッシュという劇薬の前では、もう何の保証にもならないことを遊佐は痛感していた。
***
政府との取引を成立させた日から数日。
アッシュは、騒動が起こる以前と変わらない平和な日常の中にいた。
「お前さえいなければ文句なしだったんだがな」
深いソファに身を沈め、アッシュは隣でせっせと茶の準備をする白澄凛子を冷ややかな目で見やった。
重要参考人という名の容疑を帳消しにする条件。それは、この小娘を「お目付役」として側に置くことだった。
(……甘く見られたものだ)
政府の連中は、アッシュが凛子を庇ったという事実を、彼を制御するための「取っ手」が見つかったと解釈したらしい。情に脆い異邦人。それが彼らのアッシュに対する暫定的な評価だ。
その見立てに鼻で笑いながらも、アッシュはこの条件を呑んだ。
本職の監視員に二十四時間寝首を掻かれる機会を窺われるよりは、裏表のない素人に付きまとわれる方が遥かにマシだ。それに、この小娘を側に置くことには、不本意ながらも明確なメリットがあった。
白澄凛子は、国内でも有数の財閥――白澄グループの令嬢だった。
両親は既に他界しているというが、溺愛しているという祖父の威光は凄まじい。アッシュが運び込まれ、「入院」という名目で寝かされていたあの豪華な一室も、今こうして過ごしているこの豪邸の一部に過ぎないという。
望めば高級な食事も、清潔な衣服も、それこそ貴族のような待遇が叶う環境。不満があるとすれば、その「代金」として、この落ち着きのない小娘がどこへ行くにもついてくることくらいだ。
「アッシュくん、読み終わった本は本棚にしまってって何度も言ってるでしょ」
凛子が呆れたように、しかしどこか弾んだ声でお茶を淹れ始めた。
アッシュはソファに深く身を沈め、その無防備な背中を冷めた眼差しで眺める。
「……お前はやはりバカなのか?」
「……どうしたの、藪から棒に。せっかくお茶淹れてあげてるのに」
凛子はクスクスと笑いながら、カップに琥珀色の液体を注いでいく。
「別に。ふと、疑問に思っただけだ」
この世界の住人にとって、魔法使いなどという存在はフィクションか、せいぜい未知の超能力者程度の認識なのだろう。だが、アッシュの故郷では違う。かつては女神の「祝福」を授かった「祝福者」などと持て囃されたこともあったが、今やそれは積み上げられた数多の残虐な所業によって、「畏怖」と同義にまで成り下がっている。
(こいつは、自分が今、どんな化け物を隣に置いているのかすら理解していない)
凛子がカップを盆に乗せ、こちらへ歩み寄ってくる。アッシュは自嘲気味に口角を上げた。
「魔法使いは、お前らとは違う種類の生き物だ。能力云々の話じゃない。もっと根本的な、存在の在り方の問題だ。それは、少なからず直に接触したお前にも理解できたはずだろう」
凛子は一瞬、茶を運ぶ手を止めた。アッシュはその僅かな隙を逃さず、突き放すような言葉を重ねる。
「倫理観なんてない。アレは、人の皮を被っているだけの化け物だ。……そんなものを隣に置いて、平然と茶を淹れていられるお前の神経が理解できん」
だが、凛子はすぐに困ったような笑みを浮かべ、アッシュの前のテーブルに静かにカップを置いた。
「化け物、ね。……でも、その化け物が私を助けてくれたのは事実でしょ?」
「……それはただの気まぐれだと何度も言ったはずだ」
「ええ。でも助けてくれた。アッシュくんなら見て見ぬふりも出来たし、その危険性もよく分かっていたはずなのに……また助けに来てくれた。私はそれが嬉しかったの」
凛子はそこで一度言葉を区切り、愛おしそうに目を細める。
「それにね、そのお陰であの日できなかったお父さんとお母さんのお墓参りもできた。あなたには感謝しかないわ」
だから怖くない。そう言うように微笑む凛子に、アッシュは小さく目を見開いた。
アッシュからすれば、そんな事情は知る由もなかった。あの日、あの時、あの場所で彼女を救ったのは、本当にただの気まぐれであり、全ては偶然が産んだ結果に過ぎない。
「……バカもここまで来ると才能だな。次、同じことがあれば、俺は躊躇なく見捨てるぞ」
「その時はその時。でも、今はまだここに居てくれるんでしょう?」
凛子は全く堪えた様子もなく、むしろいたずらっぽく笑って見せた。
アッシュは忌々しげに顔を背け、差し出された茶を啜る。喉を通る熱さは、かつて学院で味わった泥水のような薬草茶とはあまりにかけ離れた、酷く落ち着かない安寧の味がした。
