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幸凶至片  作者: 忍原富臣
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死後転生 その1

 もう何度目の死なのか数えることも諦めた。死んで目が覚める度に身の回りの環境が様変わりし、人生をやり直し続けている。ある時、車に轢かれて即死だったはずの私は姿形を変えて別の人間の人生を歩んだ。自我も確立していない小学生や中学生に移り変わることが多い。成人した人間に移り変わったことは一度も無い。自分という存在を認識した人間には変われないのかもしれない。何度も他人に移り変わる度にそんな仮説を立てていた。


 私はまた死にかけている。通り魔に不意に後ろから刺された。気絶しそうなほど痛いのにその痛みで現実に引き戻される。どくどくと脈打つ傷口がどこにあったのかという程の血液をこれでもかと吐き出し続けている。やり直し先で通り魔に殺されるのは初めてだった。意識が飛びそうだが直前に引き戻される、この繰り返し。死ぬに死ねないとはこのことなのだろう。実際には「死んでも死ねない」が正しいが、なんて皮肉を交えながら私は痛みに苦しんだ。


 通り魔は私の視界の範囲で別の人間に襲いかかっていた。痛み無く死にたい。そんな思いも空しく激痛で口からも違うものがこみ上げてきて吐きそうになる。死ぬなら早く死んでくれ。中学生になりたてのこれからの人生だっただろうに。可哀そうなことをした。いや、そもそも、ここに居るこの子は私であり、元居たこの子は何なのだろう。気が付いたら私はこの子になっていた。ああ、劇場の幕がふっと降ろされるような視界の暗転、多分死んだ。


 大抵は死ぬ直前で視界が暗転し数秒の時が止まっているような感覚を覚える。電車に揺られている時の、気が付けば目的地に着いていたというような、あの長いはずの短い時間を死ぬ時に感じる。分かってもらえるだろうか。知らぬ間に目的地に着いていたような、そんな感覚。


 次は幼稚園児からの始まりだった。園内の遊具、砂場で遊んでいたのか、手元にはスコップを持っている。この子の親であろう母親が手を振りながらこちらへと向かっているのがなんとなく分かる。待たせてごめんねという母親に大丈夫だよと言おうとしたが言葉にならなかった。小さすぎると身体は動かしづらい上に言葉も私の知っている言葉・記憶は反映されない。私が発しようとした言葉は別の形で変換される。


 多分だが、生命的な制限があり、私という思念がこの子の体を介す時に、その制限を超えた言動をしようとすると不具合を起こして奇妙な行動をとってしまう。別に泣きたいわけでもないのに泣いてしまったり、人間の暖かみに触れたくなってしまう。どこまでが私という可動域なのかを確かめながら行動しないと、精神科に連れて行かれてしまうことが度々あった。何度か別の人生で連れて行かれて散々な目にあったので、基本的に無茶な行動はしないように心掛けている。


 ああ、私はあと何回、何十回、「誰か」の人生を過ごさねばならないのだろう。


 何回も繰り返しているうちに私なりの仮説を立ててみた。生まれたての生命は心を入れるための器として生まれる。そして、物心がついた頃には私のような思念がその器の中へと入る。だからこそ、赤ちゃんの時の記憶が欠如する。ただ、人生を渡り歩いている時にこういった話をすると、決まって相手は気分が悪そうな顔をする。まあ、元居るはずの今の自分が、小さい頃に別の器に乗り移っていた思念だと言われれば複雑な気持ちになるのも無理はない。いや、そもそも子どもの幼少期にこの思念が存在するのかということも調べなければ分からない。私のように別の人間の器に入ってしまった者が他に居ないか、時々気になるが私には探す術がない。それに、それを成し遂げようと大人になる頃には人生に重きを置いてしまうため、その行為をしようという気が起きないのが現状だ。