「……フン、毒でも入っていれば見捨てやすかったんだがな」
「入れるわけないでしょ。それより、遊佐さんから連絡があったわ。明日、一度顔を出してほしいって」
凛子の言葉に、アッシュの眼光が鋭さを取り戻す。
「……ようやくか」
恐らくここ数日、アッシュが遊佐と協議を重ねていた事案に結論が出たのだろう。
その内容とは、あの日アッシュが切り捨て、政府が回収・拘束した「もう一人の魔法使い」の処遇についてであった。
(そのまま死んでくれていたら、楽だったんだがな。やはり、あの程度では殺しきれなかったか)
原理上、完成度にさえこだわらなければ、魔法使いが魔法の行使に困ることはない。術式という設計図を理解し、燃料となる魔力さえあれば、属性や才能の有無に関わらず現象を引き起こすこと自体は可能だ。
だが、それを扱うのが「人」である以上、どうしても得て不得手が生じる。脳裏に描くイメージの鮮明さや、理の解釈の深さ。人によって理由は様々だが、魔法使いの間に魔力量以外の「格差」が生まれるとすれば、そこだった。
ゆえに、魔法使いは命のやり取りをする極限状態ほど、己の魂に馴染んだ得意魔法を使いたがる。
そして、あの日アッシュが相対した魔法使いも、まさにそのタイプだった。
(奴が火属性を専門としていたからこそ、俺の策に嵌め、出し抜くことができた。……だが、同時にその専門性が奴の火耐性を底上げし、決定的な死を遠ざけもしたわけだ)
皮肉な結果だと、アッシュは内心で毒づく。属性の相性は、勝利の鍵になると同時に、敗者を生き長らえさせる枷にもなる。
(……それにしても、魔力が底を突きかけた状態でトラックに跳ね飛ばされて、まだ息があるとはな。魔法使いの頑健さというのは、やはりこの世界の基準からすればデタラメだ)
あの鉄の塊に轢き潰されてなお「生存」という結論を出す同族のしぶとさに、アッシュは忌々しさと、どこか冷めた感心を覚えずにはいられなかった。
アッシュ個人としては、あの魔法使いをこれ以上生かしておくつもりはない。いかに深手を負っていようと、魔法使いは存在そのものが予測不能な危険分子だ。とっとと息の根を止めるのが、最善かつ唯一の正解だと考えている。
だが、魔法使いという存在に関する知見が絶望的に乏しい政府側が、その提案に即座に頷くことはないだろう。事実、ここ数日の協議において、遊佐の意向は「徹底した管理とサンプルの解析」という方向で一貫していた。
(異世界の脅威を解明し、手中に収めたいという欲求か。……あるいは、単なる無知ゆえの慢心か)
アッシュは内心で冷笑する。彼らにとって、あの男は「珍しい研究対象」に見えているのかもしれないが、アッシュから見れば、それは「いつ爆発するか分からない不発弾」を抱え込んでいるに等しい。
(まあ、いい。管理において留意すべき致命的な事項は既に共有済みだ。あの遊佐という男なら、万が一にも管理ミスで死人を出すような下手は打たないだろう。……それに、仮に逃げ出すようなことがあったとしても、魔力が底を突いた今の状態なら、この世界の武力でも制圧は容易いはずだ)
ここで問題となるのは、やはりこちらが常に後手に回らざるを得ないという点だった。
次にこの世界へ送り込まれる「異常」が何なのか。それが意志を持つ魔法使いなのか、あるいは本能に従うだけの魔物なのか。その時期も、場所も、規模も、こちらには知る術がない。
戦力としての頭数は確保できても、この世界の技術では予兆を掴むことすら叶わない。情報の不在は、死に直結する。
どれほど強固な檻を作ろうと、嵐がどこから来るか分からなければ、結局は翻弄されるだけだ。そんな不可視の脅威への苛立ちが、アッシュの表情を無意識に険しくさせていた。
「アッシュくん? さっきから黙って、どうかしたの?」
不意に横から声をかけられ、アッシュは思考の淵から引き戻された。
「……別に、この世界の乗り物の破壊力が案外大したことがないと思い返していただけだ」
「何言ってるの。普通は死ぬわよ、普通は」
「それで死ななかったからこそ、余計な面倒が増えたと言っているんだ。……せめて、すぐに口が利ける程度の余力が残っていれば、まだ使い道もあったんだがな」
「使い道って? まさか、また戦わせるつもり?」