 母親の家に着いて、これからまた人生が始まる。何時間、何日、何年、何十年、この身で再び人生を歩き出す。全く無関係の場所からもう一度人生を始めなければならないというのは、中々気が進まないものだ。リスタート、「あの時ああしていれば……」なんて、もう全部やり直した。実際の所、結果的に人生に正解など無かった。何をしたって間違いは起きる。人間に完璧は存在しない。良好な人間関係、会社の成績、多種多様な人生を歩んでいるせいである程度の業種も対人関係も制覇してしまった。結果、「人間には深く関わらない」というのが人として一番正しい生き方だった。誰かと居ると心苦しくなる。私の好き嫌いは直接相手に届くが、相手の好き嫌いは私ではなく器にしか届かない。誰も私を私とは認識できないのだから仕方がない。だが、それはとても寂しく虚しいことだと知った。


 こうなってからというもの、死ぬということが全くもって分からない。人間は心臓が止まれば死ぬ、体が消えれば死ぬものだと思っていた。一番最初(と言っても一番最初に死んだ自分ですら、こうなった今では本当の自分かも分からなくなってしまうが)、私が最初に死んだと思う死も突然と言えば突然だった。視界は暗転し、体の自由が利かずに道端にゆっくりと倒れていった。暗転しながらも少し斜めに崩れていく感覚が今でも記憶に残っていて、絶叫の、ジェットコースターを乗った時の、一番上から降りる瞬間の心臓がくっとなるような、あの感覚に近いかもしれない。気が付いた時には幼稚園児になっていた。最初は喜んだものの、今までと全く異なる環境で過ごすというのはもはや自分ではないことに気が付き、あまり気分の良いものではなかった。そうしてまた死んだ時、次は小学生となっていた。


 自分ではない体を動かしては何度も何度も人生をやり直さなければならない。何か達成しなければならない目標があったわけでもなく、誰かから、人生の中で達成しなければならない課題を出されたわけでもない。時々、死というものについて考えることは確かにあった。死んだ後、体は消失しても魂というものが残ると思っていた。心、魂、記憶、人間の三種の神器は存在するのだと信じていた。だからといって学者でもなければ、心理カウンセラーのような仕事をしていたわけではない。単純に独りで考えることが多かった。独りで心の深層に入り込もうとする癖があり、誰かと居ても何処か自分は別の空間に存在しているような、そんな感覚を抱いていた。


 もし、身体的な死を死と言わず、精神的な死を死というのなら、本当の死というものは存在しないのかもしれない。自分がこういう立場にあるのだから尚更死という実感が遠のいていく。


 人間は自分で確認出来るものしか承認することが出来ない。私がいくら「あの時の事故で死んだ○○だ」といった所で何も証明にはならないだろう。それに、大元の記憶は確かにあるのだけれど、大半の記憶は切除されているのか、断片的にしか思い出せない。ただ、大半の記憶が無いとは言っても、時々思い出すトラウマはしっかりと魂に刻み付けられている。


 輪廻転生、人間は死に、再びこの世に生を受けては、その循環を繰り返す。日本の宗教か仏教か詳しくは興味がないため分からないが、そういった考え方だ。ただ、今の私の状況を文字通りにするならば死後転生と言えるだろう。


 魂、心の価値を測り、次の段階へと進めた時に輪廻から解放される。生と死、両方からの解放とも言えるだろう。つまりは死んだ時に本人価値を誰かが定めている。それが何者かは分からない。それは自分自身なのかも知れない。全くの無意識の中で眠ったままの自分が死んだ時の反動で目覚め、その時までの自分を遡り経験を感じ、思考を読み取り、溢れる感情を全て飲み込む。そうして得た情報から次の段階へと進めるか、それとも、人間をもう一度やり直すかを選択する。ただ、無意識の自分が居るとするなら、そもそもこうして居る自分は何なのかという疑問を生んでしまう。考えた所で何も変わらないのは分かっているが、深く掘り下げていくと辿り着きそうで辿り着かない真理のようなものを身近に感じることが出来る。


 そもそも人間の真理に辿り着けるのなら、こんな暇つぶしのような、人生ゲームのような人生の繰り返しからもうとっくの昔に抜け出せていただろう。最後の詰めが甘いことは自分の難点でもある。

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