「いや、尋問だ。奴から向こうにいるクソ野郎の様子を聞き出すことができれば、ある程度の対策……いや、付け入る隙くらいは見えてくるからな」
アッシュの声には、かつての同族に対する同情など微塵もなかった。あるのは、効率的に情報を引き出そうとする冷徹な計算だけだ。
「……その、必死に探ってる相手っていうのは」
「――ヘリオス・ノクス・ルミナリア。俺をこの世界に叩き落とした張本人であり、史上稀に見るクズの中のクズ野郎だ」
その名を口にした瞬間、アッシュの周囲の空気がわずかに凍りついた。吐き捨てるような語調には、単なる敵対心を超えた、根深い憎悪と侮蔑が混じっている。
「でも、相手は一人なんでしょ? こっちにはアッシュくんもいるし、政府の人たちだって協力してくれるんだから、なんとかなるんじゃ……」
「あいつが『ただの魔法使い』ならそうだったかもな。だが一つ言えるのは、あのクズが噛んでいる以上、この程度の混乱で済むはずがないってことだ」
アッシュがそう言い捨てた、その時だった。
突如として、白澄邸の敷地内に、聞いたこともないような高音のアラームが鳴り響いた。政府から支給されていた「異界反応」の検知端末が、既に手遅れだと言わんばかりに悲鳴を上げている。
「――っ!?」
直後、空を割るような巨大な轟音が響き渡り、邸宅の頑強な窓ガラスが激しく震えた。
アッシュと凛子が反射的に見上げた空には、太陽の光を遮るほどの巨大な影。
鋼のような鱗に覆われた翼を広げ、咆哮を上げるその姿は、この世界の生態系には決して存在し得ない「飛竜」そのものだった。
「……ほらな、言ったそばからこれだ」
アッシュは忌々しげに天を仰ぎ、震える手で自身の肩を掴む凛子を横目に、吐き捨てるように言った。
「やっぱ碌なもんじゃないな、魔法使いってのは。嫌なところを的確に突いて来やがる」
「それは同感だけど、どうするの……!? あんなの、ヘリが来てもどうにかなるか分かんないよ」
絶望的な表情の凛子に対し、アッシュは冷ややかに口角を上げた。その瞳には恐怖など微塵もなく、あるのは獲物を品定めするような、冷徹な計略の色だけだ。
「決まってんだろ、迎撃すんだよ。コイツでな」
アッシュが意気揚々と手に取ったのは、魔法の杖でもスクロールでもなかった。それは、先日の協議の際に軍備から「拝借」し、この屋敷に私物として持ち込んでいた現代兵器――最新型のロケットランチャーだった。
「え? 魔法で戦うんじゃ……」
「馬鹿か。常識的に考えて、俺の魔力量であんな化け物に勝てるわけないだろ。資源管理は魔法使いの基本だぞ」
肩に無機質な鉄塊を担ぎ、熟練の兵士のような手つきで照準を合わせるアッシュ。その姿には、かつて悪逆非道な魔法使いと勇ましく戦った英雄としての面影は微塵もない。
「……いや、魔法使いが常識語らないでよ。っていうか、それ魔法使いとして色々といいの??」
「黙れ。使えるもんは使う、それが魔法使いとしての俺の在り方だ。……だが安心しろ、これでも付与魔法くらいは使ってる」
最新科学の結晶に、異世界の術式を上書きする。本来なら神秘の象徴であるはずの力を、単なる弾火力の底上げという実用的な目的のためだけに使い潰す。その徹底した合理主義は、傍目には本物の化け物よりも無慈悲に映ったかもしれない。だが、アッシュにとってそんな感傷はどうでもよかった。
「ファンタジーなんてクソ喰らえだ。同郷だろうが、なんだろうが、俺の邪魔をするなら潰す」
「もう言ってる事が完全に悪役のそれなんだけど……」
「そんなことよりボーッとしてる暇あんなら、さっさと替えのロケラン持ってこい。怯んでるうちに、一気に畳み掛けるぞ」
「……はいはい。もう、好きにして」
凛子は溜息をつきながらも、追加の弾頭を抱えて走り出した。
空を舞う幻想的な怪物と、それを近代兵器で迎え撃つアッシュ。
救世主になるつもりも、正義の味方を演じるつもりもない。
ただ生き延びるために、あらゆる手段を使い潰し、奪い、食らう。それだけだ。
かつて「灰被り」と呼ばれた落ちこぼれの魔法使い——アッシュ・ヴェイルは、このいつ崩れるとも知れない、奇妙な安らぎに満ちた世界を、一歩ずつ、確実に踏みしめていく。
その拳に宿る、決して消えることのない殺意と、合理の魔力を携えて。
いつか来るであろう、あの「クズ野郎」との再戦を待ち侘びながら。
——クズの魔法使い 【完】